レイズとして生きていく覚悟を決めた。
ヴィルは深く息を吐いた。まるで胸の奥に長い間溜め込んでいた重荷を、ようやく少しだけ下ろすことができたかのように静かに目を閉じる。
「……本当に良かった」
その声には、隠しきれないほどの安堵が滲んでいた。長年抱え続けてきた不安や心配、そして後悔。そのすべてが少しだけ軽くなったのだろう。先ほどまでとは違い、ヴィルの表情はどこか穏やかなものへと変わっている。それでも完全に消えていないものが、一つだけあった。
未練だ。
レイズはそんなヴィルの表情を見つめているうちに、自然とその理由を理解してしまった。
(……そうか。本当なら――ヴィルが見たかったのは、今の俺じゃないんだ)
ヴィルが守りたかったもの。育てたかったもの。そして、いつの日か自分の後を継いでほしいと願っていたもの。それは今ここにいる自分ではなく、この身体で本来生きていた“本当のレイズ”だったのだろう。
そう思っても、ヴィルを責める気持ちなど少しも湧かなかった。むしろ当然だった。祖父として、家族として、そしてアルバード家を背負う者として、ヴィルは最後まで本来のレイズを信じていたのだろう。だからこそ、その想いが痛いほど伝わってくる。
そして同時に、一つの疑問がレイズの中へ残った。
(……だったら、なんでだ?)
ヴィルはここまでレイズのことを想っている。イザベルだってそうだ。屋敷で暮らしている者たちの中にも、本来のレイズを心配していた者は少なくない。
それなのに、どうして本来のレイズはあそこまで荒れてしまったのか。なぜ周囲の者たちが心配するほど追い詰められ、ゲームの中ではあんな未来へ辿り着いてしまったのか。自分がこの世界へ来てから少しずつ知った過去を繋ぎ合わせても、そこだけがどうしても見えてこない。
その時、ふと一つの名前が脳裏へ浮かんだ。
――メルェ。
以前、クリスの口から聞いた名前だった。レイズの知っているゲームには存在しない。少なくとも自分が遊んでいた中で、その名が語られた記憶は一度もなかった。それなのに、なぜかその名前だけが妙に引っかかっている。
(……あぁ。もしかして、そこから全部が狂い始めたのか?)
確信などない。メルェという人物が何者なのかさえ、まだ何も知らない。それでも直感だけが告げていた。
メルェ。
その人物こそが、自分の知らない“本当のレイズ”を知るための、大きな鍵なのではないかと。
気づけば自分は、この世界へ来たばかりの頃には考えもしなかった場所まで足を踏み入れている。ゲームの未来を知っているだけだった自分が、ゲームでは決して語られることのなかった過去へ近づき始めている。
本来のレイズが何を見て、何を失い、何を思い、どうしてあの未来へ辿り着いたのか。その人生を、少しずつ知ろうとしている。
レイズは静かに目を閉じ、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……お前も救ってやるよ」
その言葉はヴィルへ向けたものでも、イザベルへ向けたものでもない。ただ一人、もうここにはいない本来のレイズへ向けた言葉だった。
「レイズ……」
自分自身の名前を、もう一度口にする。
転生してから何度も呼ばれてきた名前。最初はゲームに登場するキャラクターの名前でしかなかった。チュートリアルで倒される敵であり、未来ではカイルによって殺される男。自分にとってのレイズとは、ただそれだけの存在だった。
けれど今は違う。
ヴィルがいる。イザベルがいる。リアナたちがいる。クリスがいる。そして自分の知らないところで、本来のレイズと関わっていた者たちがいる。
この名前には、自分が思っていたよりもずっと多くの人間の想いが繋がっている。
「もう大丈夫だ」
その言葉を口にした瞬間、レイズの中で何かが静かに定まった。
この身体へ転生してから初めて、本当の意味でレイズとして生きていく覚悟が決まった。与えられた人生だから生きるのではない。死にたくないから未来を変えるだけでもない。誰かに押しつけられた役割を演じるわけでもない。
自分で選ぶ。
これから先、この世界でレイズとして生きていく。本来のレイズが守れなかったものがあるのなら、自分が守る。救えなかった者がいるのなら、自分が救う。そしていつか、本来のレイズがなぜあの未来へ辿り着いたのか、その答えまで見つけてみせる。
レイズは、自らの意思でレイズになることを決めた。
そんな彼を見つめていたイザベルの瞳には、いつの間にか涙が浮かんでいた。けれど、それは悲しみだけから流れたものではない。安心も、喜びも、そしてこれから先への希望も。様々な感情が入り混じった涙だった。
