知らないなら知ればいい。
その頃、屋敷の外では――。
「エルンスト様!! ちょっと、分かりましたから! 分かりましたから離してください!」
腕を掴まれたまま、ずるずると引きずられていたリールが必死に声を上げると、エルンストはようやく足を止め、その腕を離した。
解放されたリールは乱れた服を整えながら、困ったようにエルンストを見つめる。
「エルンスト様……そんなに急がなくてもいいのでは? せっかくアルバードまで来たんですし……」
するとエルンストは、どこか穏やかな表情を浮かべながら屋敷を振り返った。
「あとは、若い方々に任せるのもいいでしょう。それに……私には、本来この場所に立つ資格などありませんので」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、リールの表情が変わった。
エルンストが何を言っているのか、その意味が分かったからだ。
王国とアルバードが対立していた頃のこと。そして王国の騎士として、自分がしてきたこと。エルンストの中では、それらすべてを「もう終わったこと」と簡単に切り離すことなどできないのだろう。
だからこそ、リールは少しだけ強い口調で言った。
「そんな過去は過去ですよ! リリアナ様だって、せっかく中へ案内してくださっていたんです。お言葉に甘えたっていいじゃないですか」
エルンストはしばらく何も言わなかったが、やがて小さく笑った。
「過去は過去です。その通りでしょう。ですが――過去にしたことまで、なくなるわけではありません」
「…………」
「忘れずにいるくらいで、私にはちょうどいいのですよ」
「エルンスト様……」
リールはその言葉を深く受け止めた。
過去を引きずっているのではない。
忘れないと決めているのだ。
自分がしてきたことをなかったことにはせず、その上で前へ進んでいく。そんなエルンストなりの覚悟なのだと思えば、リールもそれ以上軽々しく「気にしなくていい」とは言えなかった。
しばらく感慨深そうにエルンストを見つめていたリールだったが――ふと、一つの素朴な疑問が浮かぶ。
「…………あの」
「なんでしょう?」
「私……関係ありますか?」
「…………」
エルンストの過去については分かった。
それは分かったのだ。
だが、なぜ自分まで一緒に連れて帰られなければならないのか。
そんなリールを見つめたエルンストは、何事もなかったかのように答えた。
「帰りは、ゆっくり馬車で休めるではありませんか?」
「え……?」
リールは目を瞬かせた。
行きに乗ってきたのは王家の馬車だ。そして、その馬車をここまで操ってきたのはエルンストである。
エルンストが一人で王都へ戻れば、当然その馬車も王都へ戻る。つまり、リールがこのままアルバードへ残れば、自分で帰りの足を確保しなければならなくなるのだ。
それだけではない。
行きの馬車では、わけも分からないまま突然システィーヌと二人きりで乗せられ、王女を相手に延々と会話を続けることになった。精神的にも相当疲れていることくらい、エルンストには分かっていたのだろう。
帰りくらい、何も考えず馬車の中で休め。
そういうことなのだ。
不器用ではある。
だが、間違いなくエルンストなりのリールに向けた気遣いだった。
「エルンスト様……」
思わず感慨深く呟いたリールに、エルンストは少しだけ視線を逸らした。
そして、短く付け加える。
「それに……一人で戻るのは、少し寂しいではないですか」
「…………」
リールはじっとエルンストを見つめた。
「それが本音では……?」
「では、無駄口を叩かず帰りましょう」
「やっぱりそうなんですか!?」
再び歩き始めたエルンストを、リールが慌てて追いかける。
するとその時、屋敷の方から一人の少女が走ってきた。
