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2人の作戦

信長と過ごした最初の一年は、夢のようだった。

照れ屋で、不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐな人。

私の手を取るときの、あの少し震える指先を、今でも覚えている。


だが、その幸せは長くは続かなかった。

信秀様が急な病で倒れ、尾張の空気が一変したのだ。


信長は変わった。

いや、変わらざるを得なかった。


家督を狙う信行殿と土田御前。

後見役の少なさ。

美濃では父と兄が争い、尾張を狙う気配が濃くなる。


優しいだけでは、誰も守れない。

信長は、己を捨てる覚悟を決めた。


その夜、信長は私の膝に額を預け、かすれた声で言った。


「……胡蝶。私はどうすればよい。このままでは、家が割れる」


私はその髪を撫でながら、静かに答えた。


「ならば、あなたは“変わった”姿を見せればよいのです。

誰にも読めぬ、恐ろしく、深い存在に」


信長は顔を上げ、私を見つめた。

その瞳には、迷いと決意が同居していた。

信秀様の葬儀は、尾張中の家臣が集う最大の舞台。

ここで信長の印象が決まる。


私は信長の袖をそっと引き、囁いた。


「今こそ、“うつけ”を演じるのです。

しかし、その奥に、誰も触れられぬ深さを見せて」


信長は小さく頷き、棺の前へ進んだ。


そして——

抹香を、鷲掴みにして投げつけた。


香が舞い、灰が散り、

空気が一瞬で凍りつく。


私はその場に控えながら、家臣たちの表情を見ていた。

まずは、柴田勝家殿。

彼は怒りを抑えきれず、拳を震わせていた。

だが、信長の眼の奥に宿る“何か”に気づいたのだろう。

その怒りは、やがて警戒へと変わった。


 

「……あれは、ただの愚か者ではない」


 

そして林秀貞殿。

信勝殿に近い彼は、内心ほくそ笑んでいた。

だが、信長の大胆さに、逆に不気味さを覚えたようだった。秀貞殿は秀行派なので、これで彼への印象を帰る。

 信長は"変わった"のだと…。

平手政秀殿。

 ただ一人、私たちの意図を察した。

信長の袖を引いた私の動きを、彼は見逃さなかった。


 

「若殿……己を捨てたか。いや、己を作り替えたのだな」


 

家臣たち全体は抹香を投げつけた信長に、それぞれの思いを抱いていた。

 恐怖・困惑・畏れ。

それを見て取れて、私は信長の後に冷静に焼香する。

私たちの温度差で敵を油断させるのだ。

「うつけ」と侮るには大胆すぎ、「狂気」と断じるには計算されすぎている。

尾張の空気が変わった瞬間だった。

葬儀が終わり、部屋に戻ると、信長は深く息を吐いた。


 

「……胡蝶。これでよかったのか」


 

私は微笑み、彼の手を包んだ。


 

「ええ。あなたは今日、“只者ではない”と尾張に刻みました。それが、あなたを守る盾となるのです」


信長はしばらく黙り、やがて私の肩にそっと額を寄せた。


 

「そなたがいなければ、私はどうなっていたか……」


 

その言葉に、胸が熱くなった。

私は信長の背に手を添え、静かに答えた。


「あなたを守るために、私はここにおります」



 葬儀の抹香事件は、見事に尾張の空気を変えた。

信長を侮る者は減り、恐れる者が増えた。

だが、それだけでは足りない。


信行殿と土田御前は、まだ信長を家督から引きずり下ろす機会を狙っている。

私は、次の一手を考えた。

信秀様の死後、清洲城では家臣たちが密かに派閥を作り始めていた。

信行殿に近い者たちは、信長を「うつけ」と囁き、

信長派はまだ少数で、声も弱い。


このままでは、信長は孤立する。


私は信長に言った。

 


「あなたを支える声を、もっと大きくしなければなりません。そのためには、家臣たちの“心”を動かすのです」


 

信長は眉をひそめた。

 


「どうやってだ。私は人の心を掴むのが下手だ」


 

私は微笑んだ。


「ならば、私が掴みます。あなたは“見せるべき姿”だけを見せればよいのです。」

 男たちが刀で争うなら、女たちは言葉で争う。

私は家臣の妻たちを密かに城へ招き、茶を点てながら、さりげなく話をした。


 

「信長様は、誰よりも家中を思っておられます」


 

「うつけを演じておられるのは、争いを避けるため」


 

「信行様は優秀ですが、まだ若く、家中をまとめるには荷が重いでしょう」


私は決して、誰も悪く言わなかった。

ただ、“信長こそが家を守る存在”という印象だけを、

静かに、確実に植え付けていった。


女たちは夫に話す。夫は家中で話す。噂は、風より早く広がる。

家臣たちが集まる評定の日。信長は、いつもの粗末な格好ではなく、私が選んだ深紅の直垂を身にまとった。

派手すぎず、しかし目を奪う色。

信長は戸惑った。


 

「……こんな色、私は似合わぬ」


 

私は首を振った。

 


「いいえ。あなたは“只者ではない”のです。それを皆に思い知らせるのです」

 


信長は深く息を吸い、評定の間へ向かった。

評定の間に入った瞬間、家臣たちの視線が信長に吸い寄せられた。


 「あれが……信長様か」


 

「雰囲気が変わった……」


 

「抹香事件の時とは違う……」



信行殿でさえ、わずかに目を見開いた。

信長は堂々と座り、静かに、しかし鋭く家中の問題を指摘した。


その声は震えていたが、震えを隠すために、彼はあえて強く言葉を放った。

私はその姿を見て、胸が熱くなった。

あの優しい人が、必死に“覇者”を演じている。

私のために、家のために、生き残るために。

評定が終わり、部屋に戻った信長は、直垂を脱ぎながら深く息を吐いた。


 

「……胡蝶。私は、うまくできたのだろうか」


 

私はそっと彼の手を取り、微笑んだ。


「ええ。今日、あなたは“うつけ”ではなく、“恐れられるべき当主”として見られました。これで、信行殿も簡単には動けません」


 

信長はしばらく黙り、やがて私の肩に額を寄せた。


 

「そなたがいなければ、私は……」


 

私はその言葉を遮り、彼の背に手を添えた。


 

「私はあなたの妻です。

あなたの未来を守るために、ここにいるのです」


私達は夫婦という枠を乗り越えて、時代の共犯者になった。

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