表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/26

落ちた故郷

美濃は堅固な国だった。

 山がある。

 川がある。

 城がある。

 そして優秀な家臣団がいる。

 だから誰もが言った。

 ――美濃は落ちない。

 だが私は知っている。

 本当に落ちない国など存在しない。

 国は石でできているのではない。

 人でできている。

 そして人は。

 疑い始めた瞬間から崩れる。

 最初の一人は小さな変化だった。

 美濃の有力家臣が織田方へ接触した。

 表向きは中立。

 だが噂は広がる。

 あの者は裏切ったらしい。

 義龍様を見限ったらしい。

 すると次の者が不安になる。

 そして義龍は疑い始める。

 忠臣を。

 側近を。

 重臣を。

 誰が敵で、誰が味方か、分からなくなる。

 粛清が始まる。

 疑われた者が処分される。

 すると今度は、本当に離反者が生まれる。

離反が離反を呼び。

 不信が不信を生み。

 美濃は内側から音を立てて崩れ始めた。

 まるで積み上げられた木札のように。

 一枚が倒れれば。

 次も、その次も。

 止まらない。

 私は報告書を閉じる。


 

「始まりましたね」


 

 隣の信長が笑った。


 

「ああ」


 

「お前の言った通りになった」


 

 私は首を横に振る。


 

「違います」


 

「人が選んだ結果です」


 

 私は何も強制していない。

 未来を見せただけだ。

 そして人は未来を選んだ。

 それだけだった。

 その頃。

 城では子供たちが成長していた。

 奇妙丸――信忠。

 信雄。

 信孝。

 廊下を駆け回る足音が聞こえる。

 戦の話を耳にし。

 木刀を振り回し。

 父に憧れる年頃になってきた。

 ある日。

信忠が私の元へやって来た。


 

「母上」


 

 もう自然にそう呼ぶ。

 血は繋がっていない。

 けれど私は嫡母だった。


 

「どうしました?」


 

「父上はまた戦へ行くのですか」


 

 私は少し考える。


 

「そうですね」


 

「勝てますか」


 

 真っ直ぐな目。

 幼いながらも。

 武家の嫡男らしい問いだった。

 私は膝をつき。

信忠と目線を合わせる。


 

「信忠殿」


 

「はい」

 


「戦は勝つことが一番ではありません」


 

 少年が首を傾げる。


 

「では何が一番なのですか」


 

 私は微笑んだ。


 

「起こさないことです」


 

 信忠が驚いて、目を丸くして私を見つめる。

 当然だ。

 武将の子に教えるには珍しい答えだろう。


 

「戦は起こさないのが一番の勝ち」


 

「どうして?」


 

「誰も死なないからです」


 

 私は優しく頭を撫でた。


 

「だから父上も戦を終わらせようとしているのですよ」


 

 奇妙丸は真剣な顔で頷いた。

 その姿を見ながら。

 私は少しだけ未来を願う。

 この子たちが。

 私たちより平和な世を生きられますように。

 その夜だった。

 珍しく信長が酒を持って私の部屋へ来た。

 誰もいない。

 二人だけの時間。

 信長は黙ったまま杯を傾ける。

 どこか様子がおかしい。


 

「どうしたのです?」


 

 私が尋ねると。

 信長は少しだけ視線を落とした。

 戦場で一万の敵に突っ込む男が。

 珍しく言葉を選んでいる。


 

「胡蝶」

 


「はい」


 

「お前は気にしているだろう」


 

 胸が少しだけ痛んだ。

 何の話か。

 分かってしまったからだ。


 

「……何をですか」


 

 信長は苦笑する。


 

「誤魔化すな」


 

 そして静かに続けた。


 

「子のことだ」


 

 部屋が静かになる。

 私は目を伏せた。

 信忠。

 信雄。

 信孝。

 皆可愛い。

 本当に可愛い。

 けれど――夜、一人になると考えてしまう。

 もし私にも子がいたら。

 もし信長との子を抱けたら。

 そんな想いを……。

 完全に捨てられるほど強くはなかった。

 信長はゆっくり口を開く。


 

