システィー
システィーヌの待つ客室の扉が、静かに開かれた。
豪華な一室の中では、システィーヌが先ほどリリアナの用意した紅茶を前に、落ち着いた様子で腰掛けている。そこへ入ってきたレイズは、彼女の前まで進むと、まずは先ほどの出迎えについて謝罪しなければならないと考え、丁寧に頭を下げた。
「システィーヌ王女殿下……お待たせしました。それと、先ほどはろくにお出迎えもできず……本当に申し訳ございませんでした」
「…………」
システィーヌは、そんなレイズをじっと見つめながら不思議に思っていた。
先ほどまでとは、どこか違う。
初めて顔を合わせた時、レイズの瞳は驚くほど明るかった。クリスとディアナの婚約を心から喜び、その幸せを自分のことのように祝福していた、真っ直ぐで眩しいほどの瞳。今もその光が失われたわけではないのだが、その奥には先ほどまでなかった何かが宿っているように見える。何かを考え、何かを確かめようとしているような、妙に真剣な眼差しだった。
それだけではない。先ほどまであれほど婚約という言葉に狼狽していたというのに、今のレイズにはほとんど緊張している様子がない。この僅かな時間に、いったいどのような心境の変化があったのか、システィーヌには分からなかった。
(……どうされたのでしょう?)
「いえ。そのことでしたら、どうかお気になさらないでください……ですわ」
「はい。ありがとうございます。では、私も椅子に腰を掛けさせていただきますね」
レイズはそう告げると、システィーヌの向かいへ腰を下ろした。自然と二人の視線が重なり、システィーヌはそのままレイズの瞳を見つめ続ける。
先ほどのレイズであれば、これほど真正面から見つめれば、慌てて視線を逸らすなり、困ったような顔をするなり、何かしら可愛らしい反応を見せていたような気がする。けれど今は違った。レイズもまたシスティーヌの瞳を真っ直ぐに見返し、少し考えてから静かに口を開いた。
「陛下のなさることには、必ず何か意味があると思っています。ですから一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「ええ」
「もしかして……婚約についても、陛下から何か言われていた、とかではないですか?」
その問いにシスティーヌは一瞬目を瞬かせたあと、小さく笑った。
「お父様は、ああ見えてそのようなことを目的に、私を誰かと引き合わせるような方ではありませんわ。確かにアルバードへ来たのはお父様の勅命ですけれど、婚約については何も言われておりません。それに……私はここへ来てよかったと、今は本心から思っていますの」
「そうですか……それは光栄です」
レイズは小さく頷いた。少なくとも、婚約そのものがカイネルの命令ではないことは分かった。
「システィーヌ王女殿下……その――」
「システィー」
「え?」
「システィーで構いませんわ。レイズ様」
「それは失礼しました。では……システィー様」
「様もいりませんわ」
「え……っと……」
困ったように瞬きをするレイズを見て、システィーヌは少し楽しそうに笑う。
「ちなみに、私のことをシスティーと呼ぶのは、お兄様だけですわね」
「…………」
その瞬間、レイズの頭の中で新しい情報が一つ繋がった。
(お兄様……って)
自分が知っている未来では、システィーヌという王女の存在そのものを知らなかった。当然、リオネルと彼女がどのような関係にあるのかも分からない。だが、だからといって今の言葉だけで、その兄がリオネルなのだと決めつけることもできなかった。
レイズはその疑問を一度胸の内へしまい、話を続ける。
「ですが、さすがにそのような大切な呼び名を、私ごときが簡単にお呼びするわけには……。それに、私のこともレイズでいいですよ」
するとシスティーヌは、ほんの少しだけ残念そうな表情を浮かべた。
