胡蝶と濃姫
痛む身体をなんとか起こしながら、私は周囲を見回した。
布団の上には金箔が散らされたような高そうな屏風。
床の間には、女性らしい雅な絵柄の掛け軸。
花瓶には季節の花々が丁寧に生けられ、
部屋の隅には文机、そして少し離れた場所には──
化粧台。
(……え、これ完全に時代劇のお姫様の部屋じゃん)
現実感がどんどん消えていく中、
私はふらつく足で化粧台へ駆け寄った。
鏡に映った自分を見た瞬間──
「…………は?」
声にならない声が漏れた。
そこにいたのは、
交通事故で死んだはずの私ではなく、
白い肌、切れ長の瞳、黒髪を結い上げた絶世の美女。
(ちょ、待って。誰これ。
いや、誰っていうか……見覚えある……歴史の教科書で見たことある……)
震える指で鏡に触れながら、私は呟いた。
「……これ、濃姫じゃん……」
その瞬間、背後から静かに声がした。
「そうだ。そなたは美濃の姫──胡蝶。
わし、斎藤道三の娘よ」
振り返ると、
さっき私を抱きしめて泣きそうになっていた中年男性──
斎済みました。道三が、まるで当然のように立っていた。
「どうした?胡蝶よ?打ちどころが悪かったか?」
心配して、"便宜上の父"斎藤道三が、心配そうに鏡越しに私を見つめる
鏡の中の“濃姫”の顔が、
驚愕でさらに美しく見えた。
(いや、無理……!
でも……ちょっとワクワクしてる自分もいる……!)
道三は、私が鏡の前で呆然と立ち尽くしているのをしばらく黙って見つめていた。
その視線は厳しいのに、どこか深い慈しみがあった。
やがて、ゆっくりと近づいてくる。
「胡蝶」
低く、しかし驚くほど優しい声だった。
私は振り返る。
鏡の中の“濃姫”の顔が、まだ信じられない。
「……父上。私は……本当に……」
言葉が続かない。
道三はそんな私の肩に手を置き、静かに頷いた。
「混乱するのも無理はない。
だが、そなたは確かに──わしの娘、胡蝶だ」
その言葉は、胸の奥にずしりと落ちた。
道三は私の肩を軽く押し、座らせると、
自らも膝をついて目線を合わせてきた。
「胡蝶。そなたは幼い頃から、誰よりも情に厚く、誰よりも強かった。母を亡くしても泣き言ひとつ言わず、家臣の子らを守り、侍女たちを励まし……わしは誇りに思っておる」
(……そんな記憶、私にはない。でも、この人の言葉は嘘じゃない。“濃姫”としての私を、本気で愛している目だ)
道三は続けた。
「だがな、胡蝶。そなたはもう“ただの娘”ではおれぬ」
その声が、少しだけ厳しくなる。
「美濃と尾張の未来は、そなたにかかっておる。織田信長殿は、ただの若造ではない。あやつは……わしが見込んだ天下を狙う器よ」
私は息を呑んだ。
道三は、まっすぐに私を見つめる。
「そなたが嫁ぐことで、美濃は救われる。そなたが笑えば、尾張は動く。そなたが泣けば、戦が起こる」
(……そんな重い役目、私に……?
いや、濃姫としての“私”に……?)
道三は私の手を包み込んだ。
「胡蝶。覚悟を持て。そなたは“美濃の姫”である前に──
わしの娘だ。わしはそなたを信じておる」
その言葉は、戦国の荒波の中で差し出された、唯一の温もりのようだった。
胸が熱くなり、涙が滲む。
「……父上……」
道三は微笑んだ。
その笑みは、噂に聞く“美濃のマムシ”のものではなく、
ただの“娘を愛する父”の顔だった。
「泣くな、胡蝶。そなたは強い娘だ。そして──信長殿もまた、そなたを必要とする男よ」
(信長……これから会う、あの後世第六天魔王と呼ばれた男。表向きは怖くて、冷酷でも、本当は誰より優しくて、傷つきやすく、不器用な人……でも、天下を掴む男……)
あれ?さっきから私何で信長の史実でないことを知ってるんだ?
妄想?思い込み?
不思議な思いが込み上げる。
私は意を決すると"父"斎藤道三の言葉に頷いた。
「……はい。覚悟、いたします」
道三は満足そうに目を細めた。
「それでこそ、わしの娘だ」
こうして私は、
“濃姫”としての人生を歩む覚悟を、
初めて胸に刻んだ。
こうして、3日経ち――
私は花嫁衣装に身を纏い、持参金や花嫁道具を満載した荷駄とともに、織田信長のもとへ向かうことになった。
花嫁らしい豪華絢爛の打ち掛けを身にまとい、髪を結って
腰に結ばれた帯は息が詰まるほどきつい。
けれど、胸の奥はそれ以上に張りつめていた。
(……本当に、私、濃姫として嫁ぐんだ)
美濃の城下を出ると、
行列はゆっくりと尾張へ向けて進み始めた。
尾張には陸路で3日かかった。
尾張の空気は、美濃より少し暖かかった。
街道沿いには人が増え、私"マムシの娘"を一目見ようと押し寄せる。
私は緊張で喉が渇き、
手のひらは汗ばんでいた。
(……いよいよだ)
行列が清洲城の前に差し掛かったとき、
侍女が震える声で告げた。
「姫様……信長様が、お出迎えに……」
私は顔を上げた。
城門の前に立つ一人の青年。
風に揺れる髪、鋭い眼差し。
けれどその瞳の奥には、
どこか不器用な戸惑いが見えた。
(……あれ?思ってたより……若い?そして……ちょっと怖がってない?)
青年は私を見ると、
ほんの一瞬だけ目を見開き、
すぐにそっぽを向いて腕を組んだ。
「お、おそかったな……別に待っていたわけではないが」
(……虚勢張ってる!?これが……織田信長!?)
胸の鼓動が一気に跳ね上がる。
こうして私は、
美濃から三日の旅路を経て、
歴史を変える男──織田信長のもとへ嫁いだ。
そしてこの瞬間から、
“濃姫”としての物語が本当に動き出した。