「リール様! それにエルンスト様も!」
「リアナさん?」
息を切らしながら追いついたリアナは、二人の前で足を止めると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ろくなおもてなしもできず、申し訳ございませんでした。でも……またお会いできて、嬉しかったです」
その言葉に、リールもエルンストも一瞬黙ってリアナを見つめた。
何の裏もない、素直な言葉だった。
リールは自然と表情を緩め、エルンストもほんの僅かに口元を上げる。
だが、エルンストはすぐに鼻を鳴らした。
「では、行きますよ」
「はいはい。分かりましたよ」
リールが馬車の中へ乗り込む。
一方のエルンストは客室には入らず、そのまま前方の御者台へと上がった。
手綱を握り、馬をゆっくりと進ませる。
馬車が動き出すと、リールは窓から顔を覗かせ、次第に遠ざかっていくリアナへ向かって手を振った。
リアナも大きく手を振り返している。
その姿を見ながら、リールはしみじみと呟いた。
「なんていい娘なんでしょう……」
その時だった。
遠ざかっていく馬車へ向かって、リアナがさらに大きく手を振りながら叫んだ。
「私もレイズ様と幸せになりますからぁぁぁぁぁ!!」
「…………え?」
リールの動きが止まった。
「い、今……なんか聞こえませんでした!?」
すると前方の御者台から、エルンストの声だけが返ってくる。
「無駄口を叩かないでください」
「いや、でも今、リアナさんがレイズ様と幸せになるとか――」
「聞こえませんでした」
「絶対聞こえてますよね!?」
「帰りは長いのです。少しお休みになられては?」
「あ、はい……」
妙に有無を言わせぬエルンストの声に押され、リールはおとなしく窓から顔を引っ込めた。
そうして二人を乗せた馬車は、リアナに見送られながらアルバードを後にしていった。
その頃、屋敷の中では――。
システィーヌが、アルバードの屋敷の中でも特に豪華な一室へと案内されていた。
王族を迎えても失礼のないよう整えられた客室で、リリアナはシスティーヌを席へ案内すると、ほとんど待たせることなく紅茶を用意し、静かにテーブルへ置く。
「どうぞこちらで、ごゆっくりお待ちくださいませ」
そう告げて深く頭を下げる一連の所作には、一切の無駄がなかった。
システィーヌは、そんなリリアナの姿を先ほどからじっと見つめていた。
(この方……ただ者ではありませんわね)
玄関先で見せた対応もそうだったが、今も同じだ。
客人との距離、声の調子、立ち位置、紅茶を出すタイミングに至るまで、何一つ不自然なところがない。
むしろ王都の高位貴族に仕える使用人と比べても、決して見劣りするものではなかった。
(……どうして、これほどの方がアルバードに?)
また一つ。
システィーヌの中で、アルバードという場所への疑問が増えていた。
一方、その頃。
「どうしよ、どうしよ……え? 俺、行かないと駄目なの!? 誰か代わりに話を聞いてあげてくれないの!?」
レイズは大慌てで服装を整えながら、周囲へ助けを求めていた。
先ほどまで王女を前にどうにか当主らしく振る舞おうとしていた少年の姿は、もうどこにもない。
突然現れた王女から婚約を申し込まれ、しかもこのあと直接話をしなければならない。
その現実に、完全に混乱していた。
そんなレイズを見ながら、リアノが困ったように答える。
「ですが……システィーヌ王女様のお相手となれば、レイズ様としか釣り合いが取れないかと……」
「いやいやいやいや! 王族とそもそも釣り合い取れる人なんていないよね!?」
「それは……」
リアノまで返答に困ったところで、扉が開き、落ち着いた足取りでクリスが姿を現した。
「レイズ様」
「クリス?
