ざわめき
奇妙丸の誕生から、信長に嫡男ができたということで、このおめでたムードが不穏な空気になるのは早々遅くはなかった。
お家争いの色が濃くなってきた。
まだ、母・土田御前と、信行殿の配下が怪しげな動きをみせ、信長の眉間にシワが刻まれてきた。
城内は、祝いの赤がまだ色濃く残っている。
だが、その裏で、声は低く潜められ始めた。
「若君はまだ赤子よ」
「殿は戦に明け暮れておられる」
「政はどなたが……」
廊下の曲がり角で、家臣たちの視線がすっと散る。
私が通ると、誰もが深々と頭を下げる。
だが、その背中から漂うのは忠誠だけではない。計算だ。
織田家は拡大している。
だからこそ――
“次”を見据える者が増える。
信行殿の屋敷周りに出入りする者が増えた。
古参の重臣、保守的な者たち。
「奇妙丸様はまだ幼い」
「万一の折には……」
万一――その言葉が城に忍び込む。
ある日、私は奥向きの庭で母君――土田御前と向き合った。
秋の風が、木の葉を揺らす。
「奇妙丸は健やかであろうな」
土田御前の声は穏やかだ。
「はい。丸々と」
私は礼を尽くして答える。
母君は小さく頷く。
「それはよい。だが、赤子は脆い」
一瞬、沈黙。
「戦国の世は、何が起こるやも知れぬ」
遠回しな言葉。
私は静かに微笑む。
「そのために、我らがございます」
土田御前の視線が、私を測る。
「濃殿は、賢い」
柔らかな声。だが、その裏に鋭さがある。
「賢いならば、わかろう。家を守るとは何か」
「嫡子を守ることにございます」
私は即座に返す。母君はゆっくり首を振る。
「違う。家を守るとは、“安定”を守ること」
その言葉が落ちる。
「信行は穏やかだ。家臣も慕っておる」
はっきりとは言わぬ。だが、匂う。
信行嫡立――奇妙丸ではなく…
――弟を、という含み。
私は一歩も退かない。
「奇妙丸は、信長様の子」
「信行もまた、織田の子」
静かな応酬。
「万一、信長が倒れれば……」
そこまで言って、母君は言葉を止める。
だが十分だ。“万一”が前提に置かれている。
信長の戦死。
そのとき、赤子が家を継げるか――否。
だからこそ、信行。
論理は通る。だが感情は別だ。
私は一礼する。
「母上様」
あえて、そう呼ぶ。
「織田家を守るために、私も命を懸けます」
土田御前は目を細める。
「命を懸けるのは、女の役目ではない。女は守る者」
「いいえ」
私は静かに言う。
「守り夫を支え、戦うのは正室の役目です」
風が吹く。
木の葉が舞う。
母君は何も言わない。
だがその沈黙は、了承ではない。
戦の予兆。
その夜、私は信長の元へ向かう。
彼は地図の前に立ち、眉間に深い皺を刻んでいる。
「動いておるな」
私の足音だけで察する。
「はい」
「母上か」
問いではない。確信。
私は頷く。
信長は短く笑う。
「奇妙丸が生まれた途端だ。早いものよ」
しかしその笑みは冷たい。
かつて母に選ばれなかった長男の顔。
私はそっと言う。
「お家は広がるほど、割れやすい」
信長は私を見る。
「胡蝶、お前はどう見る」
「奇妙丸を守るには、信行殿を敵にしてはなりませぬ」
「では味方にするか」
「味方にはなりませぬ」
即答。
「ですが、“旗印”にさせぬようにすることはできます」
信長の目が光る。
「どうする」
私は静かに答える。
「信行殿を、正義にしてはなりませぬ」
つまり――
信行が“穏やかな理想の当主”に見えぬようにする。
家臣の期待を削ぐ。正論を利用させない。
信長はゆっくりと息を吐く。
「お前は、恐ろしい女よ」
信長の言葉に私は笑った。
「尾張の信長の…織田の正室にございますから」
彼はふっと笑う。
だがその目は、もう戦場のそれだ。
祝いの赤は、城から消えつつある。
奇妙丸の誕生は、喜びであり――同時に、火種。
そして私は悟る。
この家の戦は、外より内が深い。
母と弟。
夫と子。
そして正室である私。
静かな火種は、やがて炎になる。
その炎を操るか、焼かれるか。
私の戦は、ここから本格的に始まる。




