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胡蝶と稲生の戦

火は、静かに燃え広がっていた。

見えないところで、確実に。

――そして、ついに爆ぜる。

織田信行が挙兵した。

報せは夜明け前に届いた。


 

「信行様、兵を挙げられました」


 

部屋の空気が、一瞬で張り詰める。

やはり、来た。

私はゆっくりと息を吐く。

視線を落とした先には、すでに用意された書付。

内通者の名。

揺れている家臣。

裏で動く者。

すべて、把握済み。


 

「予定通りに」


 

静かに告げる。


 

「今夜のうちに、全員を隔離」


 

「……よろしいのですか」


 

「ええ」


 

迷いはない。


 

「戦は、始まる前に勝つものです」


 

家臣が去る。

私は一人、窓の外を見た。

まだ夜は明けきっていない。

だが、もう勝敗は決まっている。

戦場ではなく――

“準備”で。


 

「信行が動いた」


 

織田信長が、低く言う。

軍議の間。

重臣たちの顔には、緊張と不安。

当然だ。

家中は二つに割れた。

誰が敵で、誰が味方か。

完全には見えない。

――普通なら。


 

「問題ありません」


 

私は一歩、前に出る。

全員の視線が集まる。


 

「すでに、内通者は排除済みです」


 

ざわり、と空気が揺れる。


 

「補給路は確保」


 

「兵糧も抑えております」


 

「伝令も、こちらの管理下です」


 

静かに続ける。


 

「信行殿の軍は、すでに“孤立”しております」


 

沈黙。

誰も、言葉を発せない。

それほどまでに、準備は整っている。

信長が、私を見る。


 

「……いつからだ」


 

「挙兵前からです」


 

「読んでいたか」


 

「ええ」


 

私は微笑む。


 

「組織は、必ず歪みますから」


 

信長は、ふっと笑った。


 

「ならば、あとは斬るだけだな」


 

「はい」


 

私は頷く。


 

「戦は、あなたに」


 

そして、わずかに視線を落とす。


 

「勝利は、こちらで用意いたしました」


 

稲生。

朝霧の中、両軍が対峙する。

兵数は拮抗。

だが中身は違う。

信行軍は揺れている。

誰を信じればいいのか分からない。

補給は途絶え。

伝令は遅れ。

命令は混乱する。

すでに“崩れている”。

その中央に、信長が立つ。

一騎。

その姿は、圧倒的だった。


 

「行くぞ」


 

短い言葉。

次の瞬間、駆ける。

速い。

迷いがない。

まるで一直線に、戦の中心を貫くように。

敵陣が割れる。

恐怖が走る。

――強すぎる。

それが、そのまま武器になる。

刃が閃く。

血が舞う。

叫びが上がる。

だが、それすら一瞬。

戦は、終わった。

あまりにも、あっけなく。

捕らえられたのは、織田信行。

そして、その背後で泣き崩れる。

土田御前。


 

「どうか……どうかお許しを……」


 

母の声。

それは、紛れもなく本物だった。

信長は、黙って立っている。

剣を握ったまま。

その手は、わずかに揺れていた。

――情だ。

弟。

母。

切り捨てきれないもの。

私は一歩、前に出る。


 

「……濃」


 

信長が、私を見る。

その目には、迷いがあった。

私は、静かに言う。


 

「この者は、再び挙兵します」


 

土田御前が顔を上げる。


 

「何を……!」


 

「構造の問題です」


 

私は感情を切り離す。


 

「一度成功体験を持った反乱は、必ず繰り返されます」


 

「黙れ!」


 

「そして」


 

私は続ける。


 

「次は、もっと巧妙になります」


 

沈黙。

重い空気。


だが、私は引かない。


 

「これは家族の問題ではありません」


 

「組織の問題です」

 


「排除すべきリスクです」


 

信長の拳が、強く握られる。

だが――

次の瞬間。

ゆっくりと、それが解かれた。


 

「……分かっている」


 

低い声。

だが。


 

「だが」


 

一歩、前に出る。

信行の前へ。


 

「今回は許す」


 

空気が止まる。

私は目を細める。

やはり、そう来る。

信長は振り返る。

真っ直ぐに、私を見る。


 

「それでも、俺は選ぶ」


 

一瞬の沈黙。

そして、続ける。


 

「お前をな」

 


その言葉に、全てが詰まっていた。

情ではなく。

迷いでもなく。

“選択”として。

私は、小さく息を吐く。

……この人は。

本当に、ずるい。

合理ではない。

最適解でもない。

それでも。

私を選ぶ。

私は目を伏せる。


 

「……承知しました」


 

そして顔を上げる。


 

「では、次に備えます」


 

信長が、わずかに笑う。


 

「ああ」


 

短い返事。

それだけでいい。

戦は終わった。

尾張は、ほぼ掌中に収まった。

だが私は知っている。

これは終わりではない。

始まりだ。

内乱は、完全には消えていない。

火種は残る。

だから――

潰す。

構造ごと。

完全に。

私は静かに歩き出す。

正室として。

統治者として。

そして――

この人に選ばれた女として。

戦は信長。

だが勝利は、私が作る。

それが、この時代の。

新しい“支配”の形だった。

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