そうして賑やかな夜へ
ヴィルは穏やかに頷き、そのまま振り返ることなく静かな声で命じた。
「それでは…リアナ」
「はい!」
「当主は空腹のご様子です。すぐに食事の支度を。量は……そうですね」
ヴィルはレイズの腹へ視線を落とす。
先ほど誇らしげに、自分の腹を「パチン」と叩いた姿を思い出していた。
あれはきっと。
――とても腹が減った。
そういう合図だったのだろう。
ヴィルは一人納得したように頷く。
「たっぷりと用意してください」
「承知いたしました!」
「今日は特に量を増やしなさい。当主は随分と頭を使われたようですから」
「かしこまりました!」
「ま、待って……」
レイズが青ざめた顔で口を開く。
「ち、違……」
しかし。
「遠慮する必要はありません」
ヴィルは最後まで聞かなかった。
「当主たる者、体力もまた必要です」
「いや、そうじゃ……」
「今日はしっかり召し上がってください」
完全に話が終わっていた。
レイズは言葉を失う。
その隣ではイザベルも慌てて口を開いた。
「お、おじいさま!」
「まだ何か…?」
「さっきのお話なんですけど……」
「安心しなさい」
「……え?」
ヴィルは穏やかに微笑む。
「もう何も言わなくても分かっています」
「いや、だから違っ――」
「心配はいりません」
ヴィルは優しく頷いた。
「じっくりお話しする時間も作りましょう」
「そうじゃなくて!」
「すべて承知しております」
「だから承知してないのよ!!」
イザベルが思わず声を上げる。
しかしヴィルは満足そうな表情を崩さない。
「では、それぞれ動きなさい。」
その一言だった。
すぐさま。
セバスが一歩前へ出る。
背筋を伸ばし、屋敷中へ響くような鋭い声を張り上げた。
「――皆、速やかに動きなさい!!」
「「「はっ!!」」」
号令と同時に使用人たちが一斉に動き出す。
厨房では料理人が駆け出し。
配膳係が食堂へ向かい。
使用人たちは慌ただしく持ち場へ散っていく。
屋敷全体が一瞬で活気に包まれた。
ヴィルはそんな様子を満足そうに眺め、小さく頷く。
(素晴らしい)
(想像以上の成果だ。)
(レイズも相談できた。)
(イザベルも覚悟を決めた。)
(実に良い一日でした。)
心の底から満ち足りた表情で踵を返す。
「ま、待ってぇぇ!!?」
イザベルは慌てて手を伸ばした。
「おじいさま!」
しかし。
ヴィルはすでに歩き始めている。
その背中は、どこか達成感に満ち溢れていた。
一方。
レイズはというと。
「…………」
呆然と立ち尽くしていた。
やがて。
「え……」
ゆっくりと顔が引きつる。
「たっぷり……?」
一拍。
沈黙。
「…………」
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
絶望の叫びが屋敷中へ響き渡った。
「そんなに食べられないぃぃぃ!!」
リアナは慌てる。
「レ、レイズ様!? 栄養は大切ですよ!?」
「違うんだって!」
「料理長も張り切ってしまいます!」
「それが怖いんだよぉぉ!!」
レイズが頭を抱えていると。
リアノが静かに一歩前へ出た。
深く一礼し。
落ち着いた口調で告げる。
「ですが…レイズ様。」
「……ん?」
「まずは…お食事の前に、ご入浴へご案内いたします。」
「…………」
その瞬間だった。
レイズの顔色が、一気に青ざめる。
昨日。
風呂場。
そして――。
あまりにも衝撃的だった"あの出来事"。
脳裏へ鮮明に蘇る。
「…………」
一歩後ろへ下がる。
「レイズ様?」
さらに一歩。
「ど、どうされました?」
レイズは全力で首を振った。
「は……」
小さく息を吸う。
そして。
「はぁぁぁぁぁ!?案内だぁぁ!?」
屋敷が震えるほどの大声だった。
「や、やだぁぁぁぁ!!」
踵を返す。
「一人で行くぅぅぅ!!」
走る。
「誰も来るなぁぁぁ!!」
さらに走る。
「絶対一人で入るんだからぁぁぁ!!」
そのまま廊下を全力疾走。
風呂場へ一直線だった。
「お待ちくださいませぇぇ!!」
リアノも慌てて追いかける。
「当主様ぁぁぁ!!」
二人は瞬く間に廊下の奥へ消えていった。
静寂。
その場へ残されたイザベルだけが。
ぽかんと口を開けていた。
「…………」
長い沈黙。
「え……何今の……」
小さく呟く。
「何があったのよ……」
当然。
イザベルは知らない。
昨日、風呂場で繰り広げられた、あまりにも珍妙な出来事を。
少し離れた場所。
一人の女性が、その光景を優しく見守っていた。
リリアナだった。
自然と笑みが零れる。
「ふふっ……」
誰にも聞こえないほど小さく笑う。
そして、ゆっくりと呟いた。
「ヴィル様……」
「別人かもしれない、と仰っていましたが……」
首を静かに横へ振る。
「違います。」
その瞳は迷いなく、レイズが消えた廊下だけを見つめていた。
「あれは間違いなく、レイズですね。」
理由など説明できない。
理屈でもない。
証拠もない。
けれど。
分かる。
血は繋がっていない。
それでも幼い頃から母親代わりとして育ててきた。
泣き顔も。笑顔も。我儘も。
癖も。照れ隠しも。
強がるときの表情も。
誰より近くで見続けてきた。
だからこそ。
どれほど心が変わろうと。
どれほど考え方が変わろうと。
どれほど魂が変わったと言われようと。
あの慌て方。
あの走り方。
あの不器用な優しさ。
すべてが、レイズだった。
「あの子は……ちゃんとレイズです。」
誰にも届かない、小さな声。
けれどその言葉だけは、母親のような温かさに満ちていた。
リリアナは静かに微笑み、レイズが走り去った廊下をいつまでも優しい眼差しで見つめ続けていた。




