時は動き出す。
混乱が限界を超えたせいなのか、完全に思考が停止したレイズの頭の中では、なぜかこの場にはまるで似つかわしくない優雅な音楽が流れていた。ゆったりとしたクラシックの旋律が、まるで何事も起きていない穏やかな午後でも彩るかのように流れ続けている。
王女。婚約。知らない少女。王国から来た。そして、その王女がなぜか自分へ婚約を申し込んでいる。
考えなければならないことが一気に押し寄せた結果、逆に何一つ考えられなくなってしまったらしい。
「…………」
しばらく遠い目をしていたレイズだったが、やがてハッと我に返った。
「えっ!? それより王女様!? なんで……いや、それより早く!! こんな場所で話してる場合じゃないだろ!?」
ようやくもっと根本的な問題へ思考が追いついたのである。婚約がどうとか、それ以前の話だ。目の前にいるのは王国の王女であり、しかも事前の連絡もなく突然アルバードまでやって来ている。なぜここへ来たのかも、なぜ自分へ婚約を申し込んだのかも分からないが、少なくとも玄関先に立たせたまま話を続けるような相手ではない。
まずは丁重に迎え、落ち着いて話のできる場所へ案内する。それくらいなら、正式な礼儀作法に疎いレイズにも分かった。
レイズは一度大きく息を吸い、どうにか気持ちを切り替えると、システィーヌへ向き直った。
「ようこそ、いらっしゃいました。心より、王女である……えっと……」
そこで言葉が止まった。
そもそも先ほどクリスから王女だと教えられたばかりで、名前すらまともに聞いていなかったのである。困ったように視線を彷徨わせるレイズを見かねたのか、ディアナが横から小さな声で助け舟を出した。
「システィーヌ様です……」
「あっ! システィーヌ王女様! わざわざこのような辺境にまでお越しいただき、ありがとうございます!」
どうにか形にはなった。少なくともレイズ本人はそう思ったらしく、その勢いのまま隣にいるクリスへ顔を向ける。
「クリス!」
「ハッ!」
「丁重にお通しするのだ!」
「どこへ?」
「…………は?」
レイズの表情が止まった。
「ですから、どちらへお通しすればよろしいのでしょうか?」
「ここじゃないところだろ!?」
「なるほど!」
「なるほどじゃないよ!!」
駄目だった。
王女を迎える領主と、その側近。本来ならば威厳と格式をもって客人を迎えるべき二人が、玄関先で揃って何をしているのか。レイズ自身も自分たちが相当ひどいことになっている自覚はあったのだが、だからといって急に正しい作法が身につくわけでもない。
そんな二人のやり取りを見かねたように、後ろから穏やかな声が響いた。
「よくいらっしゃいました。システィーヌ王女様。それにエルンスト様、リール様も、長旅でお疲れでございましょう」
リリアナだった。
彼女はシスティーヌたちの前へ進み出ると、長く貴族の屋敷へ仕えてきた者らしい洗練された所作で一礼する。その姿には先ほどまでレイズとクリスが生み出していた慌ただしさなど欠片もなく、たった一人が前へ出ただけで場の空気そのものが整ったようにさえ見えた。
「こちらへご案内いたします。皆様も、ぼうっとしている場合ではありませんよ? 大切なお客様なのですから、すぐに動いてください」
「そうです!」
なぜか真っ先に便乗したのはクリスだった。
「皆様! 大切なお客人です! 何をしているのですか!」
「クリス!? お前も今まで何もしてなかっただろ!?」
レイズの指摘など意にも介さず、クリスは妙に真剣な表情でシスティーヌを見ていた。どうやら先ほどまでとは違い、彼の中でシスティーヌへの評価が大きく変わっているらしい。
理由は単純だった。
レイズへ婚約を申し込んだ。
それだけである。
レイズ様へ婚約を申し込むほど見る眼があるのならば、悪い人物ではない。そんなあまりにも偏った判断基準によって、クリスは早くもシスティーヌを認め始めていた。
「クリス……お前……」