「どうやら、あちらは準備が整ったようです。もしお一人では心細いのでしたら……このクリスがお側におりますが」
「…………」
レイズはクリスをじっと見つめた。
そして、ほんの少しだけ考えたあと。
「ああ、遠慮しとくよ」
「何故ですか!?」
クリスが目を見開いた。
「何故!! 私なら!! 王族が相手であろうとも、言いたいことをはっきりと言えます!」
レイズは無視した。
だから嫌なのだ。
確かに心細いと言えば、その通りだった。緊張してまともに話せる気もしないし、そもそも何を話せばいいのかすら分からない。
(っていうか……アルバードを学びに来たんだよな? なんでそこから婚約の話になるんだよ……)
考えれば考えるほど分からない。
その時だった。
「レイズくん……」
聞き慣れた声に、レイズは勢いよく振り返った。
「おお、イザベル!!」
まるで救いの手を見つけたかのように、レイズの表情が一気に明るくなる。
「お前なら!! なぁ、イザベル!! システィーヌ王女は――」
そこまで言って。
レイズは止まった。
「…………あれ?」
「レイズくん?」
「システィーヌ王女……?」
もう一度、その名前を口の中で転がしてみる。
システィーヌ。
システィーヌ王女。
どこかで聞いたことがあるのに思い出せない。
そんな感覚ではなかった。
違う。
知らないのだ。
「…………」
レイズの表情から、少しずつ先ほどまでの慌ただしさが消えていった。
「レイズくん?」
「いや……なんでもない」
そう答えながらも、レイズの頭の中では別の思考が急速に回り始めていた。
自分が知っているのは、これから数十年先に訪れるゲームの世界。
その未来における王国の姿も、ある程度は知っている。
そして、その未来で王となっている人物。
リオネル。
その名前をレイズは知っている。
カイネルについても、それならば理解できる。
数十年後の世界なのだから、その頃にはすでに先王となっており、その後をリオネルが継いだのだと考えれば、何も不自然なことはない。
だが――。
(システィーヌ王女……?)
記憶をどれだけ探っても、その名前が出てこない。
カイネルの娘。
それならば当然、リオネルとも王家の血を引く者同士、近しい血縁にあるはずだ。
だが、姉なのか。
妹なのか。
年齢がどれほど離れているのか。
どんな人物なのか。
どんな人生を歩んだのか。
レイズは何一つ知らない。
そもそも――システィーヌという王女が存在していたこと自体、知らなかったのだ。
(なんで……?)
王族である。
それほどの人物が、なぜ自分の知る未来では名前すら出てこないのか。
ただゲームの物語に関係しなかっただけかもしれない。
どこか別の国へ嫁いだのかもしれない。
王族から離れ、まったく別の人生を歩んでいた可能性だってある。
理由など、いくらでも考えられる。
それでも――レイズの胸には、どうしても嫌な感覚が残った。
「レイズくん!!!」
「わわっ!? なんだよ!」
イザベルの声に、レイズは現実へと引き戻された。
「どうするつもりなの!? 王族からの婚約でしょう? 下手に断ったりしたら……」
「あっ……そうだ。そうだった」
今は何より、目の前の問題もある。
レイズは慌ててイザベルへ詰め寄った。
「イザベル、どうしたらいい!?」
「どうしたらって……レイズくん自身はどうなのよ。システィーヌ王女との婚約」
「…………」
レイズは首を振った。
ぶんぶんと、誰が見ても分かるほど勢いよく。
それは明確な拒否だった。
好きとか嫌いとか、そういう話ではない。
そもそも今日初めて会った相手なのだから、そんな感情を持てと言われても困る。
それ以上に――王族と親族になるということが恐ろしい。
どう考えても忙しくなる。
ただでさえ、やらなければならないことも、やりたいことも山ほどあるのだ。
世界樹の種だって届けなければならないし、その後には学院も待っている。
「断ったら……どうなるかな?」
「んー……」
イザベルは腕を組んで少し考えた。
「学院での生活は、少し過酷になるかもしれないわね」
「え……?」
「それだけじゃないわ。システィーヌ王女自身がどう思うかも分からないし……きっと、カイネル陛下の心情にも多少は響くんじゃないかな」
「え…………?」
レイズの顔が引きつった。
「じゃあ……受けるしかないの?」
「だから、それをどうするか考えるためにリリアナが時間を作ってくれたのでしょう!?」
「あ……」
そこでようやく、レイズはリリアナの意図を改めて理解した。
今すぐ答えを出せと言われているわけではない。
まず考えろ。
そのための時間を、リリアナは作ってくれたのだ。
レイズは一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
そして――再び考える。
婚約についてではない。
先ほど頭をよぎった、もう一つの疑問について。
(未来に……システィーヌ王女はいない)
いや。
正確には違う。
自分の知るゲームの中に、システィーヌという王女が登場しない。
それだけだ。
ただ物語に登場する機会がなかっただけかもしれない。
けれど王国は、ゲームの中でも決して小さな存在ではなかった。
その王家に連なる人物の名前が、まったく出てこない。
それが、どうしても引っかかった。
そして――一つの嫌な可能性が浮かんでしまう。
(いないとしたら……死んでるってこと、なのか?)