「俺も気にしていた」


 

 意外だった。

 信長が、そんなことを……。


 

「だがな」


 

 信長は私を見る。

 真っ直ぐに。

 


「この先」


 

「俺とお前の間に子ができなくても」


 

 一呼吸。


 

「気に病むな」


 

 私は息を呑む。


 

「子供たちの嫡母はお前だ」


 

 信長の声に迷いはなかった。


 

「信忠も」


 

「信雄も」


 

「信孝も」


 

「皆、お前が育てている」


 

 胸が熱くなる。


 

「血ではない」


 

「家を繋ぐのは人だ」


 

 信長は私の手を取った。


 

「それを誇れ」


 

 言葉が出ない。

 信長は続ける。


 

「そして」


 

 少し笑った。


 

「国が俺たちの子になる」


 

 私は思わず目を見開く。


 

「国母だ、胡蝶」


 

 その瞬間。

 涙が溢れそうになった。

 子を産めない悔しさ。

 正室としての責任。

 未来人として抱える孤独。

 全部。

 少しだけ軽くなった気がした。


 

「……ずるい人ですね」


 

「何がだ」


 

「そういうことを平然と言うところです」


 

 信長は笑った。


 

「本心だからな」


 

 私は彼の肩にもたれた。

 この人となら。

 どこまでも行ける気がした。

 そして。

 美濃崩壊の報が届く。

 有力家臣の離反。

 内部対立。

 機能不全。

 もはや勝負は決していた。

 信長は軍を率いて出陣する。

 だがそれは。

 戦うためではない。

 勝利を確認するためだった。

 織田軍が進軍すると。

 城は次々と開城した。

 抵抗は少ない。

 兵の損耗も少ない。

 まるで――最初から勝敗が決まっていたかのように。

 そして。

 美濃は落ちた。

 国ごと。

 織田のものとなった。

 凱旋の日。

 家臣たちが歓声を上げる中。

 信長が私を呼んだ。


 

「皆、聞け」


 

 城内が静まる。

 信長は私の肩を抱いた。


 

「美濃を落としたのは俺ではない」


 

 ざわめきが起こる。


 

「濃だ」


 

 全員が息を呑む。


 

「戦の前に国を落とした」


 

「俺は最後に城へ入っただけだ」


 

 家臣たちの視線が集まる。

 だが私は首を振った。


 

「違います」


 

「違わん」

 


 信長は笑う。


 

「お前が国を落とした」


 

 その時だった。

 吉乃が子供たちを連れて前へ出る。

 信忠、信雄、信孝。

 皆が並ぶ。

 そして吉乃は深く頭を下げた。


 

「濃様」


 

 静かな声だった。

 


「この子たちを守ってくださり」


 

 一呼吸。


 

「ありがとうございます」

 


 私は子供たちを見る。

 未来。

 織田家の未来。

 この国の未来。

 私は優しく微笑んだ。


 

「守るためです」


 

「え?」


 

 吉乃が顔を上げる。

 私は静かに答えた。


 

「守るために、戦を終わらせるのです」


 

 信長が隣で笑う。

 夜。

 二人だけになった。

 月明かりの下。

 信長が呟く。


 

「胡蝶」


 

「はい」


 

「お前は戦を変えた」


 

 私は首を振った。


 

「いいえ」


 

 一呼吸。


 

「終わらせるために使っているだけです」


 

 信長はしばらく黙り。

 そして笑った。


 

「そうか」


 

 私は夜空を見上げる。

 一つ。

 また一つ。

 戦の種を摘んでいく。

 美濃は終わった。

 だが。

 まだ終わらない。

 まだ足りない。

 まだ戦は残っている。

 私は静かに目を細める。

 すべて摘み終えるには。

 すべての戦を終わらせるには。

 天下を取るしかない。

 その道の先に。

 私たちの目指す未来があるのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