深刻
コンコンコン。
静かだった部屋に、不意に扉を叩く音が響いた。
『レイズ様……入ってもよろしいでしょうか?』
聞こえてきたのはリリアナの声だった。
タイミングがいいのか、それとも悪いのか。少なくとも今のレイズにとっては、これ以上ないほどありがたい救いの声に聞こえた。
目の前では、いまだシスティーヌが涙を拭っている。
そしてレイズは、その涙の理由を完全に勘違いしたまま、どうにか彼女を泣き止ませようと必死になっていた。
「リ、リリアナ……!」
思わず助けを求めるように扉を見るレイズより先に、システィーヌが指先で涙を拭いながら姿勢を整えた。
「はい。どうぞお入りください」
「失礼いたします」
静かに扉が開き、リリアナが部屋へ入ってくる。
そして最初に目に入ったのは、明らかに慌てているレイズだった。
何か悪さをして、それが見つかってしまった子供のように落ち着きがなく、ちらちらとシスティーヌの様子を窺っている。
一方、そのシスティーヌの目元には、明らかに涙を流した跡が残っていた。
普通ならば、この光景だけを見ればレイズが王女を泣かせたと考えてもおかしくない。
けれど、リリアナはそうは思わなかった。
長い間、人の感情に寄り添いながらこの屋敷を支えてきた彼女には、システィーヌの涙が単純に心を傷つけられた者の涙ではないことが分かった。
何かを知った。
何かを理解した。
そしてそのうえで、自分がこれまで抱いていたものを振り返り、心の底から申し訳ないと思っている。
システィーヌがどのような話を聞いたのかまでは分からない。
それでも、その涙の奥にある感情だけは、リリアナには何となく理解できた。
だからこそ何も尋ねることなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「お食事の準備が整いましたので、お声を掛けに参りました。よろしければ、システィーヌ王女殿下もご一緒にいかがですか?」
「…………」
システィーヌはすぐには答えなかった。
先ほどまでなら、王女として当然のように席へ向かっていたかもしれない。
けれど今は違う。
アルバードに対して、自分はあまりにも浅はかな考えを抱いていた。
レイズについても、何も知らないまま勝手に判断していた。
そんな自分が今さら何事もなかったかのように彼らと同じ食卓を囲み、優雅に食事を楽しんでもいいのだろうか。
「わ……私は……」
その迷いが声にも表れていた。
だが――。
「そうだよ!!」
突然、レイズの声が響いた。
「え?」
「ご飯!! そうだよ、ご飯だよ!」
先ほどまで必死にシスティーヌを慰めていた少年の顔が、見る見るうちに明るくなっていく。
「俺、ジュラでコカトリス食べたきりで、まともにご飯食べてないんだよ! お風呂だってやっと入れたばっかりだし……」
言葉にした途端、空腹を思い出したらしい。
猛烈に腹が減っていた。
「…………まぁ」
リリアナが瞬きをする。
「コカトリスを……食べたので?」
「え? うん」
レイズは何を不思議がっているのか分からないという顔で頷いた。
「だって普通に美味しそうだったし……」
「…………そう」
リリアナの表情が少しだけ変わった。
つい先ほどまで王女を前にして完璧な侍女として振る舞っていた女性の顔から、ふっと柔らかなものが覗く。
「えぇ、レイズ。でも、あまり変なものばかり食べて、お腹を壊したら大変ですからね?」
「へ、変なものって!!」
レイズが即座に反応した。
「違うって! ちゃんと食べられるものなんだよ、コカトリス! 普通に美味しかったから!」
「はいはい」
「絶対信じてないよね!?」
そのやり取りを見ていたシスティーヌの口元から、思わず小さな笑いが零れた。
つい先ほどまで流れていた涙の名残を残しながら、それでも自然と笑ってしまった。
そして同時に、一つのことを理解する。
(…………そういうことでしたのね)
初めてリリアナとまともに接した時から、ただの使用人ではないと思っていた。
王女である自分を前にしても一切動じず、礼儀も所作も完璧で、何を求められても自然に応じる。
けれど、それだけではなかった。
この女性はきっと、ずっとレイズのそばにいたのだ。
当主だから仕えている。
ただそれだけではない。
レイズが何を食べたのかを気にして、身体を壊さないか心配し、時には叱りながら、きっとたくさんの愛情を注いできた。
まるで母親のように。
先ほどまでシスティーヌは、レイズがどれほど過酷な道を歩いてきたのかを知り、その重さに胸を締め付けられていた。
