とてもいいところ
アルバードには、ようやく暖かな空気が戻り始めていた。
けれど、それでも時間は止まらない。
カタカタカタカタカタ…………。
長い道のりを走り続けていた馬車の音が、ゆっくりと小さくなり――やがて、完全に止まった。
「到着しました」
御者台から聞こえてきたのは、エルンストの短い声だった。
馬車の窓から外を覗けば、そこにはアルバードの屋敷へと続く巨大な門がそびえている。その大きさは領主の屋敷へ続く門として十分な威厳を備えており、それを見上げたシスティーヌは、ほんの少しだけ目を見開いた。
「まぁ……大したものですわね」
そんなシスティーヌを横目に、リールは先に馬車を降りた。長時間同じ姿勢で座っていたせいで固まった腰を伸ばしながら、大きく身体を反らす。
「んんんん…………。なんでこう……私はここを訪れることが多くなったのでしょうか……」
目の前にあるのは、もうすっかり見慣れてしまった門だった。
以前までなら、ここへ来るたびにレイズが何かしら妙なことをしていた気がする。空に光の魔法を打ち上げてみたり、屋敷へ入れば入ったで、当主としての威厳をどうにか示そうと妙な演出を考えてみたり。
当主なのだから舐められてはいけない。
そんなことを本人なりに真剣に考え、毎回よく分からない方向へ全力を注いでいる少年。
もっとも、何度もアルバードを訪れているリールには、もう分かっている。
(まぁ……見栄といいますか……)
そういうところまで含めて、レイズなのだ。
その間にシスティーヌも馬車から降りてくる。エルンストが差し出した手を取り、優雅な動作で地面へ足を下ろすと、改めて巨大な門を見上げた。
そんな彼女の横で、リールはぽりぽりと頬を掻く。
「はが……それよりも、お迎えはどなたもいらっしゃらないので?」
システィーヌの問いに、リールは苦笑した。
「そりゃあ……勝手に来ていますからね」
「…………それもそうですわね」
王女が訪れたというのに出迎えがない。王城であれば考えにくいことだが、そもそも今回は正式な訪問として大々的に知らせているわけでもないのだ。
しばらくすると、屋敷の使用人の一人がこちらに気づいた。
「あ……リールさん」
見慣れた顔を確認したあと、その視線がシスティーヌへ移る。そして最後に、少し離れたところに立つエルンストを見た。
「あらあら……あら? あらぁ……」
何かを察したらしい。
だが、そこに慌てた様子はない。王女がいることに気づいたのかどうかすら分からないほど、のんびりとした足取りで近づいてくる。
「クリス様へお伝えしてまいりますので、少々お待ちください」
「…………よりによって、クリス様ですか………」
リールの頬が引きつった。
そして、その名前を聞いた瞬間、システィーヌの表情にもわずかな緊張が走った。
クリス。
いや――王国にいた頃の名は、ウラトス。
グレサスの弟。
システィーヌ自身に直接の面識はない。けれど、その噂なら嫌というほど聞かされている。
若くして王国の座位騎士にまで上り詰めた男。兄であるグレサスを超えることを望み、強さを求め続けていた男。
そしてある日、アルバードへ向かったと思えば――そのまま王国へ帰ってこなくなった。
今ではウラトスという名すら捨て、クリスと名乗り、完全にアルバードの一員として生きている。
王国から見れば、裏切り者。
その存在には、父であるカイネルも散々頭を悩ませてきた。
なぜ王国を離れたのか。
なぜアルバードを選んだのか。
もっとも、その兄であるグレサスだけは、弟が王国を離れたと聞いても鼻で笑っていたという。
――まだ、あの喧嘩を引きずっているのか?
