またなる信行の裏切り
勝利の熱は、まだ城に残っていた。
稲生の戦。
織田信行は敗れ、捕らえられた。
すべてが終わった――
誰もが、そう思った。
「どうか……どうかお許しを……!」
涙に濡れた声が、広間に響く。
土田御前。
母としての懇願。
その前に立つのは、織田信長。
沈黙。
重い、重い沈黙。
やがて。
「……弟だ」
短く、それだけ言った。
許し。
決断は、情だった。
空気が緩む。
助かった、と誰かが息を吐く。
――甘い。
私は、ただ静かに目を伏せた。
(再発リスク、100%)
現代で何度も見た。
内部クーデター。
一度起きた組織は、必ず繰り返す。
理由は単純だ。
“成功しかけた”から。
次は、もっと巧妙にやる。
私は信長を見る。
この人は分かっている。
それでも、切れない。
情があるから。
――だからこそ。
私が、やる。
日常は、何事もなかったかのように流れる。
奇妙丸は順調に育っている。
小さな手。
柔らかな頬。
未来そのもの。
その傍らにいるのは、吉乃。
母としての顔。
そして――
次第に強まる、発言力。
当然だ。
嫡男の生母。
この城で、最も“価値”のある立場の一つ。
私はそれを、冷静に見ていた。
(子は政治資源)
感情ではなく、事実。
だからこそ――
守る。
利用するために。
織田家を続かせる為に。
「正室様」
吉乃が、私を呼ぶ。
その声には、わずかな不安。
「最近……城の様子が」
気づいている。
空気の変化に。
私は微笑む。
「ええ。まだ、終わっておりません」
「……え?」
私は一歩、近づく。
奇妙丸の寝顔を見下ろす。
「この子は、守られねばなりません」
吉乃の腕に、力が入る。
「もちろんです!私は――」
「だからこそ」
私は遮る。
静かに、だがはっきりと。
「火種は消します」
沈黙。
吉乃の目が揺れる。
理解したのだ。
「……まさか」
「再び、起きます」
「そんな……」
「起きます」
断言する。
「次は、もっと近くで」
吉乃の顔が、青ざめる。
「……奇妙丸様は守ります」
私は彼女を見る。
真っ直ぐに。
「必ず」
一拍。
「そのために、あなたにも動いていただきます」
「……私が?」
「ええ」
私は微笑む。
「母ですから」
その瞬間。
吉乃の中で、何かが変わった。
敵ではなく。
同じ方向を見る者へ。
「……分かりました」
小さく、だが確かな声。
私は頷く。
これでいい。
駒ではない。
“協力者”だ。
夜。
灯りの下。
報告が並ぶ。
武器の調達、密会の記録、人の流れ。
すべて、繋がる。
中心にいるのは――織田信行。
そして、その背後。
土田御前。
(やはり)
私は紙を置く。
迷いはない。
すべて、想定内。
「準備を」
静かに命じる。
「包囲を完成させます」
女中が頷く。
商人が動く。
乳母が耳を運ぶ。
この城の“見えない網”が、締まっていく。
逃げ場は、ない。
そして――信長のもとへ。
「胡蝶」
彼はすぐに気づく。
「顔が違うな」
私は答える。
「再蜂起の兆しがあります」
沈黙。
「……まだか」
「はい」
私は一歩、近づく。
「これは家族の問題ではありません」
真っ直ぐに言う。
「組織の問題です」
信長の目が細まる。
「次は」
私は続ける。
「あなたが殺されます」
空気が張り詰める。
だが、私は逸らさない。
「情は理解します」
「ですが」
「統治は、感情で行うものではありません」
これでは信長と私あべこべだ。
戦国へきて数年。
私は胡蝶であり、信長の『影』でもあった。
常に信長の隣に立つには、彼を活かし続けるには私が、鬼にならなくてはいけない。
令和を生きていた胡蝶は過去のものだ。
私は"戦国"を生きる胡蝶だ。
信長の沈黙。
長い沈黙。
やがて――
信長が、息を吐く。
「……分かっている」
低い声。
苦い理解。
それでも。
「だが、あれは弟だ」
私は頷く。
「ええ」
そして。
「だからこそ、私がやります」
その一言で、空気が変わる。
信長が、私を見る。
深く。
「……お前は」
言いかけて、止まる。
代わりに。
小さく、笑った。
「本当に、容赦がないな」
「合理的です」
即答する。
一瞬の沈黙。
そして――信長は、手を伸ばす。
私の頬に触れる。
「それでも」
低く。
確かに。
「俺は、お前を選ぶ」
胸が、揺れる。
この人は。
全部わかっている。
その上で。
それでも、選ぶ。
私は目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
そして、開く。
「……では」
静かに告げる。
「終わらせます」