けれど今、目の前にいるリリアナを見て、もう一つ分かった。
レイズは確かに過酷な道を歩いてきた。
けれど、その道のすべてをたった一人で歩いてきたわけではない。
この人たちがいた。
きっと、ずっと。
「…………レイズ」
「ん?」
システィーヌは少しだけ迷ってから、静かに口を開いた。
「その……婚約に関しては、一度保留という形でいいですわ」
「…………え?」
一瞬、レイズが固まった。
そして次の瞬間。
「ほ、保留!?」
「えぇ」
「うん! そうだよ!! そうそう! やっぱりこれからお互いのことをゆっくり知ることが大事だよね!」
あまりにも分かりやすく喜んでいる。
その姿に、リリアナは小さく笑った。
けれど、システィーヌが婚約を保留にした意味を、リリアナはレイズとは少し違う形で受け取っていた。
王女であるシスティーヌは、きっと何かを知ったのだ。
レイズという少年が、ただ可愛いから。
優しいから。
気に入ったから。
それだけで軽々しく結びついていい存在ではないということを。
アルバードの当主であり、多くの者を背負い、王国とも魔族とも関係を築こうとしている。
そんなレイズと王国の王女が婚約するということが、単なる少年と少女の恋愛だけでは終わらないことを、彼女なりに理解したのだろう。
それでも、レイズを見るシスティーヌの眼差しは変わっていない。
むしろ先ほどまでよりも、ずっと穏やかで温かい。
レイズへの想いを捨てたのではない。
大切にしたいからこそ、急ぐことをやめた。
そう見えた。
「えぇ。ゆっくりお互いを知ることは、とても大切なことですから」
リリアナがそう言うと、システィーヌも静かに頷いた。
「その通りですわね……」
「それでは」
リリアナは優しくシスティーヌの手を取った。
「食堂までご案内いたします。リアナも張り切って準備してくれていましたから、楽しみにしてください」
「…………はい」
その手に引かれるまま、システィーヌはゆっくりと立ち上がった。
その姿を見ながら、レイズは感心したように息を吐く。
(さすがリリアナ……)
自分があれほど慌ててもどうにもできなかったシスティーヌを、ほんの少し話しただけで落ち着かせてしまった。
やっぱりすごい。
そう思っていた。
――もちろん、レイズは一連のやり取りを正しく理解していない。
システィーヌが落ち着いたのは、単にリリアナに宥められたからではない。
レイズを知り。
アルバードを知り。
そして今、そのレイズを支えてきた人の温かさに触れたからこそ、ようやく自分の中で気持ちを整理することができたのだ。
そんなことなど知らないレイズも二人のあとを追い、三人はそのまま食堂へ向かった。
食堂にはすでにイザベルが座っていた。
リリアナはシスティーヌを丁寧に席まで案内すると、椅子を引く。
「王女殿下はこちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
システィーヌが腰を下ろし、レイズもいつもの自分の席へ座ろうとしたところで、ふとシスティーヌとイザベルの視線が重なった。
「イザベルさん……」
「…………」
「お久しぶりですわ……」
イザベルはほんの少しだけ眼を伏せ、それから静かに頭を下げた。
「はい。お久しぶりです、王女殿下」
「…………え?」
そのやり取りを見たレイズが、二人を交互に見る。
「旧知の仲なの!?」
「え?」
「そういう関係じゃないわよ。馬鹿……」
イザベルが呆れたように返す。
けれどシスティーヌは、そのままイザベルを見つめていた。
以前から知っている女性。
学院に在籍しながら、突然そこを去った女性。
当時は詳しい事情など知らなかった。
けれど今なら――少しだけ分かる気がした。
「イザベルさん……」
「はい?」
「私……ここに来て、よかったのでしょうか……お邪魔でなくて……?」
イザベルは一瞬だけシスティーヌを見つめたあと、すぐに明るく笑った。
「誰が来たっていいんですよ、王女殿下」
「…………」
「まぁ、レイズくん馬鹿だから、王女殿下に失礼なことしてないか、それだけは心配でしたけど」
「はぁぁ!?」
即座にレイズが反応した。
「そんなことするわけないだろ!」
「どうだかねぇ……」
「なんだよそれ!」
二人のやり取りを見ながら、システィーヌはまた一つ理解した。
(…………そうですのね)
イザベルが、なぜあれほど早く学院を去ったのか。
なぜ今、当然のようにアルバードにいるのか。