確証など何もない。
ただの仮説だ。
むしろ、そうではない理由だっていくらでも考えられる。
それでも一度その可能性に気づいてしまえば、レイズには無視することができなかった。
もし本当に、システィーヌが自分の知る未来へ辿り着けないのだとしたら。
何が起きる。
いつ起きる。
誰が関わっている。
そして――その出来事は、未来の王国に何を残したのか。
そこでレイズの思考に、未来で知る一人の王族の名前が浮かんだ。
(…………リオネル)
システィーヌとリオネルが、具体的にどのような関係なのかさえレイズは知らない。
姉なのか。
妹なのか。
それすら分からない。
ただ、二人がカイネルの子であるのなら、家族であることだけは間違いない。
そしてレイズの知る未来では、リオネルという人物が王国の王となっている。
なのに――その未来で、システィーヌという名前をレイズは知らない。
(まさか……この王女の未来も、俺が知ってるあの未来に大きく関係していたんじゃないか……?)
もしシスティーヌに何かが起きるのだとしたら。
それはリオネルにも、王家にも、何かを残すのではないか。
そしてそれが、自分の知っている未来の王国へと繋がっている可能性はないのか。
「…………」
分からない。
何一つ分からない。
今のリオネルがどんな人物なのかさえ、レイズは知らない。
システィーヌとの関係も知らない。
彼女が未来に登場しない理由も知らない。
つまり――考えても、答えなど出るはずがない。
けれど、それでよかった。
レイズが知っているのは未来だ。
その未来へ至るまでに何が起きたのか、そのすべてを知っているわけではない。
アルバードに自分の知らなかった過去があったように、王国にもまた、自分の知らない過去が確かに存在している。
ならば――やるべきことは一つだった。
「システィーヌ王女と話をするのは……俺一人でいい」
「え?」
イザベルが驚いたようにレイズを見る。
先ほどまでとは、明らかに雰囲気が違っていた。
婚約をどうすればいいのかと慌て、誰か代わりに話してくれないかと騒いでいた少年は、もうそこにはいない。
何も知らないなら、知ればいい。
知るためには、話せばいい。
システィーヌという人間を知る。
彼女が何を考え、何を望み、なぜアルバードへ来たのかを知る。
そしてもし――彼女の身に何かが起きる未来が本当に待っているのなら。
それも防げばいい。
そう考えた途端、不思議なほどレイズの頭は冷えていた。
「…………なら、助けなくちゃだよな」
「え……?」
システィーヌが未来にいない理由など、まだ何も分からない。
そもそも本当に何かが起きるのかさえ分からない。
全部、レイズの想像に過ぎない。
けれど、その可能性に気づいてしまった以上、知らないふりをすることだけはできなかった。
「大丈夫。きっと大丈夫だ」
誰に言うでもなく、レイズはそう呟いた。
自分の知る未来へ繋がる何かが、これからシスティーヌの身に起きるのだとしたら。
その未来を変えられる可能性があるのは、未来を知っている自分だけなのかもしれない。
だからこそ――今度は逃げない。
先ほどまで婚約話から必死に逃げようとしていた少年の面影は、もうなかった。
未来で名前を知らなかった一人の王女。
その運命に何が待っているのかは、まだ分からない。
それでも、もしその先に救わなければならない未来があるのなら――。
それを知り、変える。
あの未来へ繋がる可能性があるのなら、それを潰す。
それは、未来を知る今の自分にしかできないことなのだと。
レイズは静かに覚悟を決めた。




