第2話 誰に使うつもり?
(恋愛感情……)
『対象者の恋情の有無を問わず発動可能。
付与される恋情の強度は、術者が注ぐ魔力量に応じて変化する。
過剰な魔力の注入には注意すること』
詠唱文は古代言語であるアルコ語だ。
絵とも記号ともつかない独特な文字を使う難解な言語で、私は大の苦手だった。
(これは……数字の「一」、かしら)
紙面に顔を近づけ、擦れた文字に目を凝らす。
アルコ語の「一」は、一本の枝を象ったもの。
けれど、縦に伸びた線の先は、わずかに二股へ分かれているようにも見える。
二は、二枚の葉をつけた夜草樹の枝が語源だったはずだ。
記述は活字ではなく、著者である魔術師の直筆だった。
癖のある筆跡のため、微妙なインクの滲みと跳ね具合が、解読を難しくしている。
実際に行使するつもりは毛頭ないが、詠唱は一音間違えるだけでも効果が出ないため、しっかり確認しておく必要があるのだ。
しばらく文字と睨み合っていたが、
(……やっぱり、「二」ね)
そう結論づけ、声を漏らさぬよう口の中で詠唱をなぞる。
(またあとで読み返そう)
私は項目の横に小さく切った紙片をそっと挟んだ。
そのまま欄外に視線を這わせると、そこにはそれぞれの禁術の解術方法が細かく記されていた。
薬草に頭を乗せて一晩過ごす。
黒猫の毛を三日間梳き続ける。
満月を眺めながら一時間歌う。
奇妙な方法ばかりがずらりと並び、思わず苦笑する。
(恋情操作術の解術方法は……)
その時だった。
「ローデン。こんなところにいた」
突然、背後から聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
振り返ると、すぐ近くの本棚に肩を預けるようにしてクレイが立っていた。
彼は不機嫌さを隠そうともせず、私を観察するように見つめていた。
背後の柱時計に目を向けると、寮の夕食の時間はとっくに過ぎ、消灯時間が近付いていることに気づいた。
「学食にいないから、探してたんだよ」
「わざわざ呼びに来てくれたの?」
「みんなが気にしてたからね」
「そう、ありがとう。片付けたらすぐに行くわ」
「……」
用件が済んだのなら、てっきりそのまま立ち去るものだと思っていた。
けれど、クレイは呆れたように息をつくと、私の予想に反して歩み寄って来た。
さっと血の気が引いた。
慌てて、開きっぱなしになっていた禁書のページを両手で覆い隠したが、露骨に怪しい私の挙動を見て、クレイの表情が強張る。
「なにを隠したの」
鋭い声に、ぎくりとする。
「なんでもないわ」
愛想笑いで取り繕ったものの、クレイの表情は一切動かない。
すぐ傍に立ち、訝しげに私を見下ろす。
身を固くしていると、彼は短く詠唱をした。
すると、私の両手の下にあった禁書がするりと抜け出し、ふわりと宙に浮かんでクレイの手元へ収まった。
あっ、と声を上げた時には遅く、彼はすでに紙面の文字を追っていた。
「恋情操作術?」
項目を読み上げながら、クレイの眉間に深い皺が寄る。
隠していた趣味を暴かれた恥ずかしさと情けなさで、途端に頬が熱くなり、いたたまれなくて顔を伏せる。
「こんなものを読んで、どうするつもりだったの?」
「どうするもなにも……」
「術をかけたい相手がいるってこと?」
弾かれたように顔を上げ、首を大きく横に振った。
「違うわ!」
けれどクレイは苛立ったように片手を腰に当て、姿勢を変える。
禁書を握りしめる指先には、白くなるほど力が込められていた。
他人に知られたら引かれることは覚悟していたが、まさかこれほど怒られるとは思っていなかった。
特に規律を重んじるクレイにとっては、許しがたい行為なのかもしれない。
「パーティの欠席理由って、これと関係があるの?」
「ないといえば嘘になるけど……」
クレイが息を呑む気配が伝わり、私はますます身を縮こませた。
「正直に言いなよ」
徐々に鋭さを増す声音に、肩が跳ねた。
まともな言い訳ひとつ頭に浮かんでこない。
「……クレイには関係ないじゃない」
苦し紛れに呟いてから、恐る恐る彼の顔を窺う。
私と目が合っても、クレイは不満を隠そうともせず、幼く唇を尖らせていた。
「あっそ」
クレイはふっと目を伏せると、再び禁書へと視線を滑らせた。
細い指先が、背表紙の縁を神経質にトントンと叩く。
その最中、彼の瞳がかすかに揺れた。
短い沈黙のあと、彼は何かを思案するように口元にそっと手を添え、唇を指先でゆっくりとなぞった。
ほんの一瞬だけ、その目元が緩んだように見えた。
彼が何を考えているのかは分からない。
けれど、直感的にあまりいい予感はしなかった。
生きた心地もせずに見守っていると、クレイの視線がふいに私を捉える。
すぐに表情を引き締めたクレイは、静かに禁書を閉じた。
一体何を言われるのだろうと身構えていると、
「僕は級長として、生徒の不穏な動きは教師に報告する義務がある」
彼は胸を張り、明瞭な声で言い切った。
「私が禁術を使うとでも思ってる?」
「……」
答えないクレイに、私は咄嗟に腰を浮かせた。
しかし、彼は澄ました表情を崩さないまま淡々と続ける。
「君が禁術を使おうが使わなかろうが、学院にこんな書物があることが問題だ」
「!」
その言葉を聞いた途端、心臓が強く脈打った。
「ま、待ってよ。先生に知られたら、全部処分されちゃうわ」
「そもそも、処分対象の本だろ」
「それはそうだけど!」
本棚に並んだ背表紙を振り返り、首を振る。
私一人が規律違反で叱られるのは構わない。
だが、ここにある禁書群は、老司書が我が子のように大切に保管していたものであり、私にとってもかけがえのない宝物だ。
(私のせいで取り返しのつかないことになったら……)
最悪の想像が脳内を駆け、全身が強張った。
縋る思いでクレイに向き直ると、彼の瞳が一瞬だけ迷うように揺れ動く。
しかし、彼はふいと顔を背け、息をつく。
「ごめん」
「待って、クレイ!」
私の切実な制止も聞かず、背を向けて淡々と歩き出してしまう。
その腕には禁書がしっかり抱えられており、行き先は――考えるまでもなかった。
(どうしよう!)
目眩がして、よろりと身体が傾く。
――『恋情操作術』
さっき暗記したばかりの禁術の構文が、鮮明に浮かび上がった。
(いや、だめ)
でも、このまま黙って行かせたら、大切な本が――!
遠ざかっていくクレイの背中に視線を注ぎながら、強く唇を噛み締めた。
すると、唐突にクレイが足を止めて振り返る。
月明かりの中で、まるで私を品定めするような彼の視線とぶつかる。
「僕が君にもう少し甘ければ、黙っていたかもしれないけどね」
どきりとした。
(……甘ければ)




