一目惚れ
システィーヌの頭の中は、もはや困惑どころの騒ぎではなかった。今、その胸の内を占めているものを言葉にするのなら、それは間違いなく怒りだった。
許せるわけがない。王国を、あまりにも軽んじている。
使用人の態度一つを取ってもそうだ。本来ならば王女である自分が訪れたのなら、それ相応の者たちが迎えに出て然るべきである。もちろん今回は突然の訪問であり、事前に知らせていなかったことくらいシスティーヌにも分かっている。それでも、あまりにも軽い。格式というものを、一体なんだと思っているのか。
そして何より、先ほどウラトス――今はクリスと名乗っている男が言いかけた言葉が許せなかった。
王国の格式など。
まるで、そんなものには何の価値もないと言わんばかりの態度だった。
あれは単なる無礼ではない。王国がこれまで積み上げてきたもの、その歴史、その中で生き、戦い、国を守ってきた者たち。そのすべてを軽んじているように、システィーヌには思えた。
そしてシスティーヌは、自分たちの前を歩くディアナをじっと見つめた。
(貴女なら……分かってくれると思っていましたのに)
王国の宝とまで呼ばれた女性。学院でもその名を知られ、座位騎士にまで上り詰め、王国のために剣を振るった人。そんなディアナなら、先ほどのクリスの発言がどれほど王国に対して無礼なものだったのか、当然分かってくれると思っていた。
なのに、婚約?
それどころか、これからもずっとアルバードにいる?
(…………一体、なんなんですのよ。どうして……どうして、そんなにここが好きなの?)
町には魔族が平然と歩いている。人間と魔族が笑い合い、商人が行き交い、領民たちは領主を捕まえて胴上げする。礼儀を知らず、格式もなく、身分というものすらまともに理解しているようには見えない。あまりにも低俗で、あまりにも雑然としていて、王都であれば到底考えられない光景ばかりだった。
それなのに、先ほどディアナが口にした言葉だけが、いつまでも耳の奥に残っている。
『とても、いいところですよ?』
(どこがですの……。どこをどう見たら、いいところなんですのよ!!)
システィーヌの手が、ぎゅっと握られる。
そして、こんな場所を作り上げたのも、きっとレイズという男なのだ。
領主が領民との距離を間違えるから、領民までそれを当然だと思う。領主が格式を軽んじるから、皆が格式を軽んじる。領主が歴史を重く受け止めないから、こんな馬鹿げた集団が出来上がる。
それがどれほど誰かの怒りを生み出すのか。それがどれほど、これまで積み重ねてきた者たちの想いを踏みにじることになるのか。きっと何も理解していないのだ。
もはやシスティーヌにとって、レイズという人物が一体どれほど優秀なのかなど、どうでもよくなっていた。父が評価していることも、リールがあれほど高く評価していることも、学院という尺度では測れない人間だと言われたことも、今はどうでもいい。
(分からせなくてはいけませんわ)
王国が何を背負ってきたのか。なぜ格式があり、なぜ秩序が必要なのか。そして、どれほどの人間が、どれほどの想いを積み重ねて今の王国へと至ったのか。
理解できないのなら、理解できるまで自分が教えてやればいい。
(私が教えて差し上げますわ)
そう考えた瞬間、システィーヌの胸の奥ではメラメラと炎のようなものが燃え上がっていた。それは期待などではなく、ましてや好意でもない。むしろその真逆にある、明確な負の感情だった。
もはやレイズとシスティーヌの初対面に待ち受けているものが、平穏であるはずがない。そんな生易しい空気など、少なくともシスティーヌの側にはすでに欠片も残っていなかった。
その頃――。
コンコンコンコンコンコンコンコンッ!!
レイズの部屋に、凄まじい勢いでノックの音が響いていた。
「やめろ! 馬鹿! アホ! 速いんだよ!!」
コンコンコンコンコンコンコンコンッ!!
