第9話(後編)ミリのわがまま
強い夜風が吹いて、私たちの髪を揺らした。
前髪の下から覗くクレイの瞳には、どこか切実なものが宿っているように見える。
私は視線を下げて、無理やり微笑んだ。
「だって……第一隊と第十隊よ。もうすれ違う機会すらないわ」
「そうだよ。離れちゃうんだよ、僕たちは」
クレイは苛立ったように、声を荒らげた。
滅多に感情を見せない彼の昂ぶりに、私は何も口にすることができない。
すると彼は焦れたように、空いている私の手も取った。
私の手を包む指先が、かすかに震えている。
寒さのせいだけではないことは、すぐに分かった。
「ミリ、聞いて。僕は本気で君が好きだ。ずっと一緒にいたい。結婚だって考えてる」
「結婚!?」
あまりにも突拍子のない言葉に、思わず声が裏返ってしまった。
「夫婦になれれば、君も第一隊の宿舎に移れるし」
「クレイ」
「近くには魔術医療の研究施設もあって、優秀な魔術医も集まっている。君なら、きっと学べることが多いはずだ」
「ちょっと待って」
「すぐにとは言わない。まずは必要な手続きや準備だけ先に――」
畳み掛けるようなクレイの熱量に圧倒され、言葉を失う。
私は禁術のことも忘れて、握られた手を振りほどこうとした。
けれど、必死な表情を浮かべるクレイと目が合って、寸前で思いとどまる。
そんな私の様子に、クレイはようやくはっとしたように口をつぐんだ。
「お、落ち着いて、クレイ。術が効きすぎて、話が飛躍しているわ」
クレイは言い返そうとしたものの、すぐに思い直したように唇を引き締めた。
それでも、私を見据えるブラウンの瞳には熱が宿ったままだ。
その視線を受けているだけで、全身が火照っていく。
(本当に、ちゃんと解けるのよね?)
解術どころか、どんどん悪化しているような気がする。
クレイが、ゆるりと私の手から片手を離す。
その手がしばらく宙を彷徨ったが、やがて自分の膝の上で拳を握った。
「……ごめん」
消え入りそうな声で呟くクレイに、私は黙ったまま小さく頷いた。
風に煽られた髪を空いた手で梳きながら、乱れた息を整える。
クレイのほうを見ることもできず、ただ身を硬くして縮こまった。
(結婚……)
クレイの口から、まさかそんな言葉を聞くことになるなんて。
なぜか、胸の奥を針の先で突かれたような痛みを覚える。
一瞬だけ、第一隊の宿舎でクレイの隣に立つ自分の姿を想像した。
すぐに頭を振ってかき消す。
幼稚舎での約束を覚えていてくれただけだ。
それなのに、私は何を考えて……期待したのか。
「ミリ。大丈夫?」
隣からクレイの心配そうな声がして、私は顔を上げた。
「さっきから、ふらふらしてるよ」
クレイに指摘されて、ようやく自分の異変に気づいた。
ふっと視界が歪み、目眩がさらに強くなる。
全身から、一気に力が抜けた。
「う……」
片手で目元を押さえて呻くと、クレイが不安そうに身体を寄せてきた。
「……大丈夫。暁醒薬の効力が切れたみたい」
説明する自分の声すら間延びして、勝手に欠伸が漏れる。
意識の輪郭が滲んでいき、吐き気にも似た怠さが込み上げてくる。
不意に、がくんと身体が傾いた。
咄嗟にクレイが腕を掴んでくれなければ、そのままベンチからずり落ちていたかもしれない。
支えてくれるクレイに身体を預けていると、妙に安心して、ふうっと息が漏れた。
「……ひとつだけ、わがままを言ってもいい?」
「もちろん。なんでも言って」
「肩を枕にさせてくれない?」
「…………えっ?」
クレイの許可を得る前に、私は彼の肩に頭を乗せた。
「……枕がないと、首が痛くなっちゃって」
「ちょっと待って。僕も、一応男なんだけど」
「それが何なの」
「……」
沈黙を承諾と受け取って、遠慮なく使わせてもらった。
(うん、首がとても楽だ)
静寂の中、頬を撫でていく夜風に、ますます眠気が深くなる。
「……ねえ」
遠ざかる意識の中で、頭上からクレイの声が落ちてきた。
「寝る前に、ひとつ教えて」
「……なーに」
わずかな間のあと、彼は少し硬い声で言った。
「ミリは、僕のことをどう思ってる?」
「……それ、いわなきゃだめ?」
「だめ」
「……」
せっかく気持ちよく眠りかけているのに。
(どう思ってる……って)
……ともだち。
ではないか。
……おさななじみ。
なれなれしいかしら。
……すき?
いやいや……。
私はただの同級生……。
「……クラスメイトかな」
直後、クレイが息を呑む気配がした。
肩が強張り、私の指を握る力も強くなった。
それでも思考はすっかり霧の中に溶け落ちてしまい、自分がどこまで口走ったのかもわからない。
まどろむ意識の境界で、繋がった手のぬくもりだけが、ただ――心地良かった。




