美濃攻略
美濃。
かつて私が生まれ育った国。
嫁ぐまで馬で野をかけ、侍女と山菜を取り、戦上手と知られ、厳格だが優しい父と、兄弟に囲まれて育った故郷。
そして今は――
信長が越えなければならない最大の壁だった。
軍議では連日、美濃攻略の話が続いている。
だが私は最初から思っていた。
この戦は城攻めではない。
人攻めだ、と。
ある日のことだった。
奥の一室で私は帳面を広げていた。
そこには美濃の家臣たちの名が並んでいる。
誰が誰と親しいか。
誰が不満を抱えているか。
誰が兄に忠誠を誓い。
誰が恐怖で従っているか。
まるで会社の組織図だった。
そんな私を見ていた吉乃が、そっと口を開く。
その腕には、生まれたばかりの子が抱かれていた。
信雄。
そしてその後には信孝も生まれた。
織田家には次々と男子が増えていく。
城中は祝賀ムードだった。
もちろん私も祝った。
正室として。
織田家の未来を支える者として。
だが。
夜、一人になると胸が少し痛む。
私はまだ、信長との子を授かっていない。
吉乃は二人目、三人目と男子を産み。
母としての地位をさらに固めていく。
嬉しい。
本当に嬉しい。
織田家が安定する。
信長の血が続く。
それは私の願いでもある。
けれど…… 女としての心は、そんなに綺麗に割り切れない。
信長の子を抱く吉乃を見るたび、胸の奥で、小さな痛みが走る。
私はその感情を押し込める。
信長の妻だから。
織田家の正室だから。
何より――信長が目指す未来を支えると決めたから。
その時だった。
「濃様」
吉乃が静かに声をかける。
私は顔を上げた。
彼女の視線は帳面へ向いていた。
「それは……美濃の方々ですか」
「ええ」
私は頷く。
「攻略対象です」
吉乃が少し顔を曇らせる。
「お里なのでしょう?」
その言葉に。
私の手が一瞬止まった。
お里――故郷。
そうだ。
美濃は私の故郷だ。
幼い頃を過ごした土地。
父の声を覚えている土地。
だが、今は違う。
「濃様」
吉乃は続けた。
「なぜそこまで冷静でいられるのですか」
部屋が静かになる。
私はしばらく考えた。
そして。
ゆっくりと答える。
「感情で守れるほど」
一呼吸。
「この時代は優しくない」
吉乃が息を呑む。
私は帳面を閉じた。
「私が故郷を守りたいと思っても」
「誰かが美濃を攻めるでしょう」
「私が涙を流しても」
「戦はなくなりません」
それが現実だ。
戦国時代。
優しさだけでは生きられない。
私は静かに立ち上がる。
「いつかは消える故郷なら……」
窓の外を見る。
遠く。
美濃の方角へ。
「織田の……殿の手で終わらせたい」
吉乃は黙って聞いていた。
「そして……戦そのものを」
それが信長の夢。
そして今は私の夢でもある。
吉乃は小さく微笑んだ。
「本当に不思議な方ですね」
「よく言われます」
私は苦笑した。
未来から来たなど言えない。
けれど。
私の考え方がこの時代の人間と違うことは自覚していた。
だからこそ見えるものもある。
数日後。
私は再び軍議に参加していた。
目の前には美濃の地図。
家臣たちは城の数を数えている。
兵数を比較している。
だが私は違った。
地図ではなく。
人間関係図を見ていた。
「柴田殿」
「はっ」
「この家臣は義龍派」
「こちらは亡き父道三派」
「こちらは様子見」
次々と指を動かす。
家臣たちが驚いた顔をする。
「どうしてそこまで分かるのです」
「調べたからです」
当たり前のように答える。
未来なら企業分析。
戦国なら家臣分析。
やることは同じだ。
「国とは組織です」
私は言った。
「そして組織は人でできています」
信長が楽しそうに笑う。
私は続けた。
「城は石ではなく、人でできています」
部屋が静まり返る。
「ならば崩すべきは石垣ではありません」
「人間関係です」
全員の視線が私へ向く。
「裏切れとは言いません」
「寝返れとも言いません」
「ただ考えてもらうのです」
私は地図を見下ろす。
「誰についていけば家が残るのか」
「誰についていけば子孫が生き残るのか」
「誰についていけば未来があるのか」
その答えが。
自然と信長になるように。
誘導する。
これが調略。
これが解体戦略。
さらに商人たちも動いていた。
尾張の市は繁盛し始めている。
商人は利益を求める。
利益は尾張に集まる。
すると美濃の金が流れ出す。
兵糧も、税収も。
徐々に痩せていく。
戦わずして削る。
未来でいう経済制裁。
情報網も同時に動く。
噂、流言、不信――義龍が疑い始める。
家臣が疑い始める。
やがて組織は内側から軋む。
誰も裏切っていない。
だが誰も信じていない。
それだけで国は弱る。
そして私は知っていた。
どんな巨大な組織も。
外から壊されるのではない。
中から崩れる。
夜。
軍議を終えた信長が隣に座った。
彼は地図を見ながら笑う。
「まだ戦ってもおらぬのに」
「はい」
私は微笑む。
「すでに勝ち始めています」
信長が目を細める。
その顔は嬉しそうだった。
「胡蝶」
「はい」
「お前は恐ろしい女だな」
私は肩を竦めた。
「褒め言葉ですね?」
「ああ」
信長は即答する。
「最高の褒め言葉だ」
何度も繰り返されるこのやり取りに、私は笑った。
そして心の中で呟く。
美濃は落ちる。
城を攻める前に。
戦を始める前に。
もう勝敗は決まり始めている。
なぜなら――この戦は城取りではない。
国を作るための戦だからだ。