「まだやるのかよ!?」
レイズは勢いよく立ち上がると、そのまま扉へ向かい、乱暴に開け放った。
「いったい誰だよ!!」
そこに立っていたのはクリスだった。なにやら神妙な顔をしている……ように見えるのだが、なぜだろう。口元だけは微妙に緩んでいる。
「いや……何? どうしたんだ?」
「レイズ様。大切な話がありますので、どうぞ歩きながらお聞きください」
「お、お、うん……?」
妙に真剣だ。
レイズは言われるまま部屋を出て、クリスと並んで廊下を歩き始めたのだが、どうにも嫌な予感が拭えなかった。何が、と聞かれても答えられない。ただ、こういう時のクリスは大体ろくでもない。いや、本人は至って真剣なのだ。真剣だからこそ怖いのである。
何か、とてつもなく大きなことが生まれる。
そんな予感だけが頭の中をよぎる中、しばらく歩いたところでクリスが静かに口を開いた。
「レイズ様……私は、恋をしてもよかったのでしょうか」
「…………は……は?」
あまりにも予想外の言葉に、レイズの足が止まりかける。
「私はこれまで、恋というものをまったく知りませんでした」
「あ、ああ……まあ、そうだよな」
レイズは少しだけ考え、先ほどリリアナが言っていた言葉を思い出した。
恋をする時間が、アルバードに生まれた。
確かにそうなのだ。これまでのアルバードには、そんな余裕すらほとんどなかった。
「リリアナも言ってたけどさ。アルバードで落ち着いてそんな気持ちになる余裕なんて、今まではほとんどなかったんだよな。だから……恋っていうのは、本当に平和の象徴なのかもしれない。誰かを好きになって、その人と一緒にいたいとか、その人との先を考えられるってことは、明日も普通に生きられるって思えてるってことだろ?」
クリスは黙ったまま、じっとレイズを見ている。
「だから、今こうして恋ができるっていうのは、たぶんすごく大事なことなんだよ」
「大事な……ことですか」
「ああ。だからまずは、クリスとディアナが示してくれればいいんじゃないか? きっとこれから、アルバードにもたくさんの恋が生まれるよ。俺たちには今まで、そんな余裕すらなかったんだからさ」
「…………なるほど。その通りですね。さすがレイズ様……」
「いや、そんな大したこと言ってないけどな」
「それで、ここからが本題なのですが」
「え? 今の本題じゃないの!?」
レイズは思わずクリスを見るが、クリスは何事もなかったかのように続けた。
「先ほど、ディアナからも言われました。私もディアナも、これから先ずっとアルバードに居続けることを……私は元からそのつもりでした。ですが、ディアナまでそのように想ってくれた。それが……本当に何より嬉しくて……」
「いや、惚気だろ。ふざけろ!?」
「惚気ではありません!」
「惚気だ!!!」
だが、レイズは知らない。
自分たちには恋をする時間などなかったと、そんなことを口にしているこの少年自身にさえ、そんな時代からずっと恋をしていた少女たちがいたことを。
そしてクリスもまた知らない。自分には恋など分からなかったと思っていた、その同じ時間の中で、ディアナはずっとクリスへ想いを寄せ続けていたことを。
そんな二人が何も知らないまま廊下を進み、階段を下りていく。そして何より問題なのは、クリスがまだ本当にレイズへ伝えなくてはならないことを、完全に後回しにしていることだった。
「でもさ……俺は素直に祝福するよ?」
「レイズ様……?」
「おめでとう、クリス。ディアナみたいな美人を泣かせたら、俺が許さないからな」
「そ、それは!! ディアナが美人であることは当然認めますが、それとは関係なく!! 泣かせるなど、そのようなことは決して――!」
「分かった分かったから!」
そんな会話を続けながら、二人はそのまま玄関へと向かっていく。
そして扉の前まで来たところで、レイズは実に爽やかな笑みを浮かべた。今までの騒動が嘘だったかのような、本当にこれまでにないほど晴れやかな顔だった。
「ハッハッハ! 見ろ! お前たちを祝福して、外の天気もこんなに――」
ガチャッ。
扉が開いた。
そして、レイズの笑顔が止まった。
そこにいたのはディアナ。その隣にはリールとエルンスト。そしてさらに、見覚えのない少女が一人立っている。
レイズは一人ずつ順番に視線を向けていった。ディアナはなぜか少し耳を赤くしており、リールはレイズを見るなり深く頭を下げ、エルンストも軽く一礼する。
そして最後。
見覚えのない少女だけが、レイズをまっすぐ凝視していた。
「…………?」
レイズも少女を見つめ返して少し考えてみるが、やはり知らない。
「え……っと、どなた?」
その瞬間だった。
システィーヌの中を、凄まじい衝撃が駆け抜けた。
(…………え)
レイズ。
この少年が。
これが――レイズ?
先ほどまで胸の中を満たしていた怒りが、消えたわけではない。王国を軽んじる態度は許せないし、アルバードの在り方にも納得していない。王国の歴史を教えなくてはならない。格式というものを理解させなくてはならない。その考えは何一つ変わっていなかった。
なのに、それとはまったく別の感情が、システィーヌの中で突然、何の前触れもなく爆発した。
自分でも分からない。ただ、目の前の少年から目が離せない。
怒っている。間違いなく怒っている。この男に言いたいことは山ほどある。それなのに、その怒りとはまったく別のところで、心臓が今までにないほど激しく鳴っていた。
そして頭の中が真っ白になった、その時だった。
なぜか、たった一つの言葉だけが残った。
つい先ほど、ディアナから聞かされたばかりの言葉。
「…………婚約」
レイズが首を傾げ、すぐに隣のディアナへ視線を向ける。
「え? ああ、ディアナとクリスのことか?」
「…………」
違う。
なぜか分からない。自分でも意味が分からない。それなのに、システィーヌの口は頭が追いつくよりも先に動いていた。
「私と婚約してください」
「…………」
レイズが固まった。
リールも固まった。
エルンストも固まった。
ディアナまで固まった。
そして何より、言った本人であるシスティーヌ自身が一番固まっていた。
(…………え? 今、私は何を言いましたの?)
