線は繋がる。
レイズは、どうにかして話題を変えようとしていた。
このままでは何を話しても、なぜか最後には婚約の話へ戻ってしまう。相手を知ろうとすればするほど好意を持たれ、真面目に答えれば答えるほどシスティーヌの表情が嬉しそうになっていくのだから、もはやどうすればいいのか分からない。
だからこそ、とりあえず婚約の話から離れよう。
今はそれが最優先だった。
「それでさ、システィー」
「なんですの?」
「アルバードで学ぶって言ってたけど、具体的には何を学びに来たんだ?」
ようやく婚約とは関係のない話題を見つけた。
そう思って少しだけ安心したレイズとは対照的に、システィーヌは特に迷う様子もなく真っ直ぐ答える。
「そうですわね。お父様が私に仰ったのは、レイズという少年を見てこい――そういう意味なのだと、私は理解していますわ」
「…………いや、それアルバードじゃなくて、俺を見に来ただけってことじゃないのか?」
「あら」
システィーヌは楽しそうに微笑んだ。
「レイズ。貴方を知ることが、アルバードを知ることになるのではなくて?」
「いやいや。アルバードは決して俺が作り出したわけじゃないからね!? 俺が生まれるずっと前から、アルバードはアルバードだよね!?」
そこだけは訂正しておきたい。
自分が生まれるより遥か以前から、この土地には人が暮らし、守り、受け継いできた歴史がある。今のアルバードに自分が関わっている部分が大きいことくらいはレイズにも分かっているが、だからといって、アルバードそのものが自分から始まったなどとは思っていなかった。
「それに俺を見るだけなら、俺は学院にだって行くわけですし……その時でも十分では……」
そこまで言ったところで、今度は珍しくシスティーヌが考え込んだ。
「うーん……」
「…………?」
「なんで私、ここにいるのでしょう?」
「それ俺が聞いてるんだけど!?」
言われてみれば、システィーヌ自身も父であるカイネルの意図を完全に理解しているわけではないらしい。
レイズも腕を組み、考える。
「陛下の意図が分からないな……。なんでわざわざ学院より先にアルバードへ……」
「あら」
そこでシスティーヌの表情に、少しだけ悪戯っぽい色が浮かんだ。
「レイズがジュラに勝手に行ったからでは?」
「…………」
レイズの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「…………あ」
当然といえば当然だった。
グレサスとデュランはジュラへ入っている。そして二人とも王国の騎士なのだから、そこで見聞きしたことをカイネルへ報告するのは当たり前だ。
つまり――。
「あ……あ、うん。そう……えっと……陛下、怒ってました?」
恐る恐る尋ねるレイズを見て、システィーヌは少し首を傾げた。
「お父様? むしろ笑っていたように、私の眼には映りましたわ」
「…………よかったぁ」
思わず安堵の息が漏れる。
どうやら勝手にジュラへ向かったことで、カイネルを怒らせたわけではないらしい。
――もっとも、レイズは知らない。
あの時、カイネルは確かに怒っていた。
ただし、その怒りの大半を持っていったのは、レイズが勝手にジュラへ向かったことではない。
王国に一本しか存在しない神聖なセフィロトの枝を、グレサスが勝手に切り落とし、よりにもよって網の柄として使用したことだった。
そのあまりにも規格外な事実の前では、レイズが無断でジュラへ向かったという話すら、もはや霞んでしまうほどだったのである。
そんな事情など知る由もないレイズは、胸を撫で下ろしながら話を戻した。
「だけど、どのみちですよ。俺は学院に行くんだし、その時にでも陛下とも……システィーとも、会おうと思えば会う機会は作れますよね?」
「そうそう。そうですわ」
システィーヌも嬉しそうに頷く。
「レイズ、貴方が学院へ来るのでしたら、私とも、お兄様とも会えますわね」
「…………え?」
レイズはそこで初めて気づいたように瞬きをした。
「システィーも、リオネル殿下も……やっぱり学院にいるんだ……」
「あら。知っていて学院へ来るのではなくて?」
「いや、そこまでは……」
その瞬間、レイズの脳裏にイザベルの言葉が蘇った。
システィーヌとの婚約を断るのであれば、学院での生活が少しだけ過酷になるかもしれない。
その時は深く考えていなかったが――。
「…………ああ」
ようやく意味を理解した。
「つまり、そういう意味……かよ」
システィーヌを今ここで傷つければ、その影響が今後の学院生活にまで及ぶ可能性がある。
しかも行くのは王国の学院である。
そして相手は王女。
王族。
どう考えても慎重に接しなければならない相手だった。
そこまで考えたところで、レイズの頭に何とも陰湿な光景が浮かぶ。