レイズが呆れたように見つめる一方、システィーヌは先ほどまでとは違う落ち着いた目で、その一連のやり取りを観察していた。
あれほど胸の内で燃え上がっていた怒りが消えたわけではない。アルバードの在り方を理解したわけでも、王国の格式を軽んじてよいと思ったわけでもない。ただ、実際にレイズ本人を見て、言葉を聞き、周囲との接し方を眺めているうちに、自分が想像していた人物像とは明らかに違う部分が見え始めていた。
礼節を知らないわけではない。王女である自分を丁重に迎えようともしている。ただ、その方法があまりにも拙いのだ。
おそらく幼い頃から、王族や高位貴族が受けるような正式な作法の教育を十分に受けてこなかったのだろう。けれど、教えられていないことを完璧にできるはずがない。そして何より、できないなりにレイズは精一杯、自分を客人として迎えようとしている。
(…………そういうことですのね)
システィーヌはそこで初めて、自分の中にあった認識を一つ修正した。
少なくともこの少年は、礼節そのものを馬鹿にしているわけではない。
システィーヌは小さく息を吐き、改めてレイズへ向き直ると、ドレスの裾を僅かに持ち上げ、美しい所作で一礼した。
「ええ、レイズ様。私もお会いしたかったです。父である陛下より、アルバードを学んでくるようにと言われ、こうして参りました。事前にお知らせすることもなく突然訪ねる形となってしまったこと、どうかお許しください」
一切の淀みがない、完璧な礼だった。
それに続くようにエルンストも頭を下げ、リリアナもまた何の違和感もなく優雅に一礼する。王女、王家に仕える騎士、そして長く貴族の屋敷へ仕えてきた侍女。礼節というものを身体へ染み込ませてきた三人の所作が重なったことで、その場には先ほどまでとはまるで違う空気が生まれていた。
レイズは思わず見入ってしまった。
(…………すげぇ。これが本来の貴族ってやつなのか……)
自分が形だけ真似しようとしていたものとは、あまりにも違う。格式というものを嫌っているわけではないからこそ、純粋に感心してしまったのである。
「それでは……ご用件については、場所を移してゆっくり伺わせていただきますので」
どうにかそれらしい言葉を選んだレイズに、システィーヌは小さく首を傾げた。
「普段通りで構いませんわ。どうぞ自然に振る舞ってください。私はアルバードを学ぶために参ったのですから」
「は、はぁ……」
そう言われても困る。
丁寧にしろと言われれば自信がなく、普段通りでいいと言われれば、王女を相手に本当に普段通りでいいのか不安になる。何とも言えない表情になったレイズを見て、システィーヌの口元が僅かに緩んだ。
「それよりも、先ほどの婚約のお話についてなのですが……」
「…………」
逃げられなかった。
「あの……それについても、もちろんなんですけど……」
レイズは必死に頭を回転させた。何でもいい。一度でいいから、この話題から離れたい。
すると、そんなレイズの窮地を察したのか、リールが一歩前へ出た。
「レイズ様。それより、こちらへ来るまでに様々な発明を目にしました。あれらはいったい、どのような原理で作られているのでしょうか?」
「あっ! よく気づいたな、リール! あれはだ――」
「リール」
システィーヌの声が割って入った。
「邪魔をしないでくださいます?」
「…………はい?」
さらにエルンストまで冷たい視線を向ける。
「そうだ。リール、貴様は少し弁えろ」
「…………はい。ごめんなさい」
「はい……ごめんなさい……」
なぜかレイズまで一緒に謝った。
その瞬間、レイズは悟った。
(逃げられない…………)
「あははは……婚約、ですか……」
「そうですわ。婚約です」
「そ、そうですよね! あの……その前に一つだけ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「婚約って……具体的には、どういうものなんですか?」
システィーヌは一瞬だけ目を瞬かせた。まさかそこから説明することになるとは思っていなかったが、すぐに小さく笑って答える。
