尾張という『国』づくり
信行の断罪から半年。
尾張は変わり始めていた。
いや。
正確には――私は尾張を「国」に変え始めていた。
戦国大名の領地ではない。
戦争のための土地でもない。
人が生きる国。
信長が天下を取るなら。
その土台を作るのは私の役目だった。
ある日の軍議。
重臣たちが集まる中、私は机の上に積まれた帳簿を広げた。
柴田勝家が眉をひそめる。
「濃姫様。戦の話ではないのですか」
「戦の話です」
私は即答した。
「最も重要な戦の話です」
家臣たちが顔を見合わせる。
私は一枚の紙を取り出した。
「尾張国内の市です」
「市?」
「はい」
戦国時代の市は面倒だった。
関所。
通行税。
商売税。
領主ごとの徴収。
今で言うなら高速道路の料金所が百メートルごとにあるようなものだ。
「商人が儲からないと、人は動きません。金が流れない国は結果、貧しくなります」
私は断言した。
「だから変えます」
ざわり。
空気が揺れる。
「関所を減らします」
「市の制限を緩和します」
「商人を保護します」
家臣たちが目を丸くする。
「商人を?」
「そうです」
私は笑った。
「戦わずして富を作ります」
沈黙。
戦国武将たちには理解しにくい。
だが、信長だけは違った。
「なるほど」
すぐに反応する。
「金を生む兵か」
「その通りです」
私は頷く。
「兵糧も武具も税も、全て金から生まれます」
信長は面白そうに笑った。
「続けろ」
そこから始まった。
尾張改造計画。
後に楽市楽座へ繋がる最初の一歩だった。
さらに私は兵の制度にも手を入れる。
「農民は畑へ」
「兵は兵へ」
家臣たちが騒ぐ。
「それでは兵が減りますぞ!」
「逆です」
私は首を振った。
「増えます」
農繁期になると兵が消える。
戦国の常識だった。
だが私は知っている。
それでは国家は維持できない。
「常に戦える兵」
「常に作物を作る農民」
「役割を分けるのです」
未来で言う兵農分離。
まだ芽に過ぎない。
だが信長は理解した。
「なるほど」
彼は笑う。
「戦をするための国ではなく」
「維持できる国か」
「はい」
私は笑顔で答える。
「天下を取るなら必要です」
その言葉に、家臣たちが静まり返った。
いつの間にか。
誰も私をただの正室とは見なくなっていた。
そして。
私の本当の武器は別にある。
情報だ。
女中・乳母・商人・旅芸人・忍び。
彼らが日々運んでくる話。
誰が何を買った。
誰が誰と会った。
どこの城で不満が出ている。
どこの大名が兵を集めている。
全て集約される。
清洲城の一室。
そこには地図があった。
日本地図だ。
私はそこに木札を置いていく。
「美濃」
「近江」
「三河」
「越前」
信長が後ろから覗き込む。
「面白いな」
「何がです?」
「まるで天下が手の中にあるようだ」
私は笑う。
「情報がある者が天下を取るんですよ」
未来では常識だ。
戦争も、政治も、経済も。
情報で決まる。
信長は腕を組む。
「お前は本当に未来でも見てきたようなことを言うな」
思わず肩が跳ねた。
危ない。
図星である。
私は慌てて話題を変えた。
「それより奇妙丸様です」
「ん?」
信長の顔が柔らかくなる。
父の顔だ。
最近の奇妙丸はよく学ぶ。
木刀を振るだけではない。
字を書く。
計算する。
地図を見る。
私は教育計画を作っていた。
武だけでは駄目だ。
統治を学ばせる。
国を運営する方法を。
奇妙丸は嫡男だ。
だからこそ。
私は妥協しない。
吉乃も最初は戸惑った。
「そこまで学ばせるのですか?」
と。
私は笑った。
「武将は剣だけでは務まりません」
「国を治めるのです」
その日から吉乃も協力するようになった。
今では奇妙丸の勉学を誰より喜んでいる。
私は母ではない。
血も繋がっていない。
それでも。
奇妙丸の未来を作る責任がある。
それが正室だ。
それが国母になるということだ。
――ある夜。
仕事を終えた私は縁側に座っていた。
月が綺麗だった。
隣に信長が腰を下ろす。
しばらく無言。
心地よい沈黙。
やがて信長が口を開いた。
「胡蝶」
「はい」
「お前がいるから」
私は振り向く。
信長は夜空を見ていた。
「俺は前に出られる」
静かな声だった。
「戦場で暴れられる」
「天下を目指せる」
「背中を気にしなくて済む」
一つ一つ。
噛み締めるように言う。
「お前がいるからだ」
胸が熱くなる。
戦場で褒められるより。
家臣に称賛されるより。
その言葉が嬉しかった。
私は小さく笑う。
「それはつまり」
「ん?」
「私なしでは困るということですか?」
信長は即答した。
「ああ」
迷いもなく。
当たり前のように。
「困る」
私は吹き出した。
本当にこの人は。
時々、とんでもないことを平然と言う。
信長は私の手を握る。
強く。
だが優しく。
「だから離れるな」
月明かりの下。
天下人になる男が。
私だけに見せる顔。
私はその手を握り返した。
「離れませんよ」
信長が天下を取りたいなら。
私は国を作る。
信長が戦を終わらせたいなら。
私は戦のない仕組みを作る。
夫婦で一つ。
武と政。
剣と知恵。
天下布武の歯車は、静かに回り始めていた。
そして次なる舞台。
美濃。
私の故郷であり。
信長最大の障壁。
斎藤家との戦いが、すぐそこまで迫っていた。