(やば……俺、靴隠されたりする可能性があったってことか……)
心配する規模があまりにも小さかった。
「そうそう。そのことですわ」
「え?」
「レイズ。私、怒っていますわよ?」
「…………え?」
先ほどまでとは違う声音に、レイズの背筋が伸びる。
「な、何か無礼なことを……」
もはや今さらではあったが、一応確認しておかなければならない。
これ以上、何かをこぼしてはいけない。
「無礼? それはお互い様ですわ。そんなことより――」
システィーヌの表情が真剣なものへ変わった。
「ジュラへ向かったというのは、本当ですの?」
「…………ああ、そのこと」
「あそこがどれほど危険な場所なのか、分かっていますの……?」
システィーヌの声には、明らかな心配が混じっていた。
「あそこは学院の者なら誰でも知っていますわ。そもそも王国の騎士ですら容易には立ち入らない場所なのよ? 危険どころの騒ぎではありません。もはや禁忌と呼んでもいい場所ですわ。それなのに、レイズ、貴方……」
そこまで言いかけて、システィーヌは一つの可能性を思い浮かべた。
グレサスの弟。
かつてウラトスと呼ばれ、今はクリスと名乗っている男。
あの男が一緒だったのなら――。
(…………それなら、ありえるのかしら?)
不可能とまでは言えないのかもしれない。
王国の騎士を知るシスティーヌだからこそ、クリスの異常な実力についてもある程度は理解している。
なるほど。
そういうことなのだろう。
ようやく自分の中で辻褄が合い、システィーヌが小さく頷きかけた、その時だった。
「ごめんなさい……。確かに、一人で行ったのは悪かったよ」
「…………」
今、作り上げたばかりの辻褄が一瞬で吹き飛んだ。
「ちゃんと許可を取ってから行くべきだったのは分かってるんだけど……学院に行くまで、あとどれくらい時間が残ってるのか分からなかったしさ。そうしたら次にジュラへ行けるのがいつになるか分からなかったからさ……」
「…………」
「だから、その……勝手に行ったことは本当に――」
「ちょっと待ってくださいまし」
「え?」
システィーヌの声が低くなる。
「今……なんと仰いましたの?」
「いや、だから……勝手にジュラへ行ったのは本当に悪かったって――」
「そうではありませんわ!?」
システィーヌが身を乗り出した。
「今、一人でと仰いましたわよね!?」
「え……はい」
「一人で!?」
「う、うん……」
「王国の騎士ですら容易に立ち入れない場所なのですのよ!?」
「え……ああ、確かに。それは分かっていたんだけど……」
システィーヌには理解できなかった。
ジュラには数え切れないほどの魔物がいる。
グレサスはともかく、デュランほどの高位騎士であっても決して油断できない場所だと聞いている。
そんな場所へ、この少年は――。
「貴方、一人で……?」
「うん」
「当主なのよ……?」
「…………うん」
システィーヌの身体が、わなわなと震え始めた。
「えっと……確かに危ない場所だとは思うんですけど……でも、知ってればなんとかなった……というか……」
「貴方!!」
「はい!?」
突然の大声に、レイズの肩が跳ねる。
「もしグレサスやデュランに見つかっていなかったら、ジュラの中で息絶えていたかもしれない! そんな可能性を考えませんでしたの!?」
「…………え?」
レイズは思わず首を傾げた。
(いや……デュランとグレサスが来たせいで、ジュラ余計に荒れたんだけど……?)
そこでようやく理解する。
どうやらシスティーヌは、自分がジュラを探索できたのはグレサスとデュランのおかげだと思っているらしい。
そしてシスティーヌの言葉も、その意味も正しく理解する。
「あそこには数多の魔物だっていますのよ! その中には、かの有名なコカトリスまで存在すると聞いていますわ! 伝承に残り、災害とすら呼ばれるような存在が当たり前のようにいる場所なのです!」
「…………うん」
「もう二度と、そんな馬鹿なことをしてはいけませんわよ、レイズ!」
システィーヌの声は本気だった。
怒っている。
けれど、その怒りの根底にあるものが何なのかは、レイズにも分かった。
「貴方の命は、もう貴方一人が軽く扱っていいほど小さなものではありませんのよ!?」
「…………」
レイズは少し驚いたあと、困ったように苦笑した。
(システィーヌ……めちゃくちゃいい娘じゃん……)
自分の立場がどうだとか、婚約がどうだとかではない。
純粋に心配してくれている。
それが分かったからこそ、レイズも素直に頭を下げた。
「ごめんなさい……」
「本当に分かっていますの?」
「うん。確かにコカトリス……そういえばあれ危ないやつだよな……」
その言葉に、システィーヌはわずかな違和感を覚えた。
(…………コカトリス………危ないやつ……?)
