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最初の子供

私は何度も信長と閨を共にした。

私は正妻と言う以前に、好きな人との愛の結晶を作ろうと、信長と共に努力した。

昼間は派手でうつけを演じる彼。

そのうつけを何処吹く風と冷淡にあしらう私。

そして、家臣は嫡男信長に取り入ろうと娘を差し出してくる。

一夫一婦制だった私の時代で、一夫多妻制の戦国の世の習いは辛い制度だった。

信長は影で私を慰め、側室の伽の後は必ず私の元にそっと戻り顔を見せてくれる。

そんな彼の優しさは嬉しかったが、家臣を抱き込むため、情報を得るため女に身を捧げる彼との閨は私には受け入れがたくなっていた。

彼も薄々気づいているのだろう。

もしかしたら、罪悪の年を持ってたのかもしれない。

私たちは枕を共にしても情交を交わさず、ただ抱き合って寝る日々が、多くなった。

お互いの無念や恋慕、そんな思いが交錯する共寝だった。

そんなある日━━━私の中で恐れていたことが起こった。

忍びを生業としている生駒氏の長の娘吉乃の妊娠が発覚した。

生まれれば信長の初めての子だ。

吉乃殿から妊娠報告を受け、私は愕然とした。

吉乃殿の言葉は、静かだった。


 

「お館様の御子を宿しました」


その声には誇りも、挑戦もなかった。

ただ、事実だけがそこにあった。

私は笑みを崩さぬよう、唇に力を込める。


 

「それは……めでたいことですね」


 

声は震えていなかっただろうか。

正妻としての仮面は、まだ割れていないだろうか。

腹の奥が冷える。

私が何度も願い、祈り、求めたもの。

その“愛の結晶”が――

私ではない女の腹に宿った。

その夜。

信長は、いつもより遅く私の部屋へ来た。

燭台の火が揺れる中、

彼は何も言わず私の隣に座る。


 

「聞いたか」

 


低い声。

私は頷いた。


 

「はい。吉乃殿の御懐妊」


 

沈黙。

彼は、私の顔を見ない。

天下を目指す男。

数万の兵を動かす男。

だが今、そこにいるのは――

私の顔色を窺う一人の男だった。


 

「……すまぬ」


 

その一言が、胸を刺す。

私は笑った。

 


「なぜ謝られるのです。お世継ぎは大事なこと。織田家のため――」


 

言葉が途切れる。


織田家のため。

何処か遠くから自分の声が聞こえてくるようだった。

それは正しい。

だが、私は“家”のために嫁いだのではない。

私は、この人が好きだったのだ。

信長は、そっと私の手を握った。


 

「俺は、お前との子が欲しかった」


 

その声は、戦場では決して出さぬ弱さを帯びていた。

私は目を伏せる。


 

「……私もでございます」


 

それ以上は言えなかった。

側室の存在は理解していた。

戦国の世の理。

家臣を繋ぎ止めるための婚姻。

血縁による結束。

だが理解と、受容は違う。

私は現代の女だ。

一夫一婦を当然とする時代を生きた。

“愛する人を独り占めしたい”という感情は、

どうしても消せなかった。

その夜、私たちは抱き合った。

だが求め合うことはなかった。

互いの温もりを確かめるだけ。

信長の腕は、いつもより強く私を抱いた。

まるで――

何かを失うことを恐れるかのように。

数日後。

城中は祝いの空気に包まれた。

家臣たちは浮き足立ち、

「織田家に世継ぎ誕生」と囁く。

私は正妻として、吉乃殿の元を訪れた。

彼女は静かに頭を下げる。


 

「ご寛恕を」


 

私は首を振った。


 

「あなたは役目を果たされたのです」


 

言いながら、自分の胸が軋む。

役目。

そう、これは役目だ。

だが私は――

“役目”ではなく、

“愛”で彼の隣に立っている。

その違いが、こんなにも苦しい。

夜。

私は一人、庭に立つ。

月は静かに輝く。

信長は世継ぎを得る。

織田家は強くなる。

だが私は――

正妻でありながら、母になれぬ女。


そのとき、不意に背後から声がした。


「胡蝶」


振り返ると、信長。

彼は迷いなく私の隣に立つ。

 

「お前は、俺の正室だ」


 強い声。それには彼の明確な意思があった。



「誰が子を産もうと、俺が選んだのはお前だ」


 

胸が熱くなる。

それでも私は問う。


 

「……では、なぜ私は母になれぬのでしょう」


 

信長は答えない。

答えられない。

戦であれば斬り伏せられる。

だがこれは、斬れぬ敵。

運命という名の理不尽。

その夜、私は決意する。

泣いているだけではいられない。

信長の子らを守り、織田家を導き、この男を孤独にしない。

吉乃の子が生まれた日、

私は笑って祝うだろう。

そして胸の奥で誓う。

たとえ血が繋がらずとも、

私はこの家の柱となると。

だが同時に、私の中の“女”は静かに叫んでいた。


 

「あなたの最初の子を、私が産みたかった」


 

その想いだけは、

誰にも見せぬまま――


私は再び、戦国の正室の仮面をかぶるのだった。


 太鼓が鳴り、酒が注がれ、家臣たちの笑い声が広間を満たす。

 


