第11話(後編)クレイへの疑惑
セナによるドレス合わせが終わる頃には、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
姿見の前には脱ぎ散らかしたドレスや小物が広がり、さっきまでの興奮がそのまま残されている。
私は借りたドレスを皺にならないよう丁寧にハンガーへ掛けながら、何度もセナにお礼を言って頭を下げた。
セナはこのあと、他の友人たちと夕食を取るらしい。
一緒にどうかと誘ってくれたが、丁重に申し出を断り、再び制服に袖を通す。
帰りが遅くなることを告げると、私は一人で校舎へと引き返した。
放課後の学院は、昼間とは打って変わって静けさに包まれていた。
生徒たちの姿もぐんと減り、長い廊下には自分の靴音だけが甲高く響く。
橙色の西日が格子窓から差し込み、その眩しさに思わず目を細めた。
明日は卒業式。
制服姿でこの廊下を歩くのも、あとわずか。
そう思うと、また寂しさが込み上げてきた。
足取りが重くなり、堪らず後ろを振り返る。
最後にもう一度、校舎の中をゆっくり見て回ろうか。
一瞬そんな考えが頭をもたげたが、すぐに首を横に振った。
(夜までに、せめて一冊でも多く禁書を読んでおきたい……!)
卒業パーティに出席すると決めた以上、明日の自由時間はほとんど残されていない。
そのうえ、今夜はクレイとの最後の解術作業もある。
読み残した禁書のことを考えれば、今は感傷に浸っている場合ではないのだ。
再び気持ちが急き、自然と図書室へ向かう足が速くなった。
◆ ◆ ◆
軽く息を弾ませながら図書室の前までやって来た私は、重たい扉を押し開けた。
図書室はいつにも増して人の数が少なく、しんと静まり返っている。
どこか物寂しい室内を見回しながら、螺旋階段を上って三階の奥へ向かった。
三年間通い詰めた、見慣れた本棚。
私は何冊かの禁書を引き抜いて腕に抱えると、自習スペースへ向かい、椅子に腰を下ろした。
他に誰もいないことを確認してから、本をそっと開く。
書籍へ顔を寄せ、びっしりと並んだ細かな文字を追っていった。
あれほど感傷に浸っていたというのに、私の意識は一瞬で魔術式へと引きずり込まれていく。
知らない記述や見たことのない術式が出てくるたびに、胸が躍った。
夢中になって文字を追っていたが、途中でふと意味が掴めなくなり、眉根を寄せる。
(やっぱりアルコ語は鬼門ね……)
思わずこめかみを押さえて唸った。
何度勉強しても、どうにもこの言語だけは好きになれない。
ふと、机の端に置いていた一冊へ視線が向いた。
クレイにかけてしまった『恋情操作術』が記されている禁書だ。
何気なく該当のページを開き、欄外に記された解術方法へ視線を落とす。
――術者と対象者が掌を重ね、二十四時間、互いの魔力を巡らせる。
すでに何度も読み返し、ほとんど暗記してしまっている。
改めて考えてみても、とんでもない解術方法だ。
私は頬杖をつきながら、ふっと息を吐いた。
(それでも、今夜で終わり)
そう考えれば安堵するはずなのに、やはり胸の奥が寂しさで小さく痛んだ。
自分の右手を目の前に持ち上げ、指先をまじまじと見つめる。
二晩の記憶が次々と蘇り、私はしばらくそのまま物思いに耽っていた。
すると、遠くの柱時計から時刻を告げる音が響き、はたと意識を引き戻される。
一冊でも多く読みたいと言っていたそばから、これだ。
(何してるの、私ったら)
小さく咳払いをし、振り払うように禁書のページを捲る。
ここから先は、まだ読んでいない。
同じ著者によって記された別の術式が続き、紙面には複雑な方陣と、余白を埋めるようにアルコ語の詠唱文が並んでいる。
全文を読み込む時間はない。
興味深そうな箇所だけでも拾っておこうと、指先で文字をなぞりながら読み進めていった。
けれど、その途中でぴたりと指が止まる。
(んん?)
何かがおかしい。
単純に、自分が文章を読み違えたのだと思った。
一度前の行へ戻り、今度は一語ずつ確かめるように文脈を辿り直す。
それでも、やはり意味が噛み合わない。
私は頬杖を解き、ゆっくりと姿勢を正した。
紙面へ顔を近づけ、じっと目を凝らす。
(どこを読み違えてるんだろう……)
何度か同じ箇所を読み返すうちに、術式の途中に記された数字へ目が留まった。
そこだけ、なぜか妙に引っかかる。
私は首を傾げ、紙面へさらに顔を近づけた。
縦に伸びた一本の線。
その先端が、わずかに二股へと分かれている。
一見すると、アルコ語の「二」だ。
けれど、「二」として読み進めると、どうしても前後の構文と繋がらない。
「……」
指先で、そっと文字の輪郭をなぞる。
よく見ると、枝分かれしているように見えた部分は、独立した筆画ではなかった。
一本の線を最後に強く跳ねたせいで、先端が二股に分かれて見えているだけだ。
つまり、これは――。
(「一」……?)
嫌な予感が胸をよぎり、さっと血の気が引いた。
私はすぐに他のページを捲った。
同じ著者が記した別の詠唱文を探し、数字が使われている箇所へ目を走らせる。
あった。
やはり、同じ形だ。
さらに別の術式にも、その次のページにも、同じ形の数字が記されている。
(……これ……著者の癖字?)
気づいた途端、呼吸が浅くなった。
私は震える指先でページを戻し、『恋情操作術』の項目を開く。
――『これは……数字の「一」、かしら』
――『……やっぱり、「二」ね』
あのとき、本来「一」と詠唱すべき箇所を、「二」と読み違えていた。
そして、そのまま術を発動させた。
私は口元を手で覆う。
(もしかして……詠唱に失敗してる?)
詠唱は、一音違えるだけでも正しい効果を発揮しない。
手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
いや、そんなはずはない。
だって――クレイは術をかけた直後から、明らかに様子がおかしくなった。
『ミリ、好きだよ』
『結婚だって考えてる』
『青がもっと好きになった』
(あれが本心なわけが……)
握られていた手の感触が、生々しく蘇る。
私は逃げるように顔を上げ、図書室の柱時計へ視線を向けた。
長針は、思っていたよりずっと先まで進んでいる。
彼と約束した時間まで、もうほとんど残されていない。
私は呆然と時計を見つめたまま、動けずにいた。
冷や汗が、背筋をゆっくり伝っていった。