その程度。
まるで少し長い家出でもしているかのようにしか考えていなかった。
だが、時間が経つにつれて誰の目にも明らかになった。
クリスのそれは、ちょっとした家出などではない。
アルバードのために働き、アルバードのために力を振るい、そしてアルバードで生きることを自ら選んでいる。
そもそものきっかけは、グレサスを超えたいという純粋な思いと、そのグレサスに勝利したヴィルへの憧れだった。
きっかけだけを見れば、あまりにも単純なものだったのかもしれない。
だが、アルバードを知り、そこで暮らす人々を知ったクリスは、本当にこの場所で生きる道を選んだ。
きっかけは些細でも、その結果はあまりにも大きかった。
だからこそ、システィーヌはクリスを快く思っていない。
王国の騎士でありながら王国を捨てた男。
父を悩ませ続けてきた裏切り者。
それでもシスティーヌの中には、どこか彼を軽く見る気持ちもあった。
(こちらには、お兄様であるグレサスがいますもの。ウラトスがなんだというのですか)
その程度の認識だった。
だが――エルンストは違う。
彼は知っている。
クリスという男が、どれほど危険な存在なのかを。
デュランとグレサスを除く座位騎士たちが束になって挑んでも、まるで歯が立たなかった。
それも、ただ敗北しただけではない。
あの男が本気で殺すつもりだったなら、自分たちは誰一人生きていなかったかもしれない。それほどの差を見せつけられながら、それでも全員が生かされたまま敗北した。
圧倒的。
だからこそ、エルンストには分かる。
クリスを侮ることなど、できるはずがない。
少なくとも、その実力を単純に「グレサスより下」と断定できるほど、生易しい相手ではなかった。
そしてリールが心配しているのは、そんなクリスではない。
「システィーヌ様……クリス様の前では、どうか大人しくしてくださいね」
「ふん。裏切り者の顔を一度くらい見ておく。それだけでも、ここへ来た価値はあるかもしれませんわね?」
堂々と言い切るシスティーヌ。
リールは頭を抱えたくなった。
エルンストもまた、静かに緊張している。
(また……ウラトスと対面することになるのか……)
三者三様の思いを抱えながら待っていると、やがて屋敷の方から人影が現れた。
クリスだった。
そして、その隣には――ディアナもいる。
「…………ディアナ?」
システィーヌは小さく目を見開いた。
ディアナのことなら、よく知っている。
学院にいた頃から非常に有名な先輩であり、その後は王国の座位騎士として数々の功績を残した人物。
王国の宝。
そう呼ばれることすらあった女性だ。
そして現在は、王国とアルバードの関係の中で人質という立場になり、仕方なくこの地に留まっている――。
少なくとも、システィーヌが知っているのはそこまでだった。
だから彼女は知らない。
その後、ディアナが何を見て、何を感じ、何を選んだのか。
何より――。
今、隣を歩いているクリスとの間に、何があったのかを。
クリスは門の前までやってくると、まずリールを見た。
「リール様。またお越しいただけるとは。レイズ様もさぞ喜ばれるでしょう」
「え、ええ……ありがとうございます」
そして、その視線がシスティーヌへ向く。
クリスは少し首を傾げた。
「んー…………偉い方でしょうか?」
「…………」
続いてエルンストを見る。
「ああ。また来たのです?」
「…………」
あまりにも軽い。
システィーヌの眉がぴくりと動いた。
そんなクリスの脇腹を、ディアナが小さくつついた。
「クリスさん……王女、です」
そしてディアナ自身は、システィーヌへ深く頭を下げる。
「お久しぶりでございます。システィーヌ王女」
だが、もう遅かった。
「あなたね!!」
システィーヌの声が門前に響いた。
「グレサスの弟であるなら、私が誰なのか分かっていて当然ではなくて!?」
「王女ですか?」
クリスはまったく怯まない。
「それで? 何をしに?」
「…………っ!」
システィーヌの肩が、わなわなと震え始める。
「システィーヌ様……!」
エルンストが慌てて止めに入った。
「ここは王国ではありませんので……どうか、お気を鎮めてください」
「あなた!! エルンスト!? 貴方も先ほどから……!!」
なぜ自分を止めるのか。
そう言わんばかりにエルンストを睨みつけたシスティーヌだったが、すぐに今度はディアナへ視線を向けた。
「それに……ディアナ! 貴方はいつになったら王国へ戻ってくるのかしら!?」
「それは――」
ディアナが答えるより早かった。
「ディアナは私と永遠にアルバードにいますが?」
「…………は?」
クリスは当然のことのように言う。
「それと、何か勘違いをしているようですね。私が王国の格式などにとらわれると思っているのでしたら、それこそ――」
ドスッ。
ディアナの肘がクリスの脇腹へ入った。
「ゴフッ……」
クリスの言葉が止まる。
「…………」
システィーヌが目を瞬かせた。
「…………」
エルンストも目を見開いている。
あのクリスが。
あのウラトスが。
ディアナの肘一つで黙った。
なぜかシスティーヌは少しだけ誇らしげな顔になった。
一方のリールは、もうこのやり取り自体を終わらせたそうな顔をしていた。
「あの……そろそろレイズ様に会わせていただけませんか?」
そう。
まだここは門の外なのである。
アルバードへ到着し、屋敷まで来たというのに、いつまで門の前で王国とアルバードの話を続けなければならないのか。
だが、システィーヌの怒りはまだ収まっていない。
「いいこと!? 私にこれ以上舐めた態度を取れば、ただでは済みませんわよ! 私が許したとしても……エルンストとディアナが、貴方の無礼を許しませんわ!」
その言葉を聞いたエルンストは、すぐさまクリスへ頭を下げた。
「クリス様……申し訳ございません。こちらから突然訪ねておきながら、このような騒ぎになってしまい……」
「…………え?」
システィーヌの表情が止まる。
そしてディアナも、クリスの前へ一歩出た。
「クリスさん……ひとまず、ここは私に任せてください。レイズ様に、システィーヌ王女とエルンストさんがお会いに来られたことを伝えていただけませんか?」
クリスは明らかに、
――なぜ私が?