まるで実際に見たことがあるような言い方だった。
もしかして、遭遇したのだろうか。
もしそうなら――。
(グレサスとデュランは、一体どれほどの功績を……?)
レイズの命を救った。
それはつまり、自分が心を惹かれた相手を救ってくれたということでもある。
さすがは王国の騎士。
グレサスもデュランも、どれだけ感謝してもし足りない。
今度会った時には、自分の口から直接礼を伝えなければならない。
そんなことまで考え始めたシスティーヌは、誇らしそうに胸を張った。
「レイズ……本当に、生きていてくれてよかったですわ。それに流石はグレサスとデュランですわね」
「え…………ありがとう」
「ですが、これで理解しましたわよね? あそこは本当に危険なのです。もし次に行くことがあるのなら、必ず相談することですわ。私がお父様に頼めば、きっとグレサスやデュランも協力してくださいますわよ?」
「…………」
レイズは何とも言えない顔になった。
(いやいや……メーレはデュランもグレサスも来てほしくないって言ってるんだよ……)
むしろ、来てほしくない。
特にグレサス。
だが、そんなことを今ここで言ったところで仕方がない。
システィーヌは本気で自分を心配してくれているのだ。
ならば今言うべきなのは、彼女を安心させる言葉だろう。
「そう……そうだね」
レイズは小さく笑った。
「心配してくれて本当にありがとう。システィーは優しいんだな……」
「…………」
「でもさ、安心してよ」
レイズは何でもないことのように続けた。
「コカトリスなら、俺一人でも倒せたし……」
「…………え?」
「それに……そのあと焼いて食べたしさ!」
「…………」
システィーヌの中に芽生えたのは、安心などではなかった。
(…………何を言っていますの?)
コカトリスを一人で倒した。
そして焼いて食べた。
あまりにも子供じみている。
そんな話を事実として受け入れられるはずがない。
もし本当に、あれほどの魔物をこの少年が一人で倒したというのなら、目の前にいる可愛らしい十四歳の少年は、王国の高位騎士に匹敵するほどの実力を持っていることになる。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
きっと、自分を安心させようとしているのだ。
心配させてしまったと思ったから、こんな子供ですら騙せないような強がりを――。
そう考えながら、システィーヌはレイズの眼を見つめた。
「…………あれ?」
違和感があった。
そこに、嘘をついている者の色がない。
むしろレイズは、本当にこれで自分が安心してくれると思っているような顔をしている。
「レイズ……?」
「ん?」
「それは……私を安心させるための冗談ですわよね?」
「え……ほんとだよ……!?」
「…………」
「じゃなかったら、クリスたちが俺一人でジュラへ行くことを認めてくれるわけないし……」
「…………確かに」
そこだけは、あまりにも説得力があった。
あれほどレイズに対して異常なまでの忠誠を示しているクリスが、レイズが一人でジュラへ向かうなどという危険な行動を、何の根拠もなく許すはずがない。
そしてその瞬間、システィーヌの脳裏に、アルバードへ来る途中で耳にした話が蘇った。
レイズが一人で町を歩いていた。
それを見つけた住民たちが集まり、捕まえて――。
「レイズ……」
「な、なに?」
「貴方……『ワッショイ、ワッショイ』というものを、されまして……?」
「…………え?」
レイズの顔が固まった。
「なんでそれ知ってるの……?」
「…………」
その反応だけで十分だった。
システィーヌは、ようやく理解し始めた。
レイズは本当に一人で行動していた。
一人でジュラへ向かい、その前後に町を歩き、住民たちに見つかって捕まり、当主であるにもかかわらず気軽に触れられ、胴上げまでされていた。
そして――コカトリスも、おそらく本当に。
「…………一人でジュラへ入っても、本当に平気でしたの?」
「まぁ……平気っていうか、色々あったけど……」
クリスが一人での行動を認めた。
それは当主の軽率な行動を黙認したのではなく、そもそもレイズ自身に、一人で行動できるだけの実力があるからだとしたら――。
「貴方……もしかして、すごく強くて……?」
「えっと……」
レイズは少し困ったように頬を掻いた。
「すごく強いかは別として……デュランとも、過去にやり合ったことある……よ?」
