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第10話 寂しい背中

 ビクッと肩が跳ねて、私は目を開いた。


 深い眠りの余韻の中で、一瞬、どこにいるのか分からなかった。

 けれど、肌寒さと新緑の匂いで、すぐに朝だと気づいた。


「起きた?」

 

 頭上から声が落ちてきて、目を向けると、私を見下ろすクレイと視線が交わった。

 そこでようやく、自分が一晩中彼の肩に頭を預けたまま眠っていたのだと悟った。

 頬に残る温もりと、近すぎる距離を意識した途端、一気に眠気が吹き飛んだ。


「ごめんなさい、クレイ! すっかり眠っちゃった」


 慌てて身体を離し、動揺を隠すように捲し立てた。

 しかし、クレイは返事も相槌もしてくれない。

 ただ、浅く眉を寄せたまま、物憂げに私を見つめてくる。

 

「……怒ってる?」

「いや」


 クレイは首を振ると、遠くに見える校舎の時計に目をやった。

 握り合っていた手がゆっくりと離れ、クレイは大きなため息をついた。


 「……ちょうど六時を過ぎたから、寮へ戻ろう」


 やはり、いつになく素っ気ない気がする。


「えっと……クレイは眠れた?」

「平気」

「……」


 クレイは私が寄りかかっていたせいで皺になった上着を手ではたくと、無言で腰を上げる。

 その整った横顔には、いつもの冷静な級長の雰囲気が漂っていた。


(……機嫌が悪いのかな?)

 

 もしかしたら、十六時間が過ぎたことで、術の効果が切れてきたのかもしれない。

 喜ばしいことのはずなのに、なぜか気持ちは晴れなかった。


「あの、クレイ……」


 立ち去ろうとする背中に思わず呼びかけると、彼はふいと振り返った。


「また今夜ね、ミリ」

 

 ミリ、と呼ばれただけで、心に安堵が広がっていく。


(あれ?)


 これでは、まるで去り際の一言に縋りついているようじゃないか。


(……なんで?)


 ◆ ◆ ◆


 明日は卒業式だ。

 

 クラスメイトたちは浮足立っているし、普段は厳格な教師たちも慌ただしく立ち回っている。

 通常授業は昨日で終了し、今朝は生徒総出で、教室の大掃除に駆り出されていた。


 あちこちで生活魔術の詠唱が飛び交って、人の手を離れた箒や雑巾が宙を舞い、窓や床をせっせと磨き上げている。


 教室には教師の姿もないので、生徒たちにとってはやりたい放題の開放的な時間だ。

 騒々しい中で飛び交う話題は、二日後の配属先のことばかり。

 慣れ親しんだ友人との別れを惜しむ人もいれば、新しい世界へ踏み出す未来に胸を躍らせている人もいる。


 私はセナと一緒に、教室の窓ガラスを廊下側から拭いていた。


「あーあ。ミリと離れちゃうの、悲しいなあ」

 

 セナの足元では、魔術で操られた雑巾が水の張ったバケツの中で濯がれていた。


「手紙も書くし、遊びに行くわ」

「新人は休暇なんて貰えないわよ。手紙を書く時間だってあるかどうか……」


 彼女の現実的な言葉に、私は手を止めた。


「たしかに、そうね」

「あたしのこと忘れないでよ?」

「セナのほうこそ。でも、第七隊なら交流が全然ないわけじゃないと思うわ。きっと会えるわよ」


 (第一隊と違って)


「そうだけどさあ……」

 

 セナの不満げな声を聞きながら、私は窓ガラス越しに教室の様子を窺う。

 隅のほうで、机と椅子を魔術で片付けるクレイの姿を見つけ、思わず目で追った。


(登校してから、一度も目が合ってない)


 作業に没頭する彼の横顔には、どこか張り詰めたものがあり、クラスメイトに話しかけられても返事は短かった。

 

(もしかして、風邪でも引いちゃった……?)


