第6話 甘い夜の余韻
長い夜が、ようやく明けた。
窓の向こうが白み始め、鳥のさえずりが静まり返っていた校舎に響いた。
足元に置いた懐中時計を拾い上げてそっと蓋を開くと、針はもうすぐ六時を指すところだった。
私は、壁に寄りかかるようにして眠るクレイの肩を、そっと揺すった。
「クレイ、起きて」
彼は眉を寄せながら、ゆっくり目を開ける。
寝ぼけた表情で私を見つめると、不審そうに目を細めた。
だが、すぐに自分たちが置かれた状況を思い出したのだろう。
彼はハッとしたように目を見開くと、体を起こして周囲を見回した。
「ああ、おはよう……いつの間にか眠ってたみたいだ」
クレイは空いた手で口元を押さえ、欠伸を噛み殺しながら呟く。
私もつられて、思わず大きな欠伸をしてしまった。
硬くて冷たい石の床の上でじっと夜を明かしたせいで、関節が軋むように痛む。
「ミリ……は、眠れた?」
「大丈夫」
強がってみたものの、実際はほとんど眠れていない。
深夜に何度か寝落ちしかけたものの、緊張が解けないせいか、わずかな音や肌寒さに跳ね起きるように目を覚ましてしまったのだ。
(眠い……)
霞む目を擦りながら、時計が六時を回ったのを確認し、私はくくっていた紐を解いた。
クレイの手をそっと離すと、一晩中互いの手を強く握りしめていたせいで、重なり合っていた指には、くっきりと赤い痕が残っていた。
まだ手のひらに熱と感触が残っているようで、どうにも落ち着かない。
私は自分の指をさすりながら、大きくため息をついた。
(うう、あと二晩……)
恥ずかしさと気まずさで、まともにクレイの顔すら見れない。
それなのに、当の本人は気にした素振りもなく、どこか上機嫌にも見える。
「一緒にいるところを見られたらまずいから、クレイは先に寮へ戻って」
「わかった」
私の言葉に、クレイはゆっくりと身体を起こして立ち上がる。
そして、迷いのない足取りで階段下から出て、身長よりも高い位置にある廊下の窓を見上げた。
彼が淀みなく詠唱をすると、カチャリと音を立てて鍵がひとりでに動き、するりと窓が開いた。
続けて足元に淡い魔力を纏わせると、軽く床を蹴る。
しなやかな猫のような身軽さで高い窓枠へ飛び乗り、注意深く外の様子を窺った。
人の気配がないことを確認すると、ふっとこちらを向いた。
「またあとでね」
私が頷いて小さく手を振ると、クレイは嬉しそうに微笑んで応えた。
そのまま軽やかに外へ出て行き、靴音が遠ざかっていったところで、私はようやく全身の力が抜けて、その場に倒れ込んだ。
両手で自分の顔を覆う。
(……み、身が持たない……!)