「…………」
「その辺の話って、システィーたちには届いてないの? てっきり王国ではそれなりに有名な話として語られてると思ってたんだけど……」
そこでレイズは自分で首を傾げた。
「まぁ……そうだよな。別に俺の話なんて、そんなにされることもないか」
「…………」
違う。
そんな簡単な話ではない。
王国で共有されていた情報と、システィーヌたち王族や学院の生徒たちが知っていた情報は、必ずしも戦場で起きたすべてではなかった。
まして、アルバードとの戦いに直接参加していない者たちへ、戦場の細部まで伝えられることはない。
伝えられるのは戦果。
誰が戦い、どのような成果を挙げたのか。
そして王国が敗北したのではないという、国として必要な情報だった。
だからこそ、システィーヌは知らなかった。
アルバードの当主である、この十四歳の少年が――王国座位二位であるデュランと直接刃を交えていたことを。
その意味が分からないほど、システィーヌは愚かではない。
「…………デュランは」
声が震える。
「デュランは……座位二位ですのよ……?」
「うん。知ってるよ?」
「なんで……」
理解できない。
いや。
理解したくないだけなのかもしれない。
「デュランは……手加減をしたの?」
そんなはずはない。
問いかけながら、自分自身が一番それを分かっていた。
レイズは目を見開いた。
「え!? いやいや!! デュラン、絶対殺す気だったよ!?」
「…………」
「本当にきつかったんだよ、あいつも!! すっごい強くてさ!! できればもう二度と戦いたくないよ! ほんとに……」
絶対に殺す気だった。
レイズは軽く口にした。
けれど、それが本来どれほど恐ろしい言葉なのか。
座位二位の騎士が本気で命を奪おうとした。
その相手と戦い、生き延びた。
しかも目の前にいるのは、まだ十四歳の少年だ。
システィーヌの中で、これまで知っていたアルバードとの戦いの情報が、少しずつ組み替わっていく。
王国では、アルバードとの戦いについて多くのことが語られていた。
グレサス、デュランをはじめとする座位騎士たちが戦い、その前にアルバードの巨大な戦力が立ちはだかっていること。
ヴィル。
セバス。
そしてウラトス。
特にグレサスとの激しい戦いの末、ヴィルとセバスは命を落とし魔族側の恐ろしい化物も命を落とした、しかし王国最強であるグレサス自身も大怪我を負い、治療を余儀なくされたことで戦いの勢いは一度止まったのだと。
それが、システィーヌたちの知る戦争だった。
学院でも、その話は何度も語られた。
戦時中は父であるカイネル自身があまりにも忙しく、娘である自分でさえ、直接まともに話す時間を取れないほどだ。
そして国王である以上、カイネルが戦場で起きたすべてを国民へそのまま伝えることなどできなかったのだろう。
国の士気。
騎士たちへの信頼。
戦争を続けるうえで守らなければならないものがある。
だから、王国にとって必要な形で情報が伝えられていた。
だが――。
(…………この方も、そこにいた)
今、目の前で困ったように笑っている少年も、その戦場の中にいた。
ただ守られていたわけではない。
王国座位二位のデュランと、本気で戦っていた。
そして生き延びた。
それだけではない。
一人でジュラへ入った。
コカトリスを倒した。
メモリアルストーンを生み出した。
王国と向き合った。
魔族とも向き合った。
それでも――。
この眼をしている。
(…………どうして)
システィーヌには、あまりにも実感が湧かなかった。
意味が分からなかった。
十四歳。
まだ自分と大きく歳の変わらない少年が、一体どれだけの修羅場を潜り抜けてきたのだろう。
どれだけ強くならなければならなかったのだろう。
そのために、どれほど過酷な鍛錬を積み重ねたのだろう。
守るためにどれだけ苦悩したことか。
そして――どれだけのものを失ってきたのだろう。
そんな人生を、十四歳の少年が歩むにはあまりにも重すぎるのではないか。
「…………レイズ」
「ん?」
「なんで……学院に、今さら行く必要がありますの……?」
「え!? ちゃんとあるよ!?」
レイズは慌てて否定した。
「あれは陛下が、王国とアルバードの関係をみんなに示すために配慮してくれた上での提案だって、俺だってちゃんと分かってるから。だからちゃんと通うつもりだし」
「…………」