「うん。レイズ君ならできるよ」
イザベルは迷うことなく優しく頷き、少しだけ身を乗り出すと、いつものように柔らかな笑みを浮かべた。
「だからね? 私も手伝う。一緒に頑張ろうね?」
その言葉がレイズの胸の奥へ真っ直ぐ届き、思わず視線を逸らしてしまう。
眩しかった。
イザベルの優しさが。この世界へ来てから知った、人の温かさが。
そして優しければ優しいほど、温かければ温かいほど、レイズは思い知らされる。自分が知っていたゲームというものが、どれほど多くのものを切り捨てて作られていたのかを。
ゲームの中では名前すら残らなかった人々がいる。語られることのなかった想いがあり、プレイヤーには知られることすらなく消えていった人生がある。だが今、そのすべてが目の前に存在している。
ゲームの中では一行で終わった出来事にも、その裏では誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが何かを失っていたのかもしれない。
ならば――守りたい。
この世界を。ここで出会った人たちを。そして、本来のレイズが守ることのできなかったものを。
ヴィルはそんな二人を静かに見つめていた。しばらく何も言わなかったが、やがてその表情を僅かに緩める。
「少々、話が長くなってしまいました……」
穏やかな声だった。その顔には、先ほどまでとは違う確かな安堵が浮かんでいる。
かつてのヴィルは誰よりも大きく、誰よりも力強く、アルバード家を支える揺るがぬ大樹のような存在だったのだろう。だが今、レイズの目に映るヴィルの背中は、どこか以前より小さく見えた。
老いたからではない。
きっと、ずっと一人で背負っていたものを、ようやく少しだけ下ろすことができたからだ。
夕暮れの光が差し込む食堂の中で、その背中は不思議なほど柔らかく見えた。ヴィルは満ち足りた表情のまま立ち上がると、そのまま静かに歩き出す。
聞きたいことなら、まだいくらでもあった。メルェのこと。本来のレイズのこと。ヴィルが知っている過去のこと。何もかも今すぐ聞いてしまいたいくらいだった。
けれど、今はいい。
今日、すべてを知る必要はない。これから少しずつ知っていけばいい。
何より、自分の覚悟は決まった。
今は、それだけで十分だった。
ヴィルが食堂を去り、レイズとイザベルの二人だけが残される。
そして――。
「…………」
レイズは目の前を見る。
食卓には、大量の料理が残されていた。
いや。
大量という表現では足りない。
山だった。
完全に山だ。
先ほどまであれほど真剣に自分の人生について考えていたというのに、現実へ意識を戻した瞬間、目の前にはどう考えても一人で食べ切れる量ではない料理が並んでいる。
無言で料理の山を見つめるレイズへ、隣にいたイザベルが優しく微笑んだ。
「レイズ君……そのさ……これ」
「ん……?」
「私も手伝うからね?」
「…………」
その言葉を聞いたレイズは、ゆっくりと自分の腹へ手を当てた。
先ほど決めたばかりなのだ。レイズとして生きていく。未来を変える。本来のレイズまで救ってみせる。
そんな覚悟を決めた男が、この程度の料理に負けていいはずがない。
根拠など何一つなかったが、今の自分ならば何でもできるような気がした。
「ふっ」
レイズは顎を上げ、自慢げに自分の腹を撫でながら料理の山を見据える。
「このくらい――ぺろりんちょさ」
「…………」
数秒の沈黙。
「あははっ!」
イザベルが耐えきれずに吹き出した。
「な、なんだよ!」
「あはははっ! だって……レイズ君、さっきまであんなに格好良かったのに……!」
「俺は今も格好いいだろ!」
「う、うん……! そうだね……ぺろりんちょだもんね……?」
「そこ拾うなよ!」
イザベルの笑い声が食堂へ響く。せっかく格好良く決めたはずの空気など、もうどこにも残っていなかった。
レイズはしばらく真顔を貫こうとしたが、あまりにも楽しそうに笑うイザベルを見ているうちに、自分まで馬鹿らしくなってくる。
「……ったく」
そう言いながら、レイズも笑った。
つい先ほどまで食堂を満たしていた重い空気が、少しずつ消えていく。
夕暮れの光。食べ切れるのか分からないほど大量の料理。そして二人の小さな笑い声。
ゲームでは描かれることのなかった、何でもない時間。
けれど今のレイズにとっては、そんな何でもない時間こそが――これから自分が守っていきたいと思える、大切なものだった。




