凡天
時は、少しだけ進み――。
あれだけ大勢が集まり、ガイルのことやヴィルとセバスのこと、それどころか途中からクリスとディアナの婚約についてまでギャーギャーと騒いでいた屋敷も、ようやく少しずつ静けさを取り戻し始めていた。
そして今、レイズの部屋にいるのはレイズとイザベルの二人だけだった。
イザベルには、今日こそレイズに話そうと決めていたことがある。クリスとディアナが婚約した。あまりにも突然で、あまりにも急で、正直なところ今でも「どうしてそうなったの?」と思わなくもないのだが、それでも二人は互いの気持ちを伝え、一気に関係を進めたのだ。
それを目の前で見てしまったからこそ、イザベルも思った。
(…………私も、そろそろちゃんとしないと)
ずっとレイズのことが好きだった。いつか伝えたいと思っていたけれど、いつか、いつかと言っているだけでは何も変わらない。だから今日こそは――そんな覚悟を決めて、こうしてレイズと二人きりになったのだが。
「…………ふふ」
「…………」
「ふふふ…………」
「…………ねぇ、レイズくん?」
「ん?」
肝心のレイズはベッドの上でごろんと横になり、何やら一人で考え事をしながら笑っていた。これから大切な話をしようと覚悟しているイザベルからすれば、その様子はなんとも言えない。
「なんで一人で笑ってるのよ。少し気味が悪いよ……?」
「…………いやいやいや!! その前になんで当たり前のようにイザベルがここにいるんだよ!? ここ俺の部屋だよな!? さっきまでリアナとリアノまで普通にいたし!! 俺だって一人で考え事くらいするんだよ! 俺のプライバシーどこにあるの!?」
「わ、分かった、分かったわよ……! それは謝るから……」
どうやら勝手にレイズの部屋へ入っていることについては、イザベルにも多少の自覚があったらしい。少し申し訳なさそうに視線を逸らしたものの、レイズはそれ以上何も言わず、またベッドへ身体を預けてしまう。
「ね……? レイズくん」
「…………」
「はぁ……」
これから大切な話をしようとしているというのに、どうしてこの少年はこうなのだろう。イザベルは小さくため息を吐き、それでも気になっていたことを尋ねた。
「それで……どうして笑ってたの?」
「ん? ああ、明日になったらダークエルフのところに行ってくるんだよ。世界樹の種、届けないといけないからさ。たぶん、また一日か二日は帰ってこられなくなると思う」
「…………え?」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルの胸が一気に沈んだ。ようやく帰ってきたと思ったのに、またすぐにいなくなってしまう。しかも、この先には学院への入学まで待っている。
「…………ふぅーん。そうなんだ。……また、すぐどっか行っちゃうんだね?」
自分でも分かるくらい声が沈んでいた。レイズもさすがにその変化には気づいたらしく、少しだけ身体を起こす。
「あぁ……いや、そういう意味じゃなくてさ。俺のおばあちゃん……すごい喜んでくれるかなって」
「…………おばあちゃん?」
「うん。世界樹の種、ちゃんと持って帰ってきたからさ。それ見せたらどんな顔するかなって想像してたんだよ。喜んでくれるかなって思ったら……なんか俺まで嬉しくなっちゃってさ」
「あぁ……おばあちゃんかぁ。そっかそっか……おばあちゃんね」
レイズの言うおばあちゃん。それはレイのことだった。
イザベル自身、その関係のすべてを理解しているわけではない。それでも、レイズがただ遠くへ行きたいから楽しそうにしていたのではなく、大切な人を喜ばせたいと思って一人で笑っていたことくらいは分かった。
そう思うと、ほんの少し前まで「また私を置いていなくなっちゃうんだ」と拗ねていた自分が、なんだか急に恥ずかしくなってくる。
(…………私、何を嫉妬してるんだろ)
そんなイザベルの様子を見て、レイズはふと何かを思いついたように身体を起こした。
「あ、イザベルもついてくる?」
「…………えっ!? いいの!?」
さっきまで沈んでいた表情が嘘のように明るくなり、イザベルの瞳が一気に輝く。だがレイズは、そんな彼女の喜びをわずか数秒で叩き落とした。
「あ……でもイザベル、リアナとリアノに勉強教えないといけないのか。じゃあ、駄目だな……」
「…………そうね」
一瞬で目から輝きが消えた。
「ん? なんで急にそんな落ち込んでんの?」
「誰のせいよ……」
「え?」
「なんでもない!!」
レイズは意味が分からないとでも言いたげに首を傾げたが、次の瞬間には別のことを思い出したらしい。
「…………あれ? そういえば……リアナとリアノは学院に向けて勉強してるんだよな?」
「そうだけど?」
