第5話 夜の見回りと、吐息
禁術がもたらす効力の恐ろしさに、今さらながら背筋が寒くなる。
私が絶句していると、クレイは私に視線を戻した。
熱っぽい眼差しを向けられ、思わず唾を飲み込んだ。
クレイは右手で自分の首の後ろを撫でると、不満げに続ける。
「ミリのほうこそ、僕とこうしているのに平気なの?」
唐突な物言いに、一体どういう意味だろうと首を傾げる。
「どきどきしないの?」
「いや、するに決まってるじゃない」
「ほんと?」
「だって、男の子と手を繋ぐなんて初めてだし」
その瞬間、クレイの眉間に浅い皺が刻まれ、繋いだ手を握り込んだ。
「……ふうん」
そして、私の親指の付け根を彼の指の腹がなぞるように滑った。
(ん?)
私はざらりとした感触に気づき、繋いだ手をそっと持ち上げた。
暗闇の中で目を眇めて観察するが、よく見えなくてもどかしい。
もう片方の手でクレイの手を支えるように、両手で掴む。
「ミリ?」
やや上ずったような声が聞こえ、私はクレイを見上げた。
「これ、裂傷の痕よね? 傷の形からして、何かに噛まれた? 大きさからすると、三牙蜘蛛かしら?」
クレイは戸惑ったように、瞬きをする。
「違った?」
「いや。……よくわかったね」
「よく見えないけど、三本の牙痕が残ってるもの。アルディアナで、こんな痕を残す生き物はあれしかいないわ。……訓練中に噛まれたの?」
「まあね」
クレイは気を取り直したように笑うと、ため息をついて自分の指をじっと見つめた。
「先々週、第一隊の研修があってさ。たくさんの魔蟲を鷲掴みにするっていう訓練があったんだ。恐怖心を克服するためらしいんだけど」
「う、うわ……」
鋭い牙と毒を持つグロテスクな魔蟲を素手で掴むなど、想像しただけでぞっとした。
第一隊への配属は華々しく映るが、その裏では泥臭く過酷な訓練が待っているのだろう。
思わずクレイの顔を覗き込む。
すると彼はふっと笑みをつくって私を振り返った。
「心配?」
「そりゃ……」
「大丈夫。なんてことないって」
その表情は、どこか誇らしげだ。
「そんなことより、先輩たちの魔術が圧巻でね。学院で習う火炎魔術なんて、あの人たちの前じゃ蝋燭の火みたいなものなんだ。首席で受かったくらいで浮かれてたけど、自分なんてまだまだって思い知らされたよ」
そう語るクレイの瞳は、きらきらと輝いていた。
私は彼の横顔から目を逸らし、もう一度クレイの親指をなぞる。
「でも、きれいに傷は塞がっているように見えるけど」
「まだ学生だからね。特別に魔術医に治してもらったんだ」
魔術医という単語に、どきりとした。
「あっという間に傷を塞いでくれて、痛みもすっかり消えちゃった。魔術医ってすごいね。ミリも、いつかあんなふうになるんだろうな」
興奮ぎみに語るクレイの顔を見つめていると、胸の奥がむず痒くなった。
「ありがとう。そのために死ぬほど勉強したんだもの」
照れくささが込み上げ、私は小さく呟く。
するとクレイの視線がゆっくりと下がり、ペンを握り続けて胼胝が出来た私の右手の中指へそっと落ちた。
「知ってるよ」
どきり、と心臓が跳ねた。
「ミリは再生術が得意だから、きっと優秀な魔術医になれるよ」
「……私、得意な魔術のことなんて、あなたに話したことあったっけ?」
不思議に思って問いかけると、彼の長いまつ毛が静かに揺れ、目元が優しく緩む。
「ううん。でも、ずっと見てたから」
「……」
動揺を誤魔化すように、私はふーっと息を吐き出す。
「禁術って、恐ろしい効力ね。まるで、クレイじゃないみたい」
クレイは答えず、ただ整った唇を吊り上げて笑う。
否定も、肯定もしない。
その時――ガチャリ、と旧校舎の玄関の重い鉄扉を開く金属音が静寂を破った。
はっとして、二人同時に息を呑み、反射的に互いの身を寄せ合った。
靴音を響かせながら、誰かがこちらに近づいてくる。
動揺のあまり、繋いだ手が離れそうになったが、クレイが私の手を痛いほど強く握り返し、我に返る。
「……先生の見回りかも」
クレイが私の耳元に唇を寄せて、吐息とともに囁く。
耳朶をかすめた温かい呼吸に、私の身体が緊張と恥じらいで一気に強張った。
「ミリ、もっと僕の近くに寄って」
クレイが強引に私の手を自分の身体の方へ引いた。
引き寄せられた反動で、私は厚い胸板にしっかりと倒れ込む。
