第11話(前編) 青い髪飾り
教室の大掃除が終わるころには、時刻は午後に差しかかろうとしていた。
磨き上げられた窓硝子からは、白い昼の光が差し込んでいる。
机と椅子はきちんと列を揃えられ、黒板には拭き跡ひとつ残っていない。
床板もつやつやとしていて、浄化魔術に使ったセージの匂いが漂う。
隅々まで確認するように室内を見回した教師が、満足そうに頷く。
「よし。今日は解散だ」
その言葉を合図に、教室のあちこちから歓声が上がった。
けれど、すぐに声は勢いを失っていく。
席を立とうとしたまま、隣の友人と顔を見合わせる者。
名残惜しそうに、窓から校庭を眺める者。
今にも泣き出しそうに俯く者までいた。
今日が、この教室で過ごす最後の日なのだ。
私もすぐには立ち上がれず、自分の席に座ったまま机の表面へ手を置いた。
魔術で仕上げ磨きをした机の表面は、鏡面のように滑らかだ。
(この机ともお別れか)
毎日のように教科書を広げ、ノートを取り、ときには突っ伏して眠ったこともあった。
三年間ありがとう――なんて。
自分でも妙な感慨に浸りながら、机の縁を指で軽く叩き、ゆっくりと席を立った。
周囲でも、クラスメイトたちが鞄を肩に掛け、思い思いに帰り支度を始めている。
「ねえ、最後に校内を一周しない?」
「学食も今日で食べ納めじゃない?」
「先生が、希望した人には最後に実習を見てくれるって」
弾んだ声が、あちこちから聞こえてくる。
そんな中、私は鞄の肩紐を握ったまま、そっと教室の前方へ視線を向けた。
クレイは、まだ席についていた。
こちらへ背を向けたまま、机の前でじっと座っている。
背中しか見えないため、表情までは分からない。
けれど、いつもならローブ越しでも分かるほどぴんと伸びている背筋が、今日はわずかに丸まっていた。
ぼんやりと椅子に腰をかけたまま、動く気配もない。
やっぱり、変だ。
今朝からずっと、様子がおかしい。
「クレイ……」
思わず名前を呼びかけそうになった。
けれど、一歩踏み出しかけたところで、周囲にまだ大勢のクラスメイトがいることに気づく。
私は寸前で口をつぐんだ。
すると、私のすぐ脇を数人の女子生徒たちが通り過ぎた。
甘やかな香水の匂いとともに、彼女たちはそのままクレイの机を囲む。
「エルヴァン! 学食へ行かない?」
「それとも、みんなで街まで出る?」
「おい、クレイ。最後に庭で魔術勝負でもしようぜ」
クレイの男友達も、笑いながら彼に近付いていく。
声をかけられたクレイは、ようやく顔を上げた。
斜め後ろからでは、横顔しか見えない。
けれど誘いに乗る様子はなく、小さく息を吐いた。
「これから部屋に帰って休むつもりなんだ」
素っ気ない返事だった。
「え、もう?」
「せっかく最後なのに」
けれどクレイは取り合わず、机の脇にかけていた鞄を持ち上げた。
椅子を引き、ようやく立ち上がる。
普段なら、級長らしく皆の誘いに付き合うことも多いというのに。
そんな彼の態度が珍しかったのだろう。
彼らは引き止める言葉も見つからないまま、戸惑ったように互いの顔を見合わせていた。
(やっぱり、ちょっと具合が悪いのかも)
心配で、そわそわしながら様子を窺う。
その一方で――素っ気ないのが私に対してだけではなかったことに、ほんの少しだけ安堵している自分がいた。
「ミーリ」
不意にすぐ後ろから声がして、同時にぽんっと背中を叩かれた。
振り返ると、いつの間に近付いてきたのか、目をきらきらと輝かせたセナが立っていた。
「部屋でドレスを合わせましょ!」
「あっ、そうだった……」
「もー! 時間がないんだから早く!」
私の返事を待つ気も最初からないらしい。
彼女は私の手を取ると、ぐいっと強く引いた。
そのまま連れ出されるようにして、机の間を縫って、教室の出口へ向かう。
扉をくぐる直前、私は反射的にもう一度だけクレイを振り返った。
けれど、クレイはこちらを見ることもなく、俯いたままだった。
結局、最後までクレイとは目が合わなかった。
◆ ◆ ◆
女子寮の部屋へ戻るなり、セナは勢いよくクローゼットの扉を開けた。
私たち二人分の衣服が収められた狭い収納のうち、右半分がセナの領域だ。
制服や普段着の奥に押し込まれていた布袋を次々と引っ張り出し、ベッドの上へ放っていく。
「さーて、どれがいいかしらね」
紐をほどくたび、色とりどりのドレスがベッドいっぱいに広がっていった。
「……予備って、一着じゃなかったのね」
「当たり前でしょ。男の好みに合わせて変えてんのよ!」
「……はあ、すごい」
感心している間にも、セナの選別が始まった。
「これは露出が多すぎるわね」
「これは子どもっぽいわ」
「これは……去年に流行ったデザインだからやめときましょうね」
セナは一着ずつ丁寧に私の身体へ当て、少し離れては腕を組み、首を傾げる。
私はそのたび、棒立ちになったまま、彼女の指示通り身体の向きを変えるしかなかった。
