第6話『撤退の横須賀、明かされる絶望(前編)』
三陸沖の地獄のような海域から、致命傷寸前で逃れ延びた海上自衛隊の護衛艦「きりさめ」と米海軍駆逐艦「ジョン・ポール・ジョーンズ」。 黒煙を上げ、右舷を大きく沈ませた日米の艦隊が、重苦しい静寂に包まれながら神奈川県の横須賀基地へとようやく帰還したのは、日付が変わる頃だった。
岸壁には、突然の事態に最高警戒態勢を敷いた自衛隊の警備部隊と、在日米軍の関係者たちが慌ただしく走り回っていた。 タラップが降ろされ、ボロボロになった制服のまま海洋護が艦から降りてくる。その表情は、40年の軍歴の中でもかつて見たことがないほど険しく、泥と潮にまみれていた。
「護さん……! 一体、沖合で何があったんですか!?」
待ち受けていた若い幕僚が駆け寄り、心配そうに声をかける。しかし護は無言のまま片手で制し、ただ「すぐに統幕長と官邸へ連絡を入れろ」とだけ低い声で命じた。
「……武器の撃ち合いですらない。人類は、自分たちが海の底から一番遠い場所にいると勘違いしていただけだ」
「は……?」
護のすぐ後ろから、アメリカ海洋研究所の白衣の男――スコッチネルが、ぐったりとした足取りでタラップを下りてきた。彼の右手には、タコ部隊の突撃時に採取された、ほんのわずかな「組織の断片(極めて特殊な神経組織の残りカス)」が入った密閉ケースが握りしめられている。スコッチネルの顔面は青ざめ、目には隠しきれない恐怖の光が宿っていた。
「おい、日本のオフィサー。部下にそんな呑気なことを言わせている暇はないぞ」 スコッチネルは護の脇に歩み寄り、冷ややかな声で吐き捨てるように言った。 「あの海域で、やつらが我々に向けたのは『攻撃』じゃない。『ただの挨拶』だ。あんな高圧ジェットと隙間侵入を、連中は本気の一割も使っていなかった……。本気でその気になれば、我が国の空母機動部隊だろうが、一瞬で太平洋の底に沈めるだけの知性と計算が、あの海の底には存在している」
「……その分析データは、本艦のラボでも確認した」 護は奥歯を噛み締めながら、スコッチネルのケースを一瞥した。 「中国の潜水艦でもなければ、秘密兵器でもない。……地球の底にいる『異形の覇者』だ。この報告をそのまま日本の首相官邸へ、そして即座にペンタゴン経由でホワイトハウスへ直通させろ」
東京・永田町の首相官邸、その最奥にある極秘の暗号通信室。 「きりさめ」からの第一次被害報告と、スコッチネルが持ち帰った戦慄のデータは、瞬く間に日米両政府の最高中枢へと叩きつけられていた。
党内の派閥抗争と支持率の低下に頭を悩ませ、日々世論の顔色ばかりを窺っていた総理大臣・茹蛸総理は、差し出された報告書の文字を読み進めるうちに、かつてない冷や汗を背中に流していた。
「な……なんだこれは……。中国の新型潜水艦ではなく……タコ……? 海の底の生物が、我が国の護衛艦をボコボコにしたというのか……? 馬鹿な、そんな冗談があるか!」
総理の側近や官僚たちが青ざめた顔で言葉を失う中、セキュア回線の巨大モニターに、ワシントンのホワイトハウスから重苦しいノイズと共に映像が接続された。
画面の向こうに現れたのは、アメリカ合衆国大統領・ジョン大統領だった。 名門の血筋を誇り、就任以来アメリカの圧倒的な覇権を示すことに意欲を燃やしていたジョン大統領の顔から、平時の余裕は完全に消え失せていた。その傍らには、ペンタゴンを代表してリー将軍と、例の異端児スコッチネルが同席している。
『……ユデタコ・プライム・ミニスター。冗談ではない。そちらの自衛隊と我が軍の精鋭が受けた被害を見れば、それが現実だと分かるはずだ』
ジョン大統領の声は低く、どこか震えていた。 『我が国の調査チーム、そしてスコッチネル博士の分析によれば、我々はすでに地球の主権を脅かす「未知の知性体」と全面戦争の瀬戸際に立たされている。いや――すでに戦争は始まっており、我々は初戦で完敗しかけたのだ』
画面越しに、日本側の最高指導者である茹蛸総理と、アメリカの最高権力者であるジョン大統領。 二人の国のトップが、いまだかつてない「底知れぬ恐怖」を共有し、密かに、しかし決定的な扉を開こうとしていた――。
(つづく)