「…………俺、勉強しなくていいのか? なんか一気に不安になってきたんだけど!?」
「今さら!?」
イザベルは思わず額へ手を当てた。明日には世界樹の種を届けに行こうとしている少年が、今になって自分の勉強の心配を始めている。
本当に、こういうところなのだ。
けれど、その言葉を聞いたことでイザベルも改めて思い出した。レイズも学院へ行くのだ。自分が今日ここへ来た理由も、それだった。
「…………ねぇ、レイズくん」
「ん?」
「レイズくん……学院に行っちゃうんでしょ? 私、その間ずっと会えないんだよね……?」
それは、ずっと気になっていたことだった。学院へ入れば簡単には戻ってこられない。休みだってそう多くはないだろうし、今までのように当たり前に同じ屋敷で過ごし、こうしてレイズの部屋へ入ってくだらない話をすることもできなくなる。
けれどレイズは、そんなイザベルの心配などまるで理解できないというように、不思議そうな顔をした。
「ん? 会うよ?」
「…………え?」
「だから、普通に会うって」
「いやいや、学院ってほとんど休みなんてないのよ? そんな簡単に帰ってこられるわけ――」
「ふふふ……」
まただ。
さっきと同じようにレイズが笑った。けれど今度は、大切な人を思って自然にこぼれた笑みではない。明らかに何かを企んでいる顔だった。
「それには秘策があるんだよ」
「…………秘策?」
「ああ。確か学院には研究の項目があったよな?」
「ええ。学年や分野にもよるけど、研究がほとんどメインになってくることもあるわね」
「なら決まりだ。俺の研究は――世界樹の恩恵についてだな」
「…………世界樹?」
レイズは身体を起こし、楽しそうに説明を始めた。
「世界樹の周囲には、普通じゃ見られない植物だったり、不思議な水だったり、いろんなものが現れるんだ。それがどういう仕組みなのか、人間はたぶん正確には解明できてない。それに世界樹って、そもそも不可侵の聖域を作るからさ。強いとか弱いとか以前に、普通の人間じゃ近づくことすらできないんだよ。ある意味、エルフたちにとっては無敵の領域みたいなものなんだ」
「へぇー……それはすごいけど、それで学院とどう繋がるのよ?」
「分からない?」
「分からないわよ」
「ダークエルフたちが暮らす場所に世界樹が現れる。俺は世界樹について研究する。だったら当然、現地調査が必要になるよな?」
「…………まあ、そうなるわね」
「王国からダークエルフたちのところへ向かう。そして、その道中には――」
レイズの笑みが、さらに深くなった。
「必ず通るよな? アルバードにさ」
「…………」
イザベルはしばらく黙ったままレイズを見つめ、ようやく彼が何を企んでいるのか理解した。
「ちょ、ちょっと待って!? つまりレイズくん、研究を名目にして学院からアルバードに帰ってくるつもりなの!?」
「そういうこと」
「そんなのあり!?」
「研究だからな。それに一回で全部発表する必要なんてないだろ? 少しずつ小出しにして、みんなが続きが気になるように調整するつもりだ」
「…………レイズくん」
「王国にはセフィロトって呼ばれる木があるんだけどさ。世界樹には、それよりもっとすごいものがある。っていうより……そもそも世界樹自体がセフィロトよりずっとすごいんだけど」
「いや、ちょっと待って。それ、研究っていうよりアルバードへ帰ってくるために研究を利用してない?」
「ちゃんと研究もするよ?」
「否定しなさいよ!!」
思わずイザベルの声が部屋へ響いた。
けれど、その顔は先ほどまでとは違っていた。少しだけ笑っている。
レイズは学院へ行ってしまう。それでも、帰ってくるつもりなのだ。最初から、自分たちのいるアルバードへ戻る方法まで考えていた。
それだけで、さっきまで胸の中にあった寂しさが少しずつ薄れていく。
「でも……そんなものを研究して発表したら、世界樹が狙われるんじゃないの? セフィロトよりすごいなんて知られたら、欲しがる人だって出てくるでしょう?」
「大丈夫だよ?」
「どうして?」
「イザベル。たとえグレサスやガイルが本気で世界樹を攻めようと思ったとしても――無理だから」
「…………え?」
その二人の名前を聞いただけで、イザベルの表情が変わる。どちらも、人間という枠だけで考えることすら馬鹿らしくなるほどの存在だ。
「その二人でも……?」
「ああ」
「じゃあレイズくんだって……あ、もしかして死属性がそこでも……?」
「いや。死属性っていうか……俺、ダークエルフの血が混じってるし」
「…………え?」
「そもそもフェリルやおばあちゃんが俺を拒むとも思えないし。普通に入れてもらえると思うよ?」
イザベルはしばらく何も言わなかった。
グレサスでも無理。
ガイルでも無理。
強さなど関係なく、世界樹の不可侵の聖域には入れない。