そして――どれほどこの場所を、レイズを、大切に想っているのか。
今なら分かる。
「それは……学院どころではありませんでしたわよね……」
「…………?」
イザベルが少しだけ眼を丸くしたあと、やがて意味を理解したように柔らかく笑った。
「うんうん。レイズくん、ほっとけないですから」
「は?」
レイズだけが置いていかれる。
「なんの話!?」
「知らなくていいの。ほら、ご飯食べましょ?」
「いや、気になるんだよ……そういうの……」
不満そうなレイズに、今度はシスティーヌが口を挟んだ。
「あまり女性の秘密を探るのはよろしくなくてよ、レイズ」
「あ、はい。ごめんなさい」
「なんでそんな素直なのよ!?」
イザベルが思わず声を上げた。
「仕方ないよね! 王女だぞ!!」
「…………」
その瞬間、システィーヌの表情がわずかに曇った。
「王女……だからですか?」
「え……?」
「先ほどはシスティーと呼んでくださって、少しは親しい仲になれたと思っていましたのに……なんだか悲しいですわ」
「え!?」
レイズの顔がまたしても慌て始める。
「システィー! 違う!! イザベルが! いつもこうやって意地悪してくるんだよ!」
「ちょっと!意地悪って……そんなことしてないでしょ!?」
反論しかけたイザベルだったが、途中でぴたりと止まった。
「…………って、システィー?」
「…………」
「え? 殿下、それって……」
システィーヌは少しだけ得意そうに胸を張った。
「えぇ。この呼び方を認めているのは、これまでお兄様だけでしたわ」
「…………」
イザベルの顔が引きつる。
「ちょっと!!」
今度はレイズへ勢いよく振り返った。
「どこまで話を進めちゃったの!? ねぇ!!」
「なんにも進んでないよ! 何言ってんだ!」
「えぇ」
システィーヌが静かに微笑んだ。
「本当に、ずいぶん進みましたわね……」
「え!?」
「ちょっとぉぉぉ!!」
食堂にイザベルの声が響いた。
何がそんなに問題なのか分からず混乱するレイズと、どこか楽しそうなシスティーヌ。
そんな二人を見ながら、リリアナはただ穏やかに笑っていた。
やがて料理が並び始め、騒がしかった三人もようやく食事へと手を伸ばす。
システィーヌは、向かいに座るレイズを静かに見ていた。
王女である自分が目の前にいるというのに、レイズは一生懸命料理を口へ運んでいる。
先ほどまでは慣れない敬語を使い、王女に失礼がないよう必死に取り繕っていたというのに、今では空腹に負けたのか、すっかり普段の姿に戻ってしまっていた。
けれどシスティーヌには、それが嫌ではなかった。
むしろ――。
(…………少しだけ、心を許してくださっているのでしょうか)
そう思うと、どこか嬉しかった。
「ちょっと、レイズくん!」
「ん!?」
「もっとゆっくり食べなさいよ! 王女殿下の前でしょ!?」
イザベルに注意され、レイズは口の中のものを慌てて飲み込んだ。
「し、仕方ないだろ! ジュラから戻ってきて、まともに食べてなかったんだよ……!」
「だからって急いで食べたら身体に悪いでしょ!」
「分かってるよ!」
その横で、システィーヌも料理を口へ運ぶ。
王女として身につけてきた所作は自然なもので、食事を口へ運ぶ一つの動きさえ美しい。
そして一口味わったところで、その眼が少しだけ大きくなった。
「…………美味しい」
もう一口。
「本当に……美味しいですわ」
「でしょ!」
なぜかレイズが誇らしげに胸を張った。
「なんでレイズくんが偉そうなのよ」
「いいだろ別に………」
イザベルは呆れたように笑いながら、料理を頬張るレイズを見る。
そして、ふと思いついたように口を開いた。
「そんなに急いで食べて……食べすぎて太っても知らないわよ?」
「…………」
レイズの動きが止まった。
手にしていた食器までぴたりと静止する。
「…………レイズ?」
システィーヌが不思議そうに首を傾げる。
レイズはゆっくりとイザベルを見た。
その表情は、デュランと戦った時でも、ジュラへ一人で向かった時でも見せなかったほど真剣なものだった。
「…………やめろ」
「え?」
「やめろよ……」
あまりにも深刻な声だった。
システィーヌは何が起きたのか分からず瞬きをし、イザベルは堪えきれず小さく笑う。
つい先ほどまで、王国座位二位と命を懸けて戦い、一人でジュラへ入り、コカトリスまで倒した少年の過酷な人生について涙を流していたシスティーヌには、まだ知る由もない。
レイズにとって――。
太るという言葉は、今なお恐ろしいほど深く突き刺さるのである。