「先ほど皆様とお話しされていた時のように、もっと自然になさってください。なんだか……私だけ距離を置かれているようで、少し悲しいですわ」
「あ、え……そうですよね」
そう言われてしまうと、レイズは弱かった。少し迷ったあと、観念したように口を開く。
「じゃあ……システィー」
「…………はい」
兄以外の誰かにそう呼ばれたのは初めてだった。それなのに不快ではないどころか、胸の奥にじんわりと何かが満ちていくような、不思議な心地よさがある。システィーヌはその感情を隠すように、静かに紅茶を口へ運んだ。
そんな彼女を眺めながら、レイズはふと、どうでもいいことを考える。
(システィーって……なんか紅茶みたいな名前だな……)
我ながら、よく分からない雑念だった。
「レイズ…………様」
「…………ん?」
レイズは首を傾げたあと、すぐに何かがおかしいことに気づいた。
「えっと、僕がシスティーって呼んでるのに、僕だけ『様』っておかしくないですか?」
「その………」
「不公平ですよ!!」
思わずいつもの調子で突っ込んでしまったレイズを見て、システィーヌは目を丸くしたあと、堪えきれないようにくすくすと笑い始めた。
「ふふっ……やっぱり、この方がいいですわ」
「え?」
「いえ、こちらの話です。では……レイズ」
「はい」
「改めて申し上げますけれど、婚約については完全に私の独断ですわ。そこに王国の意思などありません。ですから――レイズ自身のお返事をいただきたいですわ」
「…………」
結局そこへ戻ってくるのかと、レイズは困ったような表情を浮かべた。けれど今度は逃げることなく、少し考えてから自分の気持ちをそのまま言葉にする。
「婚約……ですか。正直に言うと、僕にはそれがあまりにも現実味のない言葉なんですよね」
「現実味がない?」
「はい。システィーも少し見れば分かると思いますけど……アルバードは、これまで恋とか、そういうものとはあまりにも掛け離れた生活をしてきたというか……」
これまでのアルバードでは、誰かを好きになって、その相手と将来を考えるような穏やかな時間よりも、戦い、守り、失い、それでもまた立ち上がることの方があまりにも多かった。少なくともレイズ自身、誰かと恋をして、その先に婚約や結婚があるという未来を真剣に考えるような余裕など、ほとんどなかったのだ。
「だから、いきなり『婚約してください』と言われて、『では婚約しましょう』って……クリスとディアナみたいには、僕にはできないんです。それに婚約って、やっぱり段階があるんじゃないですか?」
「…………そうですの?」
システィーヌが本気で不思議そうに首を傾げた。
「いやいや、そうですよ! 普通はお互いのことをゆっくり知って、それから――……ああ、でも世の中にはすぐ結婚する人だっているのか……?」
言いながら、レイズ自身も何が普通なのか分からなくなってくる。
「……普通って言い方は違いますね。僕は、です。僕の中では、恋とか、そういうことに関わるものは……ゆっくり知っていきたいんですよ」
レイズは一度言葉を切ると、改めてシスティーヌの瞳を見つめた。
「だから、そういう意味では――僕はシスティーのことを、ちゃんと知りたいです」
その言葉に、システィーヌの瞳が僅かに揺れた。
もちろん、レイズの胸の内にはもう一つ別の理由がある。
(……システィーが、どうして俺の知っている未来にいないのか。それも確かめなくちゃいけない)
けれど、「知りたい」という言葉そのものに嘘はなかった。
「そう……ですわね。私も、いきなり自分の気持ちだけを一方的に……。なんだか今さらですけれど、恥ずかしくなってきましたわね……」
システィーヌは頬を僅かに赤らめながら、ぱたぱたと手で胸元を扇いだ。
(それってつまり……私を知りたいと思ってくださっているということですわよね?)
