第9話(前編)天才の後ろ姿
クレイがくすりと微笑むのを見て、またズレたことを言ってしまったのだと気づき、急に恥ずかしくなる。
しゅんと肩を落として項垂れると、彼はそれ以上何も言わず、静かに体勢を変えた。
「……ミリはさ。ここでの生活、楽しかった?」
不意に問いかけられて、顔を上げる。
クレイは私ではなく、じっと遠くを見つめていた。
その視線を追うと、雲間から覗く月に照らされ、学院の校舎が夜空に聳え立っている。
窓の向こうでは廊下の魔導灯が淡く揺らめき、見慣れたはずの景色が、ため息が出るほど美しく見えた。
「もちろん。……もっと学びたかったな」
「ミリは勉強が好きすぎるんだよ。試験の前なんて三徹とかしてたでしょ。身体に悪いから、ああいう無理はもうやめたほうがいいよ」
「だって私の能力じゃ、それくらいしなきゃ置いていかれちゃうもの」
クレイが小さく息を呑んで、私を振り返った。
「そんなことは」
「いいのよ、事実だから」
強がりで言っているわけじゃない。
私は秀才でも……ましてや天才でもない。
クラスメイトたちのように、要領よく魔術を扱えるわけでもない。
それでも、魔術医になるには高い専門性が求められる。
膨大な医学知識に加え、数多くの魔術式を諳んじ、正確に詠唱できなければ務まらない。
生まれついての天才たちに食らいついていくには、並大抵の努力では到底足りなかった。
だから睡眠時間を削り、必死に術式を頭へ叩き込む日々だけが、私の唯一の武器だった。
「どうして、そこまでして魔術医を目指したの?」
真剣な表情で尋ねられた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
苦笑いを浮かべ、曖昧に誤魔化そうと顔を逸らす。
けれど、クレイは何も言わず、じっと私の答えを待っていた。
「教えて」
その一言に、観念してふうっと息を吐く。
「……やっぱり、忘れちゃってるわよね」
そう呟いて、クレイの顔を真っ直ぐ見つめ返した。
彼の瞳が、かすかに揺れる。
「幼稚舎で、約束したじゃない」
まだ何の隔たりもなく、仲良く肩を並べて遊んでいた頃のこと。
――『僕は第一隊の魔術師になるから、怪我をしたらミリが治してよ』
――『任せて。クレイのために、私は魔術医になってあげる』
子ども同士の、他愛のない約束。
それでも、今なお鮮明に覚えている。
けれど、だんだんと私たちの距離は遠くなった。
口を利く機会も減り、やがて目を合わせることさえなくなった。
それでも、私より遠くを行くクレイの背中をずっと追っていた。
たゆまぬ努力を重ね、実力を認められていく彼の姿が、幼馴染として誇らしかった。
同時に、心から悔しかった。
「正直ね。勉強がきつすぎて、何度も諦めようと思ったのよ。でも、それじゃあ、あなたに負けた気がするじゃない?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、自嘲気味に笑った。
「だから魔術医になれたのは、クレイのおかげなの。どうもありがとう」
そこまで一息に言い切ってから、ちらりと視線を上げる。
クレイは表情を強張らせ、黙ったまま私を見つめていた。
その様子に、急に不安が押し寄せる。
もしかして私は、とんでもないことを口走ってしまったんじゃないだろうか。
火照った身体から、一転して血の気が引いていく。
「あっ! でも結局は、自分自身との約束になってるのよ? 一度決めたことを諦めるのは性分じゃないから」
(何でこんなに必死に言い訳をしているんだろう)
動揺のあまり声が裏返りそうになるのを堪えながら、空いた左手を慌ただしく振る。
「ごめんなさい、気にしないで」
必死に弁解する私とは対照的に、クレイはどこまでも真剣な眼差しを向けてくる。
「僕も覚えてるよ」
繋いだ指を握る力が、ぎゅっと強くなる。
熱を帯びた瞳に射すくめられて、胸が高鳴った。
「忘れたことなんかない」
予想外の言葉に心臓が跳ね上がり、頭が真っ白になった。
「そ、そう……」
胸に手を当てると、早鐘を打つような鼓動が掌に伝わってくる。
覚えていてくれたことが、こんなに嬉しいなんて。
「……良かった」
「……」
じわじわとせり上がる喜びに、頬が緩む。
私はクレイに向き直って、笑いかけた。
「これからは別々になっちゃうけど、お互いに頑張ろうね。陰ながら応援してるわ」
「……なんで、陰からなの」