◆ ◆ ◆
クレイが出て行ってから、怪しまれない程度に十分に時間を置き、私も旧校舎の窓から抜け出した。
まだ肌寒さの残る校庭を、誰にも見られないよう細心の注意をはらいながら、足音を忍ばせて女子寮へ戻っていく。
六時を過ぎれば朝の部活や自主練のために登校する熱心な生徒たちがちらほらと動き出すため、寮の玄関は解錠されていた。
私はさも清々しい朝の散歩から帰ってきたていを装い、自分の部屋へと戻ってきた。
ただ、自室と言ってもクラスメイトとの相部屋だ。
なるべく音を立てないよう、ノブを静かに回して部屋の扉を開く。
狭い室内に並んだふたつのベッドの片側には、私のルームメイトであり、気心の知れた友人でもあるセナが眠っていた。
彼女は帰宅した私の気配に気づく様子もなく、安らかな寝息を立てている。
私も今すぐベッドへ倒れ込みたかったが、無情にも朝食の時間が迫っている。
眠い目をこすりながら、自室の棚から目当ての小瓶を取り出す。
ラベルには、大きな文字で、『暁醒薬』と書かれていた。
服用した瞬間に頭が冴え渡るほど強い効力を持つ薬だが、効果が切れた途端、気絶するように寝落ちしてしまうという厄介な副作用がある。
使い勝手が悪いので、ずっとしまい込んでいた代物だ。
瓶を握ったまましばらく躊躇っていたが、ほとんど眠らずに魔力を循環させ続けた体は限界を迎えている。
(さっきから、ずっと壁と床がうねってる……)
眠い、眠すぎる。
これでは授業どころではない。
私は意を決し、瓶の液体を一気に飲み干した。
すると、ほどなくして身体に魔力が駆け巡り、鉛のように重たかった頭の中が、急速に冴え渡ってきたのを感じた。
無意識に丸まっていた背筋が、すっと伸びる。
何度か瞬きをすると、滲んでいた視界の輪郭が嘘のようにはっきりした。
(劇的すぎて、恐ろしくなってくるわ……)
シャワーを浴びてさっぱりしようと準備を始めていると、私の立てた物音に気づいたのか、ベッドで眠っていたセナがうめき声を上げながら、うっすらと目を開いた。
「んん……? 珍しく早いのねえ、ミリ」
セナは大きな欠伸をしながら、間延びした声で言った。
上体をゆっくりと起こしながら、手ぐしで艶のある黒髪を整えるように撫でる。
私が昨夜部屋を抜け出していたことにはまったく気づいていないようだ。
ほっと息をついた。
「なんだか目が冴えちゃって」
「ずいぶん顔色も悪いみたいだけど……」
セナはそう言いながら、心配そうに私の顔を見つめてくる。
私はそっと自分の目元に指を当てた。
目の下に、酷い隈ができているのかもしれない。
「もう卒業式も目前なんだから、体調崩さないようにね」
「分かってるわよ」
話はそこで終わるかと思っていたのだが、セナは言い足りなさそうに唇を歪めている。
なんだろうと不審に思っていると、彼女の視線は部屋の隅のハンガーにかけられたドレスに向かっていた。
「ねえ、あんた本当にパーティへ来ないつもりなの?」
「うん」
セナは心底呆れた様子で、不満げに私を見上げる。
「欠席したら一生後悔すると思うわ」
「……」
(禁書を読めなくなるほうが、一生の後悔になるんじゃないかな……)
心の中でそう呟いてみるものの、禁書のことはセナにも内緒だ。
私が曖昧な苦笑いで返事を濁すと、彼女は呆れたように肩をすくめる。
「気が変わったら、予備のドレスを貸してあげるから言いなさいよ」
「みんな、そんなにパーティが好きなのね」
「あんた、本当に何も分かってないの?」
セナは片手を頭に当て、やれやれと大袈裟に首を振ってみせる。
「ずっと恋愛禁止だったんだから、卒業パーティで勝負に出るしかないのよ!」
「勝負?」
「好きな相手に告白すんの! 貴族のボンボンと付き合えたら玉の輿でしょうが」
セナは鼻息を荒く熱弁を振るうが、何を言われても私の心はぴくりとも揺れなかった。
視界の隅に映る美しいドレスを見ても、何の感情も湧かない。
「……そっかあ」
「……」
セナはもはや言葉もないといった様子で、ため息をついた。
私はベッドから滑り出て身支度を始めるセナをぼんやり眺めながら、自分の右手に視線を落とす。
(クレイはどうなんだろ)
ふと頭をよぎった瞬間、胸が再び痛む。
多少手順が狂っても、四日間という猶予があれば十分間に合うと思っていた。
けれど、もし卒業パーティまでに禁術が解けなかったら――それは彼にとって、相当まずい事態になるのではないか。
私の不始末のせいで、クレイの恋を潰してしまうかもしれない。
湧き上がる罪悪感に、胸が押しつぶされそうになる。
『――ミリ、好きだよ。』
あんな言葉を、本心でもないのに口にさせてしまうなんて。
(ほんっとうに、申し訳ない……!)