断られたわけではない。むしろ、ゆっくり知りたいと言われた。そう考えれば考えるほど、頬に集まる熱は強くなっていく。
「いえいえ。自分の気持ちを真っ直ぐ伝えるって、簡単そうに見えて難しいことだと思うので。そこは素直に、すごいなって思います。それで……話は変わってしまうんですけど」
「はい……?」
レイズの表情が、再び少しだけ真剣なものへ変わった。
「その……さっき言っていた『お兄様』って、リオネル王子殿下のことで間違いないですか?」
「…………!」
途端に、システィーヌの瞳が輝いた。
「はい! リオネルお兄様ですわ。私の兄であり、私が最も尊敬している方です。レイズも知っていたのですね!
(やっぱり……)
ここで初めて、レイズの中で一つの情報が確定した。
リオネルはシスティーヌの兄。つまり、システィーヌはリオネルの妹だったのだ。
「それは……そうですよね。陛下とお話ししていて、なんとなく分かります。きっと陛下のご子息も、陛下のように立派な方なんだろうなって」
「あら、レイズはずいぶんとお口がお上手ですのね」
「いえいえ! 本当に本心ですから!」
レイズは慌てて否定すると、そのまま言葉を続けた。
「カイネル陛下と話ができて、本当によかったって思ってます。それに陛下は……僕にとって、すごく親しみやすい方でしたし」
「…………お父様が、親しみやすい?」
システィーヌの目がまん丸になる。彼女にとって父は尊敬する存在であり、何よりこの国の王である。その父親に対して「親しみやすい」という感想が出てくるとは思っていなかった。
「うん。あの方は、すごく立派な人だって本当に思ったんだ。それに……陛下となら、終わらせられるって信じてるから」
いつの間にかレイズの言葉から敬語が消えていたが、システィーヌはそれを咎めなかった。むしろ、先ほどまでよりもずっと自然に話してくれていることが嬉しかった。
「終わらせられる……ですか?」
システィーヌが僅かに眉を寄せると、レイズは静かに頷いた。
「アルバードだけじゃない。王国も……これまでの辛い過去も、それに、これから起きるかもしれない辛い未来も。全部を終わらせるためには、陛下の力が絶対に必要だから」
そこでレイズは何の迷いもなく、真っ直ぐにシスティーヌを見た。
「だから僕は、陛下のことも大好きだし尊敬もしてる。」
「…………」
システィーヌは、その言葉に何も返すことができなかった。
自分が父を尊敬するのは、ある意味では当然なのかもしれない。自分の父であり、王国を背負って立つ王なのだから。
けれど、レイズは違う。
アルバードと王国の間には、決して簡単に忘れられるようなものではない過去がある。レイズ自身も父と母を失い、祖父であるヴィルやヴィズを失い、さらにはレオナルディオが残したものまで、その小さな身体で抱えているはずだった。
それでも、この少年は過去をなかったことにするわけでも、王国への怒りを知らないわけでもないのに、その王国を治める王について「大好きだ」と、何の迷いもなく言える。
しかも、それがお世辞ではないことくらい、システィーヌには分かった。
レイズの瞳が、すべてを語っていた。
嘘もなければ、媚びるような色もない。そこにあるのは、カイネルとなら過去から続いてきた何かを本当に終わらせられるのだと信じている、どこまでも真っ直ぐな想いだけだった。
(…………やっぱり)
システィーヌの胸が、再び大きく鳴った。
最初に目を奪われたのは、その瞳だった。
けれど、今はもうそれだけではない。
この少年が何を見ているのかを知りたい。この少年が信じる未来をもっと知りたい。そしてできることなら、その隣から同じ景色を見てみたい。
そんな気持ちが、先ほどよりもずっと強くなっていた。
「レイズ……」
「はい?」
システィーヌは真っ直ぐにレイズを見つめると、今度は一切迷うことなく告げた。
「やっぱり………私と……婚約してください」
「…………え?」
レイズの思考が、再び止まった。
結局、話は最初に戻ってしまった。
そして――レイズはまだ知らない。
今、目の前にいるシスティーヌが大切そうに口にした「システィー」という呼び名。その名で彼女を呼んでいた一人の人物が、かつてどのような人間だったのかを。




