第1話 魔術学院の同級生
「ミリ、好きだよ」
絡み合った指先に、ぎゅっと力がこもった。
反射的に手を引こうとしたが、離してはいけないことを思い出し、寸前で動きを止めた。
おそるおそる顔を上げると、同級生のクレイが熱を帯びた眼差しで、私をじっと覗き込んでいた。
(本当に申し訳ない……)
私が禁術の制御を誤ったばかりに、こんなことを言わせてしまうなんて。
「ごめんね、クレイ。絶対に術を解くから」
しかしクレイは、やわらかく目元を緩め、甘い笑みを浮かべる。
「僕はこのままでいいけどね?」
暗がりで彼の瞳に射すくめられた瞬間、ゾクリと戦慄が走った。
(……必ず解かなきゃ)
――私のためにも!
◆ ◆ ◆
事の発端は、ほんの数時間前に遡る。
広大な大陸の中央に位置する、アルディアナ王国。
白銀の城を中心に発展した城下町は賑わいに満ち、街道には多くの商人や旅人たちの往来が途切れない。
その一角で、ひときわ高く聳え立つのが中央魔術学院だ。
未来の公認魔術師を志す若者たちが、厳格な規律のもと、日夜研鑽を積んでいる。
「卒業パーティのドレスコードについて、改めて周知させてもらう」
夕刻の三年生の教室で、級長のクレイ・エルヴァンは背筋を伸ばし、壇上から澄んだ声を響かせていた。
教室の格子窓から差し込む斜陽が、金糸のように細やかな彼の髪を眩しく照らしている。
長身で華奢な体躯がわずかに身動ぎするたび、紺のローブの裾が揺れ、そこに施された繊細な刺繍――金の方陣が淡い光を放った。
「――卒業式まで残り四日だ。最後まで気を緩めず、学院生として節度ある行動を心がけるように。以上」
クレイは短く締めくくると、静まり返った教室内に向けてゆっくりと視線を巡らせた。
その目線ひとつで、私を含むクラス全員が無意識に姿勢を正してしまう。
彼は表情を動かさないまま息を吐くと、硬質な靴音を響かせて最前列の自席へと戻っていった。
着席する動作ひとつ取っても無駄がなく、椅子を引く音すら気品を帯びている。
ぴんと伸びたクレイの背中を、私は頬杖をついたまま、ぼんやりと見つめた。
(相変わらず、完璧な人ねえ)
間もなく教師も教室へやって来て、短いホームルームが終了した。
終業を告げる鐘が学院中に響いた途端、生徒たちは待っていましたとばかりに、一斉に音を立てて帰り支度を始める。
私も机の横にひっかけていた鞄を引き寄せ、厚みのある魔術教材を手早く詰め込んで肩に背負った。
誰よりも早く抜け出すため、椅子を跳ねのけるように席を立ち、生徒たちの間をすり抜けて教室のドアノブに手を伸ばした。
「ローデン」
不意に、低い声に呼び止められて振り返った。
声の主は、クレイだった。
混み合う人の流れを軽やかにすり抜け、ローブを翻しながら私の元へ近付いてくる。
目の前までやって来ると、彼は胸の前で自然に腕を組んだ。
「卒業パーティに欠席なのは君だけだけど、本当に参加しないつもり?」
「うん、予定があるから」
私がきっぱり答えると、クレイの整った眉がぴくりと跳ねる。
「パーティより大事な予定ってなに?」
「言わなきゃだめかしら?」
どうやら私の返答が気に入らないらしい。
彼は眉根を寄せ、探るような眼差しを向けてくる。
薄い唇がわずかに動いたが、言葉にはならない。
気まずさに耐えかねて愛想笑いを浮かべてみるが、クレイの表情はまったく崩れなかった。
「ねえ、クレイ。もう帰るの?」
「一緒に夕食を食べに行きましょうよ」
張り詰める私たちの間に、遠くから黄色い声が飛んできた。
軽やかな靴音を鳴らし、クラスの女子たちが楽しげにクレイの隣へ近づいてくる。
しかし、漂う妙な空気を察したのか、彼女たちは不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、お取り込み中だった?」
「……いや」
クレイはそっけなく答えると、静かに首を横に振る。
話は終わりのようだ。
私は軽く肩をすくめ、再びドアノブに手をかけて扉を押し開いた。
「参加の変更は、明後日の昼まで受けつけているから」
廊下に足を踏み出そうとしたところで、背後から念を押すような声が届いた。
