奇策
密偵から、その報告がとどいたのは深夜だった。
褥を抜け出して密書を読んだ信長が、私に声をかける。
「胡蝶。今川が動くぞ。」
その一報は尾張城を揺るがせた。
尾張はまだ、一つではない。
内には、織田信行の影。
外には――今川義元。
「二万五千」
報告が落ちた瞬間、広間の空気が死んだ。
対する尾張。
「……三千」
誰かが呟く。
勝ち目など、ない。
それが常識だった。
清洲城の軍議。
重臣たちの顔は、すでに死んでいる。
「今川勢、二万五千」
誰かが読み上げる。
対してこちらは――
「三千」
沈黙――。
いや、これは沈黙じゃない。
“諦め”だ。
普通に戦えば負ける。
誰でも分かる。
柴田が言う。
「籠城にございます」
正しい。
でもそれは、“負けない”だけの選択。
「その間に、信行が動く」
信長の一言で、すべてが崩れる。
内乱。
外敵。
詰み。
完璧なチェックメイト。
――いいえ。
違う。
私はゆっくりと口を開いた。
「勝てます」
全員が、私を見る。
女の声。
だが今は、それを笑う者はいない。
「……どうやってだ」
低い声。
私は答える。
「“数を無意味にします”」
私は畳に指で簡単な地形を描く。
「ここが桶狭間」
「谷です」
「視界が悪い」
「音も反響する」
信長の目が細くなる。
いい。
この人は、理解が早い。
「そして今川軍は大軍」
「つまり――」
私は顔を上げる。
「“まとまりきれない”」
ざわ、と空気が揺れる。
「さらに、勝って当然の戦」
「油断します」
ここまでは、戦術。
だが、本質はここからだ。
「そして――天を使います」
「天?」
誰かが呟く。
私は頷く。
「雷雨が来ます」
沈黙。
当然だ。
未来の天気を言い当てる女など、いない。
普通は。
「午後、熱がこもる」
「湿度が高い」
「この地形」
「条件は揃っています」
私は確信していた。
令和の知識。
夏の夕立。
ゲリラ豪雨。
「視界が潰れます」
「音が消えます」
「二万五千は、“ただの群れ”になります」
信長が、笑った。
ぞくり、とする笑み。
「面白い」
私は最後に言う。
「その瞬間に、叩き込みます」
「狙うのは一つ」
一呼吸。
「今川義元の首」
私は確信のある不敵な笑みを浮かべた。
沈黙。
重い沈黙。
誰も、言葉を出せない。
当たり前だ。
これは戦ではない。
賭けだ。
だが――
「それで行く」
即答。
私は思わず、笑いそうになった。
やっぱりこの人は――狂ってる。
でも、それでいい。
「勝てる戦をする」
信長は言い切る。
「数で負けるなら、数を消す」
そして、私を見る。
「濃」
「はい」
「嵐は来るな」
「来ます」
即答。
私は、知っている。
この空気の重さ。
この風の止まり方。
この後に来るものを。
「ならば勝てる」
この人は、一切迷わない。
「聞け!皆の者!濃はマムシの娘で如来の化身ぞ!
その言葉を信じて、俺についてこい!」
信長の、掛け声に"おお!"と声がかかった。
未来予知できなくても、負け戦になるかもしれないこの状況でも"勝てる!"と信じさせてくれるこの人は本当のカリスマの持ち主だ。
――軍議の後。
寝室で私は一人、空を見ていた。
胸が高鳴る。
怖い?
違う。
これは――興奮だ。
歴史の分岐点。
そして私は、それを“知っている側”にいる。
「胡蝶」
振り向く。
信長。
「怖いか」
私は少し考える。
「勝率は低いです」
「だが?」
私は笑う。
「あなたがいるので」
信長は鼻で笑う。
「当然だ」
一歩、近づく。
「俺が勝つ」
断言。
この人は、勝つと言ったら勝つ。
そういう男だ。
「お前は未来を読む」
「俺は、それを現実にする」
胸が熱くなる。
ああ――
私は、この人に賭けている。
そして翌日――雷鳴。
空が割れた。
雷、豪雨、視界ゼロ。
音が消える。
二万五千が、混乱する。
その中を――三千が走る。
私は城から、祈る。
いや、違う。
確信している。
この戦は勝つ。
なぜなら――未来は、知っている。
そしてその未来を、
この男は、必ず掴む。
桶狭間の戦い。
それは奇跡ではない。
計算された、必然。
そしてその中心にいるのは――私たちだ。