「王家とアルバードが正式な誓いを結び、将来的には夫婦として互いを支え、そして跡継ぎとなる子を――」
「そうですね!!」
レイズの声が裏返った。
「なんとも光栄な……光栄すぎるお話で……その、なんといいますか……驚きがありすぎて……」
必死だった。
本当に必死だった。
けれど、どう取り繕っても一番聞きたいことだけは消えてくれない。
「…………なんで、ですか?」
その問いを聞いた瞬間、システィーヌは思わず「くすっ」と笑ってしまった。
可愛い。
自然と、そんな感想が浮かんだ。
もちろん、容姿だけの話ではない。自分は王女であり、王国で育った男性であれば、自分との婚約がどれほど大きな意味を持つのかくらい理解している。政治的にも立場としても、普通なら簡単に断れるような話ではない。
それを理解しているからこそ、目の前で必死に言葉を選び、どうにか誰も傷つけない形で状況を理解しようとしているレイズの姿が、妙に幼く、そして可愛らしく見えた。
(本当に子供っぽい方……。でも、きっと、とても優しいのでしょうね)
システィーヌはそこで、ここまで見てきたレイズの姿を改めて思い返した。
確かに十四歳の少年だ。慌てるし、困るし、婚約の話から逃げようとしてリールの助け舟へ全力で乗ろうともする。けれど、それだけでは説明できない何かがある。
レイズは常に周囲を見ていた。
誰が何を感じているのか。自分が何を言えば相手がどう思うのか。どの言葉なら誰かを傷つけずに済むのか。そうしたものを、まるで無意識のうちに考え続けているように見える。
だからこそ、婚約を申し込まれても即座に拒絶しない。自分の立場だけでなく、システィーヌの立場まで考えながら、必死に言葉を探している。
(親しみやすさ……リールはそう言っていましたけれど、それだけではありませんわね)
この少年は、人を知っている。
人の感情をよく見ている。
時には言葉にされる前の気持ちさえ察し、それに合わせて自分の振る舞いを変えている。
それは十四歳という年齢には、あまりにも似つかわしくないものだった。
まるで何十年も生きてきた者のような、そんな不思議な経験の深さを感じさせる瞬間がある。
でなければ、あの眼にはならないのではないか。
多くを失い、それでも誰かを恨むことだけに囚われず、これほど真っ直ぐに人を見ることなどできないのではないか。
そして何より、クリスを見れば分かる。
先ほどまで王国の格式など意にも介していなかった男が、レイズへ向ける敬意と信頼、そしてあまりにも大きな親愛。クリスにとって王国は、もう自分が属する場所ではないのだろう。だからこそ、あの態度が生まれる。
けれど、そのクリスが何よりも大切にしている当主は、王国を決して軽く見てはいない。
(…………本当に、不思議な方ですわね)
システィーヌがそんなことを考えていると、その様子を見ていたエルンストが僅かに微笑み、今度はディアナへ視線を向けた。
「それよりも、ディアナ様。クリス様とのご婚約、誠におめでとうございます。どうか、お幸せに」
「…………っ!」
ディアナの顔が一気に赤くなる。
どうやらエルンストも、先ほど玄関の向こうから聞こえていたレイズとクリスの会話を耳にしていたらしい。
『ディアナみたいな美人を泣かせたら、俺が許さないからな』
先ほどレイズは、はっきりそう言っていた。クリスもまた、ディアナが美しいことを当然のように認めていた。
これまでアルバードで、あの二人から面と向かってそんなことを言われる機会などほとんどなかった。それだけでも恥ずかしいというのに、今度はエルンストから真正面から婚約を祝福されてしまったのである。
「は、はい……その……ありがとうございます。本当に……」
ディアナは完全に撃沈していた。
そんな彼女を微笑ましそうに見たあと、リリアナが静かに一歩前へ出る。
「システィーヌ様。婚約についてのお話は、とても大切なものになるかと存じます。ですので、どうぞ場所を改めましょう。私がご案内いたします」
