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桶狭間の戦い

――空が、割れた。

最初の雷鳴は、地を叩き割るような轟音だった。

次の瞬間、雨。

叩きつけるような豪雨。

視界は、消えた。

音も、消えた。

世界が、白と黒に塗り潰される。


――来た。


これが、私の読んだ“未来”。


「すごい天気ですなぁ。お方様の予想は大当たりじゃ。」



 私に着いてきた乳母のお鶴が、嬉々として空を見あげた。

 そして、雷鳴に照らされた私の顔に戦慄を覚えたのを感じた。

 そう――私は雷鳴と豪雨の中、勝ちを確信して笑う顔は人のものではなかったようだ。


 桶狭間。


 

「行くぞ!!」


 

織田信長の声が、雷を切り裂く。

三千。

わずか三千の兵が、谷を駆け下りる。

泥が跳ねる。

足が取られる。

だが、止まらない。

止まれば終わる。


 

「前へ!!」


 

信長は、先頭にいた。

後ろではない。

真ん中でもない。

先頭。

狂気。

だが、それがこの男だ。

今川の陣は、すでに崩れていた。

二万五千。

だが今はただの群れ。

雨で旗は見えない。

声は届かない。

誰がどこにいるのか分からない。


 

「敵襲だと!?」


 

「どこだ!?」


 

混乱、恐怖、連鎖。

その中心を、信長は一直線に突き抜ける。


 

「義元を討て!!」


 

ただ一つの命令。

それだけでいい。

首を落とせば、終わる。

戦は、数ではない。

“核”だ。

ぬかるむ地面。

視界ゼロの中、突如として現れる影。

豪奢な陣幕。

守りの厚さ。


――いた。


今川義元。



「何事だ!」


 

怒号。

だが遅い。


 

「織田信長、推して参る!!」


 

雷鳴と同時に、刃が走る。

火花。

肉を裂く音。

雨で血が流れる。

誰のものかも分からない。

ただ、斬る。

前へ。

前へ。

止まれば死ぬ。

信長は、一切迷わない。

義元の側近が立ちはだかる。


 

「殿に近づけさせるな!」


 

「邪魔だ」


 

一閃。

崩れる。

間合いが、詰まる。

義元が刀を抜く。


 

「無礼者が!!」


 

その瞬間――稲妻。

世界が白く染まる。

そして――黒に戻ったとき。

勝負は、終わっていた。

首が、落ちる。

泥と血の中に。

静寂。

一瞬の、絶対的な静寂。

そして――


 

「義元討ち取ったりィィ!!」



信長の雄叫びと共に尾張軍の鬨の声があがる。

雄叫びが、雷を越える。

崩壊。

二万五千が、瓦解する。

それは戦ではない。

崩落だった。


雨はまだ、降り続いていた。

私は城で待っていた。

手が、冷たい。

でも震えていない。

分かっている。

この戦は勝つ。

そう“知っている”。

それでも――遅い。

遅すぎる。

そのとき。

足音、荒い、重い。

扉が開く。

そこにいたのは――血まみれの男。

織田信長。


 

「……胡蝶」


 

低い声。

かすれている。

私は一瞬、動けなかった。

全身、血。

雨で流れているが、それでも分かる。

どれだけ斬ったのか。

どれだけ、斬られたのか。

私は駆け寄る。


 

「無事……」


 

言葉が詰まる。

信長は笑った。


 

「勝った」


 

それだけ。

それだけでいい。

私は思わず、彼の胸を叩いた。


 

「当たり前です……!」


 

涙が出る。

ああ、ダメだ。

合理も、分析も、全部吹き飛ぶ。

ただの女になる。


 

「遅いんですよ……!」


 

信長が一瞬、目を見開く。

そして、静かに笑う。


 

「すまぬな」


 

珍しい。

謝るなんて。

私は顔を上げる。


 

「……怪我は」


 

「かすり傷だ」


 

嘘だ。

でも、それでいい。

私は彼の頬に触れる――温かい。

生きている。


 

「胡蝶」


 

「はい」


 

「嵐は来たな」


 

私は小さく笑う。


 

「言ったでしょう」


 

「来ると」


 

信長は、ゆっくりと私を抱き寄せる。

血で汚れる。

でも、離れない。


 

「お前が未来を言った」


 

「俺がそれを掴んだ」


 

その声は、確信に満ちていた。


 

「天下を取る」


 

静かな宣言。

私は彼の胸に額を預ける。


 

「はい」


 

この人は、本気だ。

そして私は、ここにいる限りそれを支える。

戦は終わった。

だが――ここからが始まりだ。

『桶狭間の戦い』

それは奇跡ではない。

二人で掴んだ、必然。

血と雨の中で――二人で掴んだ大きな勝利だった。

 

 

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