なのに目の前の少年は――。
「ちょ、ちょっとちょっと!! それずるすぎない!?」
「なんでだよ!?」
「だって今、グレサスやガイルでも無理って言ったじゃない!! なのにレイズくんは普通に入れるの!?」
「だって俺、ダークエルフの血が混じってるし。フェリルもおばあちゃんもいるんだから、普通に入れてくれると思うけど?」
「だからそれがずるいって言ってるのよ!!」
「しょうがないだろ! おばあちゃんいるんだから!」
「そんな理由で世界樹の不可侵領域を突破しないでよ!!」
「突破じゃないよ!! 普通に入れてもらうんだよ!!」
「余計ずるいわよ!!」
しばらく二人の声が部屋の中に響いたあと、イザベルはふと笑った。
「…………ふふ」
「なんだよ?」
「ううん。なんでもない」
「ちゃんと考えてるって。俺、学院をとっとと卒業したいしさ」
「…………うん」
イザベルは、静かにレイズを見つめた。
さっきまでのレイズも見ていた。ベッドの上をごろごろしながら一人で笑い、自分の部屋なのに人が勝手に入ってくると騒ぎ、突然になって自分の勉強が不安になっている。そんな姿だけを見れば、どこにでもいる普通の十四歳の少年と大して変わらない。
けれど、その頭の中ではもう学院へ入った後のことまで考えている。
研究する内容。世界樹。ダークエルフ。アルバードへ帰るための道。そして、そのさらに先まで。
やっぱり、この人はいつもそうなのだ。
目の前のことで騒いでいるように見えて、時には馬鹿みたいなことをして、自分よりずっと子供っぽく見える瞬間だってあるのに、気づけば誰よりも先のことを考えている。
(…………そっか)
イザベルは、ようやく分かったような気がした。
だからなのだ。
きっと、みんなこの少年に惹かれてしまう。
強いからだけではない。頭がいいからだけでもない。レイズと一緒にいると、不思議とその先にも何かがあるような気がする。
明日がある。
次がある。
離れても、また会える。
そんな未来を、レイズは当たり前のように考えている。
そして――。
(…………私も、そうなんだ)
さっきまで胸の中にあった焦りが、いつの間にか消えていた。
クリスとディアナが婚約した。だから自分も急がなければいけないと思った。今すぐ気持ちを伝えなければ、今すぐ関係を変えなければ、学院へ行ってしまえばもう会えなくなるかもしれない。
でも、違った。
レイズは帰ってくる。
この場所へ。
自分たちのいる、アルバードへ。
だったら――。
「それで?」
「…………え?」
突然レイズに声をかけられ、イザベルは我に返った。
「イザベル、なんか大事な話でもあったんじゃないの?」
「…………」
心臓が小さく跳ねた。
本当なら、今ここで言うつもりだった。
ずっと好きだったこと。
これからも隣にいたいこと。
できることなら、いつか――。
けれどイザベルは少しだけ考えたあと、柔らかく笑った。
「…………さぁ? 急ぐ必要もないのかなって思っちゃったから、別にいいかな」
「はぁ!? なんだよそれ!!」
レイズが勢いよく身体を起こす。
「気になるじゃねえかよ!!」
「ふふ。秘密」
「いや、そこまで言ったなら言えよ!」
「嫌よ」
「なんでだよ!?」
「急がなくてもいいって思ったから」
「意味分かんねぇよ!!」
レイズの声に、イザベルは楽しそうに笑った。
さっきまでなら、その鈍さに腹を立てていたかもしれない。けれど今は、不思議と嫌ではなかった。
学院へ行っても、世界樹へ行っても、もっと遠くへ行くことになったとしても、この少年はきっとまた帰ってくる。
だから今すぐじゃなくてもいい。
クリスとディアナには、クリスとディアナの進み方がある。
自分たちには、自分たちの進み方がある。
いつかちゃんと、自分の言葉で伝えればいい。
「ねぇ、レイズくん」
「なんだよ」
「学院に行っても……ちゃんと帰ってきてね?」
「ん?」
レイズは、どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろうという顔をした。
そして、何の迷いもなく答える。
「帰ってくるよ。だって、ここ俺の家だし」
「…………うん」
それだけで、今のイザベルには十分だった。
今日こそ関係を進めよう。
そう腹をくくって始まったはずの二人きりの時間。
けれど結局、イザベルは何も伝えなかった。
それでも不思議と、来た時よりずっと心は軽かった。
急ぐ必要なんてない。
離れることが、終わりになるわけでもない。
レイズはまた帰ってくるのだから。
そうして――。
関係を進めるはずだったイザベルと、そのことに最後までまったく気づかなかったレイズの、少しだけ甘くて、いつも通り少しだけ騒がしい時間は終わるのだった。