城は静かだ。
だが、その下では。
すべてが動いている。
網は張られた。
逃げ場はない。
次に火が上がるとき。
それは――完全に、消えるときだ。
戦は、まだ終わらない。
だが――勝ちは、もう決まっている。
火は、消えていなかった。
静かに、だが確実に――くすぶり続けていた。
報せは、夜の奥で届く。
「……再び、動いております」
名は、言うまでもない。
織田信行。
私は、目を閉じる。
(やはり)
驚きはない。
予測通り。
武器の調達、密会の記録、裏で糸を引く影。
すべて、揃っている。
証拠は十分。
逃げ道は、ない。
――だが。
「まだ、決定打が足りない」
私は静かに呟く。
信長を、完全に動かすための“理由”。
情を断ち切らせる“何か”。
その答えは――あまりにも早く、訪れた。
「若君が……!」
血の気の引いた声が、廊下に響く。
「奇妙丸様が、襲われました!」
世界が、一瞬止まる。
足が勝手に動く。
奥の間。
そこには――小さな体。
眠っている。
だが、その枕元。
短刀が、深く畳に突き刺さっていた。
一歩、遅れていれば。
息が、止まる。
背後で、誰かが泣き崩れる。
吉乃だ。
「そんな……どうして……!」
私は、何も言わない。
ただ、短刀を見る。
それが意味するものは、一つ。
(ここまで、来たか)
狙いは、後継。
家を潰す最短の一手。
そして、それを選んだということは――もう、戻れない。
夜。
静まり返った部屋。
織田信長が立っている。
動かない。
ただ、そこに。
「……弟を」
低い声。
「信じたかった」
その言葉は、本音だった。
私は、何も言わずに近づく。
彼の前に立つ。
「だが」
信長の拳が、震える。
「守るべきものがある」
私は頷く。
そして、静かに言う。
「もう“情”では守れません」
沈黙。
その言葉は、刃だった。
優しさではなく。
逃げ場を断つための。
信長の目が、揺れる。
だが――逃げない。
「……ああ」
一歩、前に出る。
その目に、迷いは消えていた。
「分かった」
その瞬間。
すべてが決まる。
処断は、速かった。
言い訳も、弁明も、許されない。
証拠は揃っている。
逃げ道はない。
引き出されたのは、織田信行。
かつての弟。
今は、敵。
「兄上……!」
声が響く。
だが、届かない。
信長は、ただ見下ろす。
「……なぜだ」
絞り出すような声。
信行は笑う。
歪んだ、笑み。
「あなたが……強すぎるからだ」
沈黙。
それが、すべてだった。
信長は、目を閉じる。
一瞬。
そして――開く。
「……そうか」
それ以上は、何も言わない。
「処せ」
短い言葉。
それで終わる。
刃が振り下ろされる。
音は、小さかった。
だが――確実に、“家族”が断ち切られた。
崩れ落ちる声。
土田御前。
「信行……信行……!」
母の叫び。
だが、誰も止めない。
止められない。
これはもう――戻らない選択。
夜。
すべてが終わった後。
部屋には、二人だけ。
信長が座っている。
力なく。
「俺は……弟を殺した」
その声は、ひどく静かだった。
私は、彼の前に座る。
そして、言う。
「いいえ」
一呼吸。
「“未来を守った”のです」
沈黙。
信長が、ゆっくりと顔を上げる。
私は続ける。
「守るべきものを、守った」
「それだけです」
嘘ではない。
慰めでもない。
ただの、事実。
信長は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく息を吐く。
その夜。
私は、静かに奥へ向かう。
奇妙丸は、眠っている。
何も知らずに。
小さな寝息。
穏やかな顔。
私は、その頬に触れる。
温かい。
(この子を守るために)
胸の奥で、何かが沈む。
(私は、情を捨てた)
それでもいい。
それでいい。
この子が生きるなら。
この国が続くなら。
背後から、気配。
振り返る。
信長。
彼は、奇妙丸を見る。
しばらく。
何も言わずに。
やがて、私を見る。
「胡蝶」
低く。
だが、揺るがない声。
「俺が信じるのは、お前だけだ」
胸が、静かに満ちる。
私は、頷く。
それだけでいい。
尾張は、完全に掌握された。
内乱の火は、消えた。
誰も、逆らえない。
すべてが、整った。
だが――私は、障子の外を見る。
夜は深い。
静かだ。
あまりにも。
だからこそ、分かる。
これは終わりではない。
私は、静かに呟く。
「これで終わりではない」
誰にでもなく。
「これは、“始まり”」
戦は、まだ続く。
だが。
もう迷いはない。
私は、この人の隣で。
すべてを支配する。
未来を守るために。