「ええ、お願いします」
「それでは――」
リリアナはそこでレイズへ顔を向けた。
「レイズ様……よろしいですね?」
「…………!」
その呼び方を聞いた瞬間、レイズは意味を理解した。
リリアナが自分を「レイズ様」と呼ぶ時、それは母親のように自分を見守る彼女ではなく、アルバード家に仕える侍女として振る舞っている時だ。そして今の言葉には、もう一つの意味があることも分かっていた。
ここは私が引き受けます。
貴方は貴方で、必要な準備をしてきなさい。
そんな意味だ。
言葉にされなくても、それくらいは分かる。
レイズは反射的に背筋を伸ばした。
「そ、その通りでした! では……リリアナにお任せします!」
なぜか敬語になった。
リリアナは何も言わず、ただにこにこと笑っている。
その様子を見ていたシスティーヌも、思わず小さく笑った。
(侍女を相手に敬語を使う当主が、どこにいるんですの……)
けれど、不思議とそれを無礼とも、情けないとも思わなかった。
リリアナが何を考え、レイズがその意図をどう受け取ったのか。二人のやり取りを見ているだけで、何となく理解できてしまったからだ。
この二人の間には、身分だけでは説明できない信頼がある。
「ええ。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
システィーヌはそう答えると、今度はエルンストへ視線を向けた。
「エルンスト。貴方はここまで私を送り届けてくださいました。あとは大丈夫ですので」
「ハッ。承知いたしました。それでは、私はこの辺りで失礼いたします」
エルンストは迷うことなく一礼した。
そして、そのまま隣にいたリールの腕を掴む。
「では、帰りましょう。リール殿」
「…………え?」
リールが目を瞬かせた。
「え、え!? ちょっと待ってください! 私もですか!?」
「当然でしょう」
「私、何のためにここまで来たんです!?」
「システィーヌ王女殿下を案内し、無事に送り届けるという任はすでに達成しておりますので」
「いやいやいや! ちょっと待って! 待ってくださいぃぃぃ!!」
そのままリールは腕を掴まれ、ずるずると玄関の方へ連れていかれる。
「わ、私がお見送りします!」
リアナが慌てて二人の後を追っていった。
ちょうどその頃、風呂の湯を沸かし直していたリアノが戻ってくる。
「終わりました――」
そして、止まった。
王女がいる。
エルンストが帰ろうとしている。
なぜかリールが引きずられている。
リアナがその後を追いかけている。
ディアナは顔を真っ赤にしている。
レイズは何とも言えない顔をしている。
クリスはなぜかシスティーヌを認めたような顔をしている。
そして、リリアナだけがいつも通り穏やかに微笑んでいる。
「…………えっと?」
リアノはしばらく考えた。
「…………?」
何一つ整理できなかった。
そして、そんな一連の騒動を階段の上から静かに見ていた者がいた。
イザベルだった。
彼女は階下にいる少女を見つめながら、ゆっくりと額へ手を当てる。
システィーヌ。
王国の王女。
もちろんイザベルも、その名を知っている。そしてシスティーヌという少女が、いろいろな意味で決して簡単な相手ではないことも知っていた。
「…………よりによって、システィーヌ王女……」
つい先ほどまで、イザベルは急がなくてもいいと思っていた。
レイズは学院へ行っても、またアルバードへ帰ってくる。
離れても、また会える。
だから自分たちには、自分たちの歩幅があるのだと。
そう思ったばかりだった。
なのに、その翌日を待つどころか、王国から王女がやって来た。
しかも、まだまともに会話すらしていないというのに――レイズへ婚約を申し込んだ。
「…………」
イザベルは頭を抱えたまま、もう一度システィーヌを見る。
そして。
「…………やっぱり、少しくらい急いだ方がよかったのかな……」
誰にも聞こえないほど小さな声で、そう呟くのだった。