すっぽりと大きな腕の中に収まるような形になり、あまりの密着度に息が止まった。
クレイの身体から香る清潔な石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。
体温が服越しにも伝わってきて、思わず叫びだしそうになるのを、左手で口を押さえて必死に耐えた。
見回りの教師は周囲を魔術灯で照らしながら、コツコツと一定のリズムで足音を響かせて階段を上がっていく。
ギシ……ギシ……と階段の床板が軋む音を聞きながら、私はクレイと鼓動を感じ合うほど密着したまま、息を殺して固まっていた。
やがて足音は遠ざかり、教師は二階の巡回へ移ったようだと分かった。
いまのうちに別の死角に移動すべきか、それともここに留まるべきか。
しかし、判断を迷っている間にも、早くも上階から足音が戻ってきてしまう。
息を殺して身を固くしていると、教師は何事もなかったかのように再び階段を軋ませながら通り過ぎ、玄関のほうへと向かっていった。
再び重い施錠音が響き、しんとした静寂が落ちた。
(……行った)
そこでようやく張り詰めていたものが解け、息を吐き出す。
その瞬間、自分がクレイの腕の中に埋もれている状況を理解し、弾かれたように身体を引いた。
「ごめんなさい!」
クレイは慌てる私を見下ろすと、ふっとからかうように笑った。
「遠慮しなくていいのに」
囁かれただけで、全身が一気に熱くなる。
けれど同時に、こんな恥ずかしい真似をさせてしまっている申し訳なさで、胸が疼くように痛んだ。
「こういうことは、本当に好きな子としなきゃダメなのよ」
「だから、それがミリなんだって」
「……うう」
(術がかかっている間は、まともに話が通じそうにない)
頭を抱えたくなったが、すべては軽率だった私が悪いのだ。
暗闇の中で懐中時計を確認すると、時刻はすでに二十三時を回っていた。
眠っている間に万が一にでも手が離れて解術が失敗しないよう、あらかじめ用意していた頑丈な紐を取り出す。
二人の手首と親指を、解けないよう入念にくくりつけた。
その作業中も、クレイはずっと視線を私に注いでいる。
その眼差しに耐えきれず、私は逃げるように鞄から禁書を取り出した。
それを見たクレイが、あからさまに眉をひそめる。
「なにそれ」
「卒業までに、一冊でも多く禁書を読んでおきたいの。夜間は暇になると思って、持ってきたのよ」
「……暇? 僕がいるのに?」
「だって、他にすることないじゃない?」
するとクレイは、不機嫌そうにふいと横を向いてそのまま黙り込んでしまった。
「クレイも一緒に読む?」
「……いい」
(情緒が忙しい人ね)
心の中でそう思いつつ本を開いたものの、さすがに暗闇の中で細かい文字を追うのは困難だった。
目を細めて必死に文字を拾おうとしていると、隣でクレイが短く低い声で呪文を詠唱した。
ぽっ、と私の手元に、温かな橙色の小さな魔灯が浮かぶ。
振り返ると、クレイはまだ難しい顔をしていたが、私のために明かりを灯してくれたのだと分かった。
「ありがとう、クレイ。助かるわ」
「別に」
素っ気ない返事だったが、彼の優しさが素直に嬉しくて頬が緩んでしまう。
意気揚々と、再び本に視線を落とす。
――けれど。
視界の端で、クレイがじっと私の横顔を見つめ続けている気配が痛いほど伝わってくる。
(……気になるなあ)
しかし、ここで下手に反応すれば、またどんな甘い言葉が返ってくるかわかったものではない。
私は敢えて気づかない振りをして、必死に紙面の文章に集中した。
どのくらい時間が経っただろう。
気がつくと、隣から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
そっと視線をやると、クレイが壁に頭を預けるようにして、静かに寝入っていた。
優しい魔灯に照らされて穏やかに眠るクレイは、完璧な級長の厳しさが抜けて、どこかあどけなく見えた。
『――ずっと、見てたから』
クレイの言葉が蘇り、私は頭を小さく横に振った。
彼は禁術のせいで、感情を狂わされているだけなのだ。
頭では理解しているというのに。
あんなに真っ直ぐな言葉を向けられて、何とも思わないわけじゃない。
クレイの寝顔を見つめながら、私は禁書をぎゅっと抱きしめた。