数秒の間、誰一人として動かなかった。
「…………誰が?」
ようやくレイズが恐る恐る尋ねると、システィーヌの頬が少しずつ熱くなっていく。しかし、もう言ってしまった。王女である自分が、一度口にした言葉を今さら引っ込めるなど――。
「…………私と、貴方が」
「なんでそうなるの!?」
その瞬間、隣にいたクリスが感心したように大きく頷いた。
「さすがは王族。見る眼だけは、このクリスも認めましょう。」
「お前は黙ってて!?」
「はっ!」
そしてクリスは、そこでようやく何かを思い出したように顔を上げた。
「ああ、それでレイズ様。お伝えするのを忘れていたのですが……」
「何が………」
「王国から王女が、こちらの屋敷へ向かっていたのです」
「…………」
レイズはゆっくりとシスティーヌを見る。そしてもう一度クリスを見て、再びシスティーヌを見る。
「は………は?」
クリスは何の悪びれもなく、システィーヌへ手を向けた。
「こちらがシスティーヌ王女です」
「は………………?」
王女。
婚約。
知らない少女。
王国から来た。
なぜここにいる。
なぜ自分に婚約を申し込んでいる。
そして何より、なぜクリスはそれを今になって伝えた。
様々な疑問が一斉に押し寄せ、レイズの頭の中は、氷属性を使ったわけでもないのに完全にフリーズしてしまうのだった。
一目惚れ。
簡単に言ってしまえば、そうなのかもしれない。
けれど、システィーヌがレイズを見た瞬間に感じたものは、それだけではなかった。
目の前で完全に固まっているレイズを見つめながら、システィーヌはどうしてもその眼から視線を外すことができずにいた。そして、以前に父であるカイネルが、自分とリオネルへ語った言葉を思い出していた。
レイズという少年の眼について。
本来であれば、恨みも、憎しみも、怒りも、その胸の内に数え切れないほど抱えていてもおかしくない少年。多くを失い、傷つけられ、王国に対して怒るだけの理由も、憎むだけの理由も十分すぎるほど持っている。
それなのに――。
『あの男の眼は、不思議なほどに……』
カイネルは、そう言っていた。
憎しみに沈んでいるわけでも、怒りに呑まれているわけでもない。それどころか、その眼には驚くほど真っ直ぐで、明るい光が灯っているのだと。
あの時のシスティーヌには、その意味が分からなかった。なぜ父が、一人の少年の眼についてそんなことを語るのか。なぜレイズという名前を何度も口にするのか。そして、なぜそこまでこの少年を気にかけるのか。
だからこそ、自分の眼で確かめるつもりだった。
そして今。
初めて、レイズの眼を見た。
(…………あ)
その瞬間、システィーヌは分かってしまった。
(お父様が言っていたのは……この眼のことですのね)
会話らしい会話など、まだ何一つしていない。レイズが何を考えているのかも知らない。アルバードをどう思っているのかも、王国をどう思っているのかも、本人の口から聞いてすらいない。
それでも、その眼だけは分かった。
あまりにも明るく、真っ直ぐだった。
つい先ほどまでクリスと笑っていたからなのだろう。その表情にはまだ楽しげな色が残っている。ディアナとクリスの婚約を心から喜び、二人がこれから先も一緒にいられることを、何の疑いもなく祝福していた少年。
そこには、システィーヌが想像していたような傲慢さも、王国に対する嘲りもなかった。
だからといって、システィーヌの怒りが消えたわけではない。アルバードの在り方を認めたわけでも、王国の格式を軽んじても構わないと思ったわけでもない。レイズに教えなくてはならないことがあるという考えは、今も変わっていなかった。
けれど、それでも。
この眼を見た瞬間だけは、システィーヌはこれまで理解できなかった父の言葉を理解してしまった。
なぜ父がこれほどまでにレイズという少年を気にかけるのか。そしてなぜ、アルバードにいる者たちがあれほど楽しそうに、この少年の名を呼ぶのか。
もちろん、そのすべてを理解したわけではない。
ただ、その答えの入り口だけは、確かに目の前にあるような気がした。
システィーヌは、いまだ混乱したままレイズを見つめ続ける。自分がなぜ、いきなり婚約などという言葉を口にしたのか。それさえ、まだ自分でもよく分かっていない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
先ほどまでシスティーヌは、レイズという男に自分が教えてやるつもりだった。王国を、歴史を、格式を、そしてこれまで積み重ねてきた者たちの想いを。
けれど実際に出会って、最初に何かを理解させられたのは――システィーヌの方だった。
父が語っていた、レイズという少年の眼。
その意味を。
システィーヌはレイズの眼を見た、その一瞬で理解してしまったのだった。