「織田家、安泰にございますな!」

 


「若君のご誕生、まことにめでたい!」

 


杯が次々と交わされる。

私は信長の横で微笑み続けた。

正室として、揺らがぬ顔で。

吉乃殿は一段低い位置とはいえ、私のすぐ隣に座している。

腕の中には奇妙丸。

その姿はまるで、勝ち取った戦利品を抱く武将のようだった。

信長は何度も子の顔を覗き込み、その小さな手を指でつつく。


 

「……小さいな」

 


低く、柔らかな声。

ああ、この声を私は知っている。

戦場では決して見せぬ、父の顔。

胸が締めつけられる。

嬉しい。

本当に、嬉しい。

けれど同時に、胸の奥が焦げる。

私が抱いたとき、ほんのわずかに感じた重み。

あの温もりは、もう私の腕にはない。

吉乃殿が奪ったのではない。

彼女は側室としての役目を果たし功績を上げたのだ。

 胸を張って何が悪い?制度が、時代が、そうさせただけ。

それでも――

女の心は理では割り切れぬ。

宴が終わるころ、信長は家臣に囲まれ、祝辞と盃攻めにあっていた。

私は静かに席を立つ。

廊下に出ると、夜風が頬を撫でた。

ようやく、息ができる。


 

「……胡蝶」


 

背後から足音。

振り返らずともわかる。

 普段は私は゛美濃から来た高貴なる正室゛として人前では信長や皆からは『濃』や『濃姫様』と呼ばれていた。

しかし信長は2人きりの時は私を本当の名で呼ぶ。

 暗号のように『胡蝶』と…


 

「なぜ先に下がる」


 

声は静かだが、探る色がある。

私は振り向き、いつものように笑う。

 


「主役は若君と吉乃殿にございます。私は、祝う側で十分」


 

信長は私をじっと見つめる。

その目は、戦場で敵を射抜くときより鋭い。


 

「無理をするな」


 

その一言で、胸の奥の何かが揺らぐ。

私は目を逸らす。


 

「しておりませぬ」


 

「嘘だ」


 

即座の否定。


 

「お前が奇妙丸を抱いたとき、指が震えていた」


 

……見ていたのか。


 

誰よりも遠くにいるはずのこの人が、

誰よりも近くに私を見ている。


 

「震えてなど」


 

「胡蝶」

 


名を呼ばれる。

正室としてではなく、女として。

その響きが、ずるい。

やがて私たちは二人きりになる。

灯りは一つ。

外ではまだ祝いの余韻が続いている。

信長は私の前に座る。


 

「嬉しくないのか」


 

直球だった。

私は少しだけ笑う。

 


「もちろん嬉しいですよ。織田家の世継ぎですもの」


 

「織田家ではない」


 

信長は遮る。


 

「俺の子だ。……そして、お前の子でもある」


 

その言葉に、胸が詰まる。


 

「私は産んでおりませぬ」

 


「産んだかどうかではない」

 


信長は私の両手を取る。


 

「お前がこの城を支えた。家臣をまとめた。俺を支えた。その上で生まれた子だ」


 

低い声。

だが、そこには確かな真実があった。

私は目を伏せる。


 

「……私は、欲しかったのです」


 

初めて、本音が零れた。


 

「あなたの最初の子を、この腕に」


 

声が震える。

止めようとしたのに。

 


「側室の務めも、戦国の理も、頭ではわかっております。ですが私は――」


 

言葉が続かない。

信長は静かに私を抱き寄せる。

強くはない。

壊れ物を扱うような抱擁。

 


「胡蝶。俺は、世継ぎが欲しかった」


 

正直な言葉。


 

「だがな」


 

少し間を置く。


 

「俺が欲しかったのは、お前との子だ」


 

胸の奥が熱くなる。

信長は続ける。

 


「奇妙丸は大事だ。だが、俺の隣に立つのはお前だ。お前が揺らげば、この家は崩れる」


 

私は彼の胸に額を押し当てる。

温かい。

悔しいほどに、安心する。


 

「……吉乃殿は誇らしげでした」


 

ぽつりと漏らす。

信長は短く息を吐く。


「織田家嫡男を産んだのだ。これでひとまず俺は責任を果たした。功を上げた吉乃は誇れる立場だ」


 

「はい」

 


「だが」


 

信長の指が私の顎を上げる。


 

「城を取ったのはお前だ」


 

目が合う。


 

「この城も、俺も」


 

その視線に、嘘はない。

涙が滲む。

私は慌てて目を伏せる。

 


「今日は祝いの日にございます。泣くのは、無粋ですね」


 

信長は微かに笑う。


 

「では泣くな。だが、隠すな」


 

私は小さく頷く。

嫉妬も、悔しさも、愛も。

すべて抱えたまま、私はこの人の隣に立つ。

母になれぬなら、

この家の礎になる。

私は“天下の母”になる。

奇妙丸がやがて成長し、父の背を追う日が来る。

そのとき彼に伝えよう。

あなたは多くに祝われて生まれた。

信長の腕の中で、私は静かに目を閉じた。

祝いの夜は終わる。

だが私の戦は、

ここから始まるのだった。

 

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