首だけを向けると、華やかな女子たちに囲まれながらも、クレイのまっすぐな視線は変わらず私だけに注がれている。
「ありがとう。でも、行くつもりはないから。もう気にしないで」
なおも何か言いたげな彼に軽く手を振って、そそくさと教室を後にした。
(私のことなんて、放っておけばいいのに)
相変わらず、無駄に責任感が強い人だ。
放課後の浮き足立った喧騒に包まれた廊下を進みながら、小さくため息を漏らす。
クレイとは、幼稚舎からの腐れ縁だ。
互いに公認魔術師を目指していたこともあり、進学のたびに同じ学び舎へ進み、気づけば十二年も顔を合わせている。
けれど、それもあと数日の話。
卒業すれば、彼は誰もが憧れるエリート揃いの『第一魔術隊』へ入隊することが決まっている。
対する私は、医療を専門とする『第十魔術隊』に配属される予定だ。
国防の最前線で華々しい任務に就く彼と、後方の研修魔術医として働く私では、身を置く世界は大きく変わる。
もうこうして顔を合わせることもないだろう。
思考を切り替え、薄暗く静まり返った北棟の最奥まで足を早めた。
――魔術師にとって、知は力。
豪奢な装飾が施された重たい大扉を、力を込めて両手で押し開けた。
ひんやりとした冷気が頬を撫で、古紙とインクの匂いが鼻をつく。
ここは、王国内でも屈指の蔵書量を誇る学院の図書室だ。
三階まで吹き抜けになった室内には、巨大な本棚がずらりと立ち並び、無数の書物が収められている。
等間隔に配置された長机では、書物やノートに齧りつくように、生徒たちが勉強に没頭していた。
聞こえるのは紙を捲る音ばかりで、息を吐くことすら憚れる。
私は靴音を立てないよう、螺旋階段に足をかけた。
上階へ進むにつれて人の気配が遠のいていき、耳鳴りすら聞こえそうな深い静寂に包まれていく。
三階は古い蔵書ばかりが並んでいるせいか、めったに生徒が立ち入らない。
私は目当ての本棚の前までやって来ると、ゆっくり膝を折る。
一番下の棚に並ぶ本をじっくりと見つめ、色褪せた背表紙の題名を指先で丁寧になぞった。
(……卒業パーティより大事な予定? あるわよ!)
『封印術式大全』『禁忌術と失われた詠唱』『秘匿魔術論』。
いずれも危険性が高く、出版停止や閲覧制限がかかった禁書だが、闇市場では家が買えるほどの高値で取引される。
学者や愛好家にはたまらない逸品なのである。
本来なら学院の規定上、即刻処分されてもおかしくはない代物。
だが、変人の老司書が個人的な蒐集欲からこっそりここに保管しているのを、私は偶然知った。
(この本を読めるのも、あと四日……)
ダンスをしている時間がもったいない。
一ページ、いや、一文字でも多く読み進めなくては。
胸の高鳴りを抑えながら、素早く周囲の気配を確認する。
いくら趣味とはいえ、禁術を学んでいることは誰にも知られるわけにはいかない。
規律と品位、そして体面を重んじるこの学院で、万が一にも教師や同級生に見つかれば、面倒なことになるのは明らかだ。
私は禁書を抜くと、隣の本棚から『中央魔術学院の歴史』という無害そうな本も手に取って重ねた。
禁書の背表紙がしっかり隠れていることを確認してから、二冊を抱えて立ち上がる。
小さな自習スペースへ向かったが、やはり生徒の姿はない。
ほっと息をつき、長机の端の椅子を引いて静かに腰を下ろし、禁書を開いた。
雑に扱えば崩れてしまいそうなほどページは乾ききっていて、慎重に捲る。
細密な方陣に、難解な古代語。
特級危険魔術式、失われた地方秘術、怪しい秘薬の効能……。
新たな知識に触れるたび、痺れるような興奮が込み上げてきて自然と笑みがこぼれた。
噛み締めるように、一文字残らず頭に刻み込んでいく。
そうして夢中で読み耽っているうちに、ずいぶん長い時間が経過していた。
いつの間にか日は落ち、窓からはうっすらと青白い月明かりが差していた。
遠くの柱時計から時刻を告げる音が響いてきたが、時間を確かめることすら惜しく、ページを捲り続ける。
『恋情操作術』
――他者の恋愛感情を意図的に操作する古代魔術式。
私はその項目で指を止め、背筋を伸ばした。




