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本能寺

本能寺が燃えていた。

 夜空を真紅に染めながら。

 炎は天へ昇り。

 木が爆ぜる音が響く。

 血と煙と火薬の臭い。

 それらが混ざり合い、地獄そのものを作り上げていた。

 私は走っていた。

 廊下を。

 燃え落ちる柱の間を。

 崩れる天井を避けながら。


 

「殿!」


 

 叫ぶ。

 喉が裂けるほど。

 胸が張り裂けるほど。

 嫌な予感がしていた。

 ずっと。

 天下統一が近づくほどに。

 組織は巨大になった。

 人は増えた。

 権力は膨れ上がった。

 そして私は知っていた。

 現代でも。

 戦国でも。

 組織は外敵では滅びない。

 内部から壊れる。

 だから歴史の終末の鍵を握る明智光秀を警戒していた。

 だが。

 間に合わなかった。

 間に合わなかったのだ。

 襖を蹴破る。

 その先に。

 信長がいた。

 刀を手に。

 炎を背負い。

 まるで鬼神のように立っていた。

 周囲には何人もの敵兵の死体。

 最後まで戦ったのだろう。

 それでも。

 誰よりも静かだった。


 

「胡蝶」


 

 私を見る。

 その顔は不思議なほど穏やかだった。


 

「なぜ来た」


 

「当たり前でしょう!」


 

 私は叫んだ。


 

「逃げるなら一緒です!」


 

 信長は苦笑した。

 まるで昔のように。

 尾張の頃のように。


 

「馬鹿者」


 

「馬鹿は殿です!」


 

 涙が溢れる。


 

「なぜ一人で死のうとするんです!」


 

 信長は何も言わない。

 ただ。

 私を見つめていた。

 長い時間を共に生きた目だった。

 尾張、桶狭間、美濃、京。

 天下布武。

 全てを共に歩いた。

 誰よりも近くで。

 誰よりも長く。

 そして。

 誰よりも愛した。


 

「胡蝶」

 


 信長が静かに言う。


 

「ここまでだ」


 

 私は首を振る。


 

「違う」


 

「終わりだ」


 

「違う!」


 

 信長は笑う。

 だが。

 その笑顔はどこか寂しかった。


 

「天下は目前だったな」


 

「まだ終わってない!」


 

「終わったのだ」


 

 信長は燃え盛る本能寺を見渡した。


 

「光秀も見事だった」


 

「そんなことどうでもいい!」


 

 私は信長の胸倉を掴んだ。


 

「生きてください!」


 

「お願いだから!」


 

 初めてだった。

 私は泣きながら懇願した。

 正室でもない。

 軍師でもない。

 天下人の妻でもない。

 ただ一人の女として。

 愛する男を失いたくなかった。

 信長はそっと私の頬に触れる。


 

「胡蝶」

 


 優しい声だった。


 

「よく支えてくれた」


 

「嫌です」


 

「よく愛してくれた」


 

「嫌です!」



 

「俺は幸せだった」



 

 涙が止まらない。

 こんなの嫌だ。

 戦国を終わらせるはずだった。

 この人と一緒に。

 未来を見るはずだった。

 なのに。

 ここで終わるなんて……。

 その時だった。

 地面が揺れた。

 轟音。

 爆発。

 寺の奥から火柱が上がる。

 信長の目が見開かれる。


 

「これは……」


 

 私は笑った。

 涙でぐしゃぐしゃになりながら。


 

「最後の保険です」


 

 信長が理解する。

 火薬。

 本能寺の地下。

 極秘に運び込ませていたもの。

 敵に首を渡さないため。

 万が一のため。

 誰にも言わず準備していた最後の策。


 

「お前……」

 


「歴史は変えられませんでした」


 

 私は言う。


 

「でも」


 

 信長の手を握る。


 

「結末くらいは選びます」


 

 外から敵兵の声。

 もう時間はない。

 信長は私を抱き寄せた。

 強く。

 強く。

 離れないように――失わないように。


 

「胡蝶」


 

 初めて。

 天下人ではなく。

 一人の男として。

 私の名を呼んだ。


 

「愛しておるぞ」


 

 胸が震える。


 

「俺の妻は」


 

 一呼吸。


 

「生涯お前だけじゃ」


 

 涙が零れた。

 戦国の世で。

 側室がいて。

 子がいて。

 それでも。

 この人の心だけは。

 最初から最後まで……私のものだった。


 

「私もです」


 

 私は微笑んだ。


 

「信長」


 

 信長が目を見開く。

 殿ではなく。

 信長と呼んだ。


 

「次は――」


 

 私は言う。

 燃え盛る炎の中で。

 崩れゆく本能寺の中で。

 愛する人を抱きしめながら。


 

「同じ時代に生まれましょう」


 

 信長が笑った。

 あの日。

 尾張で出会った時のように。

 少年のような笑顔だった。


 

「ああ」


 

 その瞬間。

 世界が白く染まった。

 轟音。

 閃光。

 崩壊。

 本能寺が爆発する。

 炎が天を貫く。

 歴史が砕ける。

 運命が壊れる。

 織田信長と濃姫。

そして胡蝶。

 戦国という時代そのものを巻き込みながら。

 二人は光に飲み込まれた。

 誰も知らない。

 誰も見ていない。

 だが確かに。

 その夜。

 歴史は消えた。

 そして――二人の物語は。

 ここで終わらなかった。

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