第12話(前編)三夜目――責任を取ってくれる?
夜の教室は、磨き上げられた床に窓から差し込む月光が青白く落ちている。
昼間には生徒たちの声で満ちていたというのに、今は人の気配ひとつなく、並んだ机と椅子が整然と暗闇の中に沈んでいた。
誰かに見咎められないよう、夜の闇に紛れてここまでやってきた私は、そっと室内へ踏み入れた。
自然と、自分の机へ足が向かう。
昼間の大掃除ですっかり綺麗にした机の天板に、指先で軽く触れて息をつく。
そのまま何気なく視線を滑らせると、少し離れた場所にあるクレイの机が目に入った。
「……」
胸の奥がざわついた。
けれど、ゆっくり考え事をする暇もなかった。
コツ、コツと硬い靴音が廊下の向こうから響いてきて、大きく肩が跳ねる。
反射的に窓際へ駆け寄り、分厚いカーテンの裏へ身体を滑り込ませた。
布地を握りしめ、息を潜める。
足音は止まらず、一定の間隔を保ったまま、まっすぐこちらへ近付いてくる。
やがて教室の前で、ぴたりと音が止んだ。
そして室内の様子を窺うような間があったあと、扉が静かに開かれた。
月明かりの差し込む廊下に立っていたのは、クレイだった。
私はカーテンの陰からおそるおそる顔を覗かせ、ごくりと息を呑む。
クレイはすぐに私の姿を見つけると、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「もう来てたんだ」
彼は表情を緩ませると、穏やかに笑った。
その笑みを見た途端、息をするのも苦しくなる。
何も答えられず、逃げるように視線を伏せた。
クレイはそんな私を特に気にした様子もなく、後ろ手で教室の扉を閉め、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「抜け出すのに苦労したよ。最後にこっそり食事会をしようって誘われて。みんな、騒ぐのが好きだよね。ミリは大丈夫だった?」
「……」
「この教室ともお別れだと思うと、なんだか感慨深いね」
次々と投げかけられる言葉に、何ひとつ返せない。
私はカーテンの端を握ったまま、ただ黙って彼の声を聞いていた。
どんな顔でクレイを見ればいいのか分からない。
目が合えば、すべて見透かされてしまいそうで怖かった。
さすがに様子がおかしいと思ったのだろう。
クレイは足を止め、不思議そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「……いいえ」
「そう」
短く答えたものの、クレイの瞳にはまだ訝しげな色が残っている。
それでも、それ以上は追及してこない。
まっすぐ私の前までやって来ると、何の躊躇いもなく片手を差し出してくる。
「手を」
二晩も繋ぎ続けた、見慣れているはずの大きな手。
なのに今は、触れることにさえひどく戸惑い、私はその手から目を離せなくなった。
手を伸ばそうとしても、指先が宙を彷徨うだけで動かない。
むしろ逃げるように、さらにカーテンの奥へ身体を縮こませた。
「……ミリ?」
視線だけを教室の時計へ向ける。
「……」
針は容赦なく進んでいた。
(……私の思い違いなら、ためらっている時間はない)
もし禁術がきちんと発動しているなら、解術しなければ。
私の憶測で、クレイに迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思い直し、ようやくカーテンを退けた。
一歩ずつクレイへ近づき、おずおずと彼の手に触れる。
その瞬間、クレイはほっとしたように口元を緩めた。
すぐに長い指が私の掌を包み込み、しっかりと握り込まれる。
これまでの二晩と同じように短く詠唱すると、無事に魔力の循環が始まった。
重なった指先から、じわりと体温が伝わってきて、心臓が大きく高鳴る。
私たちは外から姿を見られないよう、窓から離れた教室の奥へ移動し、壁を背に並んで腰を下ろした。
ひんやりとした床と壁。
けれど、繋いだ手だけが妙に熱く感じる。
私は無意識のうちに、クレイから少し距離を取るように身体をずらした。
すぐ隣にいる彼の体温も、呼吸の気配も、何もかもが気になって仕方がない。
あまりにも緊張して、意識しなければ息の仕方すら忘れてしまいそうだった。
さすがに、私の様子に気づいたのだろう。
クレイは何も言わずにこちらを眺めたあと、試すように目を細めた。
「パーティ、来るんだ?」
冷ややかな言葉に、ぎくりとした。
「ええ……せっかくだし」
「僕が言っても、断ってたのに」
「気が変わったの」
なるべく、何でもないことのように答えた。
けれど、その直後。
繋いだ手に、ぎゅっと力が加わる。
「男目当て?」
「違うってば」
思わず顔を上げた。
すぐ近くに、クレイの顔があった。
立てた膝に片肘をつき、私を観察するような眼差しを向けている。
「本当に? 好きな男がいたんじゃないの?」
「……だから、いないわよ」
「ふうん」
クレイの表情は晴れない。
私を見つめる瞳は冷めきっていて、こちらの言葉を少しも信用していないように見えた。
やがて彼は、繋いだ手をゆっくりと持ち上げた。
「……?」
引かれるまま、私の手も持ち上がる。
クレイはその手を、自分の顔へゆっくりと引き寄せた。
私の手の甲に、温かな吐息が触れる。
あとわずかで、唇が触れてしまいそうな距離。
思わず声が漏れそうになった。
喉が乾き、頭の芯まで熱が上がっていく。
目眩がするほどの動揺に耐えきれず、私は慌てて口を開いた。
「クレイ! 昨夜はあんまり眠れていないんじゃない!?」
「……」
「寝不足は良くないんじゃなかった?」
誤魔化すように続けたが、クレイの視線は動かない。
ただ真っ直ぐ、私を射すくめる。
「今夜は私が見張りをするから、朝まで寝たほうがいいわよ」
一瞬、クレイの顔から表情が消えた。
私の手を握る指だけが、微かに強張る。
何かを飲み込むように唇を結んだあと、低い声が落ちた。
「明日になったら、他人になるのに?」
指先に、さらに強い力が加わる。
「もしも、この手が離れたら、僕はずっと君に恋をしたままなんだよね?」
「……そ、そうね」
どうにかそれだけ答える。
するとクレイは、わずかに目を伏せた。
けれど、彼は決心したように再び顔を上げ、私をまっすぐ見据える。
「もしそうなったら、責任を取ってくれる?」