 卒業前だというのに、私のせいで体調を崩していたらどうしよう。

 雑巾をぎゅっと握りしめながら、小さく息をつく。

 だが、どうしても直接話しかける勇気が出なかった。


 もともと私たちの関係なんてこんなものだ。

 よほどのことがなければ、互いに話しかけることもない。


 私は無理やり顔を背け、雑巾でガラスを強く擦った。

 

「ミリ、さっきから同じとこばっか拭いてる」

 

 呆れたようなセナの指摘に、はっとして雑巾を取り落とした。


「昨夜から、なんか様子が変よね。どうかしたの?」

「う、ううん。何でもないわ」


 顔を上げると、また視界の端にクレイの姿が映り込み、意識がそちらへ引かれてしまう。

 セナは私の視線を追うと、怪訝そうに眉根を寄せて首を傾げる。


「さっきから、誰のこと見てるわけ」

「いや、そういうつもりじゃ」

「……」


 だが、彼女は明らかに不審そうに目を細めている。


「話しておきたい人がいるなら、明日のパーティに来たらいいじゃない」

「……うっ」

「本当にいいの? 後悔しない?」


 諭すようにセナから言われて、私は指先にぎゅっと力を込めた。

 騒々しいおかげで、離れたところにいるクレイには、この会話も聞こえていないだろう。

 そもそも、私のことを意識もしてなさそうだ。

 淡々と作業を続ける、見慣れた背中。

 また胸がざわつく。

 

「……お別れか」

「そうよ」


 クレイのぬくもりがまだ残っているようで、私は指でそっと頬を撫でた。


「……行こうかな」

 

 気づくと、勝手に言葉が口から零れていた。


 「本当!?」


 セナはぱっと表情を輝かせると、跳ねるように私の傍に近寄ってきた。


「……うん。セナのドレス貸してくれる?」

「もちろん! あとで裾合わせしましょう」

 

 セナは私の両手を掴むと、心から嬉しそうに笑った。

 彼女の細くて柔らかい手に触れた途端、昨夜のクレイの大きな手の感触が鮮明に蘇り、なぜかまた頬が熱くなった。


(なんで、いちいち思い出してるの私……)


 私の胸中など知る由もなく、セナは私の手を握ったまま教室に向かってくるりと振り返った。


「エルヴァン! 明日のパーティ、ミリも来るって!」

 

 教室に響く大声にぎょっとして、反射的にクレイへ顔を向けた。

 クレイはセナの呼びかけに作業の手を止め、私たちを静かに振り返る。

 何事かとでもいうように、彼はわずかに首を傾げた。


 セナは私に向き直り、悪戯っぽく笑う。


「やっぱりミリも女子ねえ。最後にいい男を捕まえましょ!」

「いや、違う! そういう意味じゃ……」

 

 慌てて否定したが、セナは私が恋愛目的で参加すると信じているようだった。

 咄嗟に、もう一度クレイの反応を窺った。

 遠目にも、クレイの表情が一瞬強張ったように見えた。


 けれど、その硬さはすぐに消え、いつもの冷静な顔つきに戻る。


「了解。先生に報告しとく」


(あれ?)


「よろしくね~!」

 

 セナの明るい声にも、クレイは何も答えず、再び作業に戻っていった。

 あまりにも淡々とした反応に、拍子抜けした。


(もっと喜んでくれると思ったのに)

 

 だが、考えてみれば――術の効力が薄れてきたクレイは、もう私のことなど大して気にも留めていないのかもしれない。


 やがてセナが他の友人に呼ばれて立ち去っていくと、クレイが箒を片手に、さりげなく私へ近付いてきた。

 周囲の喧騒の中で、クレイの表情だけが冷えているように思えて、息を呑む。


「クレイ、あの……」

「教室でいいんじゃない? さすがに外は寒かったから」

 

 囁くようなクレイの声に、一瞬何のことを言っているのか分からなかった。

 けれど、すぐに今夜の待ち合わせのことだと理解した。

 

「……ごめんなさい、私が変なところを指定しちゃったから」

「ミリのせいじゃないよ。じゃ、また夜に教室で」

 

 クレイはそれだけ言うと、視線すら交わさずにそのまま私の脇を通り過ぎ、廊下を歩いていった。

 遠ざかる背中を見送りながら、胸の奥がきつく締め付けられるようだった。


 今夜で元通りだ。

 

 それなのに――無性に寂しくなって、私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。

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