「あ……でも勉強、ついていけるのかなぁ……」
レイズは困ったように笑いながら、頬をぽりぽりと掻いた。
「それは本当に心配だけどさ」
「…………」
システィーヌは、何も言えなかった。
自己評価が低い。
そんな単純な話ではない。
この少年は、自分が今どれほどの場所に立っているのかを、本当の意味では理解していないのではないか。
王国座位二位と命を懸けて戦った。
一人でジュラへ入り、生きて帰ってきた。
メモリアルストーンという発明で王国そのものを動かした。
父であるカイネルが、何度も何度もその名を口にした。
リールがあれほど真剣にレイズを評価した。
クリスが異常とも思えるほどの忠誠を向けている。
ディアナが王国ではなくアルバードへ残ることを選んだ。
町の人々が、当主を見つけただけで駆け寄り、捕まえ、笑いながら胴上げする。
これまで理解できなかったものが、一つずつ繋がっていく。
なぜ。
どうして。
何が、この少年をそこまで特別にしているのか。
システィーヌはようやく分かり始めていた。
優しいから。
可愛いから。
親しみやすいから。
もちろん、それも間違いではない。
けれど――それだけではなかった。
この少年は、とてつもなく強い。
とてつもなく優秀だ。
そして誰よりも過酷な道を歩いてきた。
それなのに。
それでも。
あの眼をしている。
父が何度も語った、真っ直ぐな眼。
王国に対して恨みを抱いていても何一つおかしくないはずなのに、父であるカイネルを尊敬していると言った。
王国を大切にしたいと言った。
魔族も大切にしたいと言った。
そして今、自分に対してさえ、何事もなかったかのように優しく接している。
システィーヌはゆっくりと顔を上げた。
「レイズ……」
「ん?」
「本当に……ごめんなさい……」
「…………え?」
ぽろり。
一粒の涙が頬を伝った。
そして、それをきっかけにしたように、次々と涙が溢れ始める。
「え…………」
レイズの顔が一瞬で青ざめた。
「なんで泣いて………」
何を間違えた。
どこだ。
何が悪かった。
先ほどまでの会話を頭の中で必死に巻き戻し、レイズは慌ててシスティーヌへ身を乗り出した。
「システィー!? ちょっと!! 分かったから!!」
「違……」
「二度とジュラに一人で行かないから! ね!? ねぇ!! 本当にもうしないから!」
「違……違いますの……」
システィーヌは首を横へ振った。
けれど、一度溢れ出した涙はもう止まらなかった。
違う。
ジュラへ一人で行ったから泣いているのではない。
自分は、この少年のことを何も知らなかった。
知らないまま、勝手に判断した。
アルバードは王国を軽んじている。
格式を知らない。
礼儀を知らない。
領民との距離すら理解していない。
そして、そんな場所を作った領主であるレイズも、きっと王国の歴史や想いなど理解していないのだと。
自分が教えなければならないとさえ思っていた。
なんて浅はかだったのか。
この少年は、自分が想像していたより遥かに多くのものを背負っている。
戦って。
傷ついて。
失って。
それでも立ち上がって。
そのうえで王国を憎むのではなく、父を信じ、王国と共に歩こうとしている。
そして――自分にも笑ってくれているのだ。
(…………そうだったんですのね)
最初に惹かれたのは、あの眼だった。
見た瞬間、胸が高鳴った。
だから一目惚れなのだと思った。
けれど、違う。
いや。
一目惚れだったこと自体は、きっと間違いではない。
ただ、自分がなぜあの眼にここまで惹かれたのか、その理由を自分自身が知らなかったのだ。
今なら少しだけ分かる。
あの眼の奥には、この少年が歩いてきたものがある。
苦しんだことも。
失ったことも。
それでも誰かを大切にしようとしたことも。
きっと全部。
だから自分は、あの眼から目を離せなかった。
「シ、システィー……?」
「…………」
「ほんとに、もう一人で行かないから……」
未だに盛大な勘違いをしているレイズを見て、システィーヌは涙を流したまま、ほんの少しだけ笑った。
やはり、この少年は何も分かっていない。
自分がどれほど強いのか。
どれほど多くのものを動かしているのか。
どれほど多くの者から大切にされているのか。
そして――。
自分が、どうしてこの少年に惹かれたのかさえ。
システィーヌの中で、これまで感じていたすべての違和感が、ようやく一本の線として繋がっていた。




