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正室と側室

ある晩――

私は静かに立ち上がり、吉乃のいる奥の間へ向かった。

障子の向こうから、柔らかな声が聞こえる。


 

「若君はよう眠っておられます」


 

「織田家の未来にございますゆえ」


 

誇らしげな響き。

私は襖を開けた。


 

「濃姫様!」


 

吉乃が振り向く。その腕には奇妙丸。頬は上気し、目は輝いている。

勝者の顔だ。

私は座し、静かに頭を下げた。


「若君出産は織田家の要。吉乃殿は功労者です。大儀にございました」

 


「いえ……御正室様こそ」

 


言葉は丁寧だが、声音は違う。

彼女は今、自分が“上”に立ったと感じている。

それは無理もない。嫡男の母それは、戦国において、最強の立場の一つだ。吉乃はゆっくりと口を開く。

 


「若君が生まれました以上、織田家は盤石にございますね」


 

私は微笑む。


 

「盤石、であればよろしいのですが」


 

「信長様も、あれほどお喜びに」


 

わずかな含み。


“あれほど喜ばれる御子を産めたのは私”


言外にそう響く。

私は首を傾げる。


 

「信長様は、御子を喜ばれたのです」


 

「ええ」


 

「ですが、誰を信じておられるかは、別の話にございます」


 

吉乃の眉がわずかに動く。


 

「……母は一人にございます」


 

「ええ」


私は頷く。


 

「ですが、妻も一人にございます」


 

空気が変わる。


吉乃は一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに、勢いに任せて口を開く。

 


「若君はいずれ織田家を継ぐお方。正室様といえど、母である私を無下には――」


 

その瞬間。


 

「誰が無下にする」


 

低い声が障子の向こうから落ちた。

その場の空気が凍る。振り向くまでもない。

――信長だ。

侍女によって障子が開かれ、彼は静かに入ってきた。

怒鳴らない。

だが、静かなときほど恐ろしい。

吉乃は青ざめる。


 

「……信長様」

 


信長は私の隣に立った。

自然な位置。

迷いのない距離。


 

「濃が母を無下にする、と申したか」


 

吉乃は言葉を探す。


 

「そのような……ただ、若君が嫡男にございますゆえ……」


 

信長は遮る。


 

「嫡男は嫡男だ」


 

「はい」


 

「だが」

 


彼の視線が鋭くなる。


 

「妻は濃だ」

 


はっきりと言い切った。その途端部屋の空気が一段沈む。


 

「子を産んだ功は大きい」


 

「……はい」

 


「だが、城を動かしているのは誰だと思う」


 

沈黙――

信長は続ける。


 

「軍議に座すのは誰だ」


 

「……」


 

「家臣が真に顔色を窺うのは誰だ」


 

吉乃は俯く。信長は一歩、私の前に出る。

守る位置。


 

「男児がいくらが生まれようと、変わらぬ」


 

その声は断定だった。


 

「側室は側室だ」


 

吉乃の肩が震える。


 

「濃は、俺の隣に立つ者だ」


 

私は静かに言う。


 

「信長様」



 彼が私の眼を見る。その目は柔らかい。


 

「濃」

 


「濃姫様は若君を守るお方にございます」


 

私は吉乃を見る。


 

「私は城を守ります」


 

信長は頷く。


 

「それが役目だ」


 

彼は吉乃に向き直る。


 

「分を違えるな」


 

厳しいが、冷静。


 

「若君を守れ。濃を越えようとするな」


 

吉乃は深く頭を下げる。


 

「……心得ました」


 

部屋に静寂が戻る。


信長は私の肩に手を置いた。


 

「濃」


 

「はい」

 


「お前が揺れぬ限り、織田は揺れぬ」

 


その言葉は、愛の告白より重い。

私は軽く息を吐く。

現代なら、こんな場面は炎上案件だろう。

だがここは戦国。

立場は曖昧にしない。線を引く。

それが秩序。

私は吉乃に向き直る。

 


「吉乃殿どうか、若君を健やかに」


 

吉乃はもう、得意満面ではない。理解した顔だ。

格の差とは、声の大きさではない。

背後に立つ者の重みだ。

部屋を出ると、信長が低く言った。

 


「胡蝶」


 

「はい」


 

「俺が選んだのはお前だ」


 

迷いのない声。


 

「忘れるな」


 

私は微笑む。

 


「忘れません」


 

側室が子を産もうと。子がが増えようと。

妻は一人。

信じるのも一人。

そして私は――決して、揺らがない。

 その晩も私は信長と褥を共にして、彼の胸の中で誓った。

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