という顔をした。
それを見たディアナは、少しだけ頬を赤らめる。
「それと……私とクリスさんが、これからもずっとアルバードにいることも……ついでにレイズ様へ伝えてくだされば……」
その瞬間。
クリスの目が輝いた。
「それはもちろんです!」
先ほどまでの面倒そうな表情はどこへやら。
「では、レイズ様へお伝えしてまいります。ディアナに案内してもらうといいでしょう」
そう言い残すと、クリスはさっさと屋敷の中へ向かっていった。
「…………」
リールは、その背中を見送ったあと、ゆっくりとディアナを見る。
「えっと……ディアナ様は一体、何者になられたので……?」
エルンストも状況を呑み込むのに苦労していた。
以前会ったときには、クリスと揉め、泣かされていたはずのディアナ。それが今では――。
(なぜ……ウラトスを制御している……?)
いったいこの二人の間に何があったというのか。
だが、そんな二人の困惑をよそに、システィーヌだけはどこか誇らしげだった。
「さすがディアナね。貴方の手にかかれば、グレサスの弟ですら手懐けてしまうなんて……本当に、貴女は王国の宝よ」
「え、ええ……大変恐縮でございます。システィーヌ王女」
ディアナは少し困ったように笑う。
「それではシスティーヌ王女、エルンストさん、リール様。私の後についてきてください」
「ええ。お願いするわ」
ようやく屋敷へ入れる。
リールが心の底から安堵しかけた――そのときだった。
「あ、それと……」
ディアナが足を止める。
そして少し恥ずかしそうに頬を染めながら、三人を振り返った。
「先ほどのことなのですが……私とクリスさんは、お付き合いしているというより……その……」
一瞬、言葉に詰まる。
「婚約、しておりますので……」
「…………」
「…………」
「…………」
三人の動きが止まった。
最初に声を上げたのはリールだった。
「ええっ!? ついにですか!?」
システィーヌは、完全に理解が追いついていない。
「こ…………婚約?」
エルンストも何度か瞬きをしたあと、ようやく納得したように呟く。
「…………そういうことだったのですか」
ディアナはさらに顔を赤くしながら、それでもはっきりと言葉を続けた。
「ですので……私は王国には戻りません」
「…………」
今度はシスティーヌが黙った。
王国の宝。
学院にいた頃から憧れる者も多く、座位騎士として王国のために戦った女性。
システィーヌの知るディアナは、アルバードに人質として残されたはずだった。
仕方なく。
王国のために。
そう思っていた。
けれど――目の前にいるディアナの表情は、どう見てもそんなものではない。
無理やりここに残されている人間の顔ではなかった。
ディアナは、そんなシスティーヌの視線に気づいたのかもしれない。
少しだけ柔らかく微笑む。
そして、アルバードの屋敷へと歩き出しながら言った。
「とても、いいところですよ?」
システィーヌは何も答えられなかった。
リールも。
エルンストも。
それぞれまったく違う理由で、しばらく言葉が出てこなかった。
そうして三人は、ディアナの後を追う。
ようやく――。
本当にようやく。
アルバードの屋敷、その門を潜るのだった。




