私という正室
連日連夜――若君誕生の宴が続いていた。
しかし、織田家が盛り立つ祝いの席だが、私の心は内心沈んでいた。
生母は私ではない。
吉乃殿だ。
顔には出さないが、我が子を抱いて隣席する吉乃殿の顔は得意げに輝いていた。
私は先に席を立つ。
廊下に出ると、夜風が火照った頬を冷やした。
「胡蝶」
背後から低い声。振り向くと、信長が立っている。
酔っていない。あの人は、決して肝心な場で酔わない。
「なぜ下がった」
「主役は若君と母上にございます」
私は淡々と答える。
彼は私をじっと見た。
「嘘だな」
即答。
「お前は、胸が痛んでいる」
その通りだ。しかし、これから先、信長は側室との間に何人も子を設ける。歴史知識だが、現代でも織田家の子孫が残っているのがその証拠だ。
自分で子を産めない限り、なんども私は苦い思いをるだろう。
そして私の記憶が確かなら、"濃姫"と信長の間に子は居ない。
恐らく私は…
考えたくないが、覚悟をしなければならない日が来るだろう。そんな気持ちを隠すように、私は少しだけ肩をすくめる。
「令和の倫理観が邪魔をしております」
「れいわ?」
「いえ、こちらの話」
私はくすりと笑った。信長は理解はしない。
だが、私の本質は見抜く。
「胡蝶」
一歩近づく。
「よく聞け」
その声は、戦場で家臣を統べるときと同じ強さだった。
「子を産んだのは吉乃だ」
苦しい現実を叩きつけられる。
しかし、いくら苦しくても現実だ。
私は答えた。
「はい」
「だが、俺が妻と定めたのはお前だ」
迷いがない。
「側室は側室だ」
はっきりと言い切る。
「子を産もうが、十人産もうが、変わらぬ」
私は息を止める。彼の揺るがない想いが伝わってくる。
彼は続ける。
「俺が背を預けるのは、お前だけだ」
その言葉は甘くない。だが重い。
信長にとって“背を預ける”とは、命を預けるということ。
「奇妙丸は守る。だが」
彼の指が私の顎を上げる。
「城を守るのはお前だ」
胸の奥が震える。
あぁ…この人はどこまでも真っ直ぐで不器用なんだろう。
信長への愛しさが増す。嫉妬も、理屈も、一瞬で溶ける。私は思わず笑ってしまう。
「それ、プロポーズより重いですよ」
「なんだそれは」
「一生隣にいろ、という意味です」
「そうだ」
頷き、即答。
「天下を取る」
彼の目が燃える。
「その隣に立つのはお前だ」
私は深く息を吐く。
――ああ、この人は…
愛情を甘く囁かない。だが、選択で示す。
吉乃は母だ。尊ぶべき存在。
だが彼の決断に口を挟めるのは私だけ。
軍議に同席できるのも私だけ。
家臣の処断を相談されるのも私だけ。
私は頷く。
「では私は、あなたの経営参謀で」
「けいえい?」
「組織運営です」
「……難しい言葉を使うな」
信長がわずかに笑う。その顔は、父ではない。
私の男の顔だ。
「胡蝶」
「はい」
「揺らぐな」
「揺らぎません」
「俺が信じるのはお前だ」
断言。それで十分だった。
私は知っている。この人は合理で動く。情に流されない。
だからこそ、選ばれることに意味がある。
私は彼の袖をそっと掴む。
「私もあなたを信じます。あなたは私の唯一無二です」
彼は一瞬だけ目を細める。
「当たり前だ」
その夜。
城は祝賀の余韻に包まれていた。
だが私は理解している。
後継者誕生は、争いの始まり。
それでもいい。私は正室。
側室が子を産もうと、立場は変わらない。
妻は一人。
信じられるのも一人。
そしてその席は――
絶対に、譲らない。
清洲城の評定の間。
まだ尾張は一つではない。
城下は静かだが、水面下では信行派が兵を集めている。
戦は、近い。
その重い空気の中で開かれた評定に、私は座していた。
軍議ではない。
「勝った後」を見据える話し合いだ。
それ自体が異例だった。
信長がゆっくりと口を開く。
「信行が動く」
――静かな断言。しかし誰も否定しない。
「だが、戦は一時」
「尾張を治めるのは、その後だ」
重臣たちが顔を上げる。
柴田が言う。
「まずは勝たねば始まりませぬ」
「無論だ」
信長は頷く。
「だが、勝った後に荒れれば意味がない」
そして、私に視線を寄越す。
――言え、と。
私は一礼し、声を出す。
「信行様に与する家は、恐れから動いております」
ざわ、と空気が揺れる。
「兄上に劣ると申され続けたお方」
「正統を掲げれば、人は集まります」
誰も口を挟まない。
女の言葉だが、否定もできない。
「ですから、こちらは“敗戦の理”を示すべきです」
「戦の前に」
林が問う。
「敗戦の理とは?」
「相手に敗戦した後も理があると思わせ理解させるのです。」
私は続ける。
「降れば命は取らぬ」
「所領は減らしても、家は残す」
「働きで戻す」
信長が腕を組む。
「戦う前に、救いを示すか」
「はい」
私はまっすぐに言う。
「恐れだけでは、裏切りは止まりません」
「逃げ道があると知れば、最後まで戦わぬ者も出ます」
現代で何度も見た。敵対的買収も、社内派閥も。
出口を用意した側が勝つ。
柴田が低く唸る。
「甘い、と言われましょう」
「甘さではありません」
私は静かに返す。
「統治の準備です」
沈黙。
その沈黙を破ったのは信長だった。
「濃の策を用いる」
公の場で、信長は私を"濃"と呼ぶ。
2人の時は"胡蝶"と名を呼ぶが、正室の意味を総じて皆の前では私を"濃"と呼んでいる。
信長は即座に続けた。
「降る者は許す」
「だが、裏で動く者は斬る」
線引きは明確。
そしてさらに言う。
「戦後、市を整える」
「商いを守る」
重臣たちが目を見開く。
戦の前に、もう戦後の話をしている。
信長は続ける。
「尾張を取るのではない」
「尾張を作る」
その言葉に、広間の空気が変わる。
私は胸の奥で小さく息を吐いた。
――この人は、本気だ。
ただ勝ちたいのではない。支配したいのでもない。彼は築きたいのだ。
評定が終わり、家臣たちが去る。
広間に二人きりになる。
「出過ぎましたか」
不安げに私が問うと信長は首を振る。
「戦の前に、戦後を語る」
「それができる者は少ない」
そして、静かに続けた。
「信行は“正統”を掲げる」
「ならば俺は“未来”を掲げる」
その視線が私に落ちる。
「胡蝶、内を固めよ」
「戦が始まれば、城は揺れる」
奇妙丸。
土田御前。
信行派の家臣。
全てが火種になる。
「承知いたしました」
私は頭を下げる。
尾張はまだ割れている。
兄と弟が刃を向ける前夜。
だがこの評定で、すでに一つ決まった。
戦は、破壊ではない――再編だ。
そしてその設計図に、私は座している。
正室として。未来を知る者として。