おしゃれに関しては、一切と言っていいほど知識がない。
途中から「はあ」「そうなの」「へえ」と、相槌を打つ人形のようになっていた。
何着目かを身体に当てたあと、セナの目つきが変わった。
「……あ」
淡い色合いの、上品な一着だった。
装飾は少ないのに、布地そのものに細かな術式が織り込まれているらしく、セナが裾を持ち上げるだけで、表面を淡い光が流れていく。
揺れに合わせて光の粒がふわりと浮かび、すぐに消えた。
あまりの美しさに目が離せずにいると、セナが私の顔を見て、にこりと笑う。
「お目が高いわね。これにしましょ、着てみて」
セナはドレスを私の胸元へ押し付ける。
見た目以上に滑らかで、普段身につけている制服や質素な私服とは、手触りからしてまるで違う。
(私が着ていいのかな)
胸の奥でそわそわした。
セナに背中を向けてもらい、制服を脱いでドレスへ袖を通す。
当然ながらセナに合わせて仕立てられたドレスは、私の身体には大きかった。
肩紐は余ってずり落ち、胸元もわずかに浮いている。
私はずり落ちてくる肩紐を両手で押さえた。
裾に至っては床をたっぷり引きずり、足元など完全に隠れてしまった。
着替えが終わったことを告げると、セナがくるりと振り向いた。
そして、何かを計算するように目を細める。
「動かないでね」
セナが胸の前で片手を持ち上げ、短く詠唱する。
その指先から、淡い光が零れた。
光の粒子は雪のように舞いながら私の肩へ集まり、手で押さえていた肩紐を包み込む。
垂れていた布が、ひとりでに持ち上がる。
余分な長さだけがきゅっと縮まり、肩の丸みに沿うようにぴたりと収まった。
続いて床へ広がっていた長い裾が、風を孕んだようにふわりと浮き上がる。
星屑のような細かな光が一斉に布地へ走り、余った布が内側へ折り込まれた。
すると、ベッド脇に置かれていたセナの裁縫箱がひとりでに開く。
中から銀色の縫い針が一本飛び出し、続いて細い糸がするすると引き出された。
セナが人差し指を宙で滑らせるたびに、それを追うように針が動いて、またたく間に裾を縫い上げていく。
(さすが第七隊……)
私は足元を見下ろしたまま、瞬きを忘れてその様子を目で追う。
最後の一針が終わると、糸がひとりでに結ばれ、余った部分がぷつりと切れた。
同時に背中側の紐が左右から引かれ、ぎゅっと腰が締まり、反射的に背筋が伸びた。
「はい、終わり」
セナが満足そうに手を叩いて、私に近寄ってくる。
こちらの肩へ両手を置き、部屋の壁際に立てかけられた姿見の前へ押し出した。
「……わあ」
思わず声が漏れる。
鏡の中に立っていたのは、いつもの自分とはまるで違う女の子だった。
身体に沿うように整えられたドレス。
動くたびに淡い光を散らす布地。
普段は制服の襟に隠れている首筋も、肩も、今は惜しげもなく露わになっている。
「馬子にも衣装ね」
「もう、ミリったら」
セナが鏡越しに笑うと、私の背後を離れて自分の机へ向かった。
すぐに戻ってくると、彼女は大事そうに小さな宝石箱を差し出してきた。
「アクセサリーも貸してあげるわ」
「何から何まで、ありがとう」
「いいのよ」
セナはそう言いながら、宝石箱の蓋を開けた。
中にはいくつもの装飾品が並んでいた。
数は多くないが、一目見ただけでも高価で丁寧に作られたものだと分かる。
イヤリング。ネックレス。ブローチ。髪飾り。
「ドレスの色はあとで変えられるから、先に好きな魔法石を選んだら?」
「うん」
私は、じっと覗き込んだ。
赤、緑、紫、白。
どの魔法石も、自分こそが主役だと言わんばかりに眩い光を放っている。
けれど私の視線は自然と、深みのある青色の髪飾りへ吸い寄せられた。
「……青」
――『青がもっと好きになったよ』
なぜか、クレイの声が耳の奥で蘇った。
気づけば、私はその髪飾りへ手を伸ばしていた。
「あら、それにするの? いいわね。ミリに似合うわ」
「……」
手に取った髪飾りをそっと髪に添え、姿見の前で小さく角度を変えてみる。
深みのある青色が、自分の瞳とよく馴染んでいるように見えた。
鏡の中の私は、少しだけはにかんでいた。
頬紅も塗っていないのに、頬はうっすら赤く染まっている。
そのとき、鏡の端に映り込んだものが目に留まった。
セナの机の上に、化粧道具が置かれている。
少し迷ってから、私はセナを振り返った。
「……ねえ、お化粧も教えてくれない?」
おずおずと訊ねると、セナはぱちりと目を見開く。
「あら、ミリ。本当にどうしちゃったの?」
「いえ、その……せっかくだし……」
ごにょごにょと言い訳をすると、セナはじっと私の顔を覗き込んだ。
やがて、何かを察したようににんまりと笑う。
「わかった。見せたい相手がいるんでしょ」
「……!」
咄嗟に否定しようとした。
――けれど、言葉が出てこなかった。
思わず両頬に手を当てて俯く。
そんな私を見て、セナは口元に手を添えた。
「あらまあ」
小さく、けれど心底嬉しそうに呟くのだった。




