再開される楽しい談話
カタカタカタカタ――。
一体、何度目だろうか。
馬車の車輪が地面を叩くこの音が、再び静かになった車内へ一定の間隔で響いている。
そして今、この空間にいるのは――いつの間にかアルバードの英雄として扱われるようになってしまった商人、リール。そして王国の王女、システィーヌ。
どうやら、この二人の会話はまだ終わっていなかったらしい。
「はぁ…………えっと…………」
先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、今度はシスティーヌの方が言葉に詰まっていた。
無理もない。
アルバードへ到着してからというもの、彼女が目にしたものは、自分がこれまで当たり前だと思っていた常識から、ことごとく外れていた。
人間と魔族が当たり前のように同じ町を歩き、笑い合っている。
王国の座位騎士であるエルンストでさえ、魔族と顔を合わせれば何事もなかったかのように挨拶を交わす。
そして何より理解できないのが、この地を治めているというレイズ・アルバードと領民たちとの距離だった。
尊敬されている。
敬われてもいる。
それなのに領民たちは気軽に話しかけ、触れ、それどころか隙を見つければ捕まえて、ワッショイワッショイと胴上げまでしてしまうらしい。
挙げ句の果てには、昼間から酒を飲んでいる男が現れ、
『俺とレイズは本当にダチなんだからなぁぁぁ!!』
そう叫びながら妻に連行されていった。
…………意味が分からない。
そんなシスティーヌの様子を見て、リールは先ほどよりも少しだけ余裕のある表情を浮かべた。
「どうですか?」
「…………何がですの?」
「これが、レイズ様という方なのです」
「…………」
システィーヌは数秒ほどリールを見つめた。
そして――。
「何を言っているの、貴方……。余計に意味が分からなくなりましたわよ」
「はぁ……そうですか?」
リールは本当に不思議そうに首を傾げる。
その反応が、またシスティーヌを苛立たせる。
「レイズ様という方は、強さだけではありません。むしろ、あの方の異常なところは、それ以外にもあります」
「異常?」
「はい。たとえば――親しみやすさです」
「…………親しみやすさ?」
システィーヌの眉がぴくりと動いた。
領主を評価する言葉として、それを真っ先に出す人間を彼女はほとんど知らない。
だがリールは至って真面目だった。
「アルバードの人々は、不安になった時、レイズ様の姿を見るだけで安心します。困ったことがあれば、まずアルバードへ伝える。そうすれば、その話はいずれレイズ様の耳へ入ります。そしてレイズ様の耳へ届けば――大抵のことは、いつの間にか解決しているのです」
「…………大抵のこと?」
「ええ。小さな揉め事から、この地全体に関わる問題まで。もちろん、すべてをレイズ様お一人で行っているという意味ではありません。ですが不思議なことに、レイズ様が関わると、人が動き始めるのです。必要な者が集まり、それぞれが自分にできることを始め、気づけば問題そのものが片付いている」
「そんなことを簡単にできる人間がいてたまりますか。それに――」
システィーヌは小さく鼻を鳴らした。
「たかが田舎の悩みでしょう? 王都で起きる問題と比べるまでもありませんわ」
その瞬間、リールが人差し指を立て、左右へ軽く振った。
「それは違いますね、システィーヌ様。いいですか?」
ドコッ!!
突然、馬車の前方から鈍い音が響いた。
「…………」
「…………」
おそらく。
いや、間違いなく。
エルンストである。
リールの上げていた指が、ゆっくりと下がる。
そして姿勢まで妙に正しながら、
「…………よろしいでございましょうか、システィーヌ様」
「その変な敬語やめなさいよ」
「だっておかしいじゃないですか!? エルンスト様!? 私に何か恨みでもあるんですか!?」
返事はない。
ただ馬車は何事もなかったかのように進み続けている。
「…………」
「…………」
「エルンスト」
とうとうシスティーヌまで口を挟んだ。
「何かあるのでしたら、言ってあげなさい」
すると外から、短い返事が返ってきた。
「調子に乗るな、貴様!」
「言った!?」
リールの目に、うっすら涙が浮かぶ。
「なんで……」
さすがのシスティーヌも、少しだけ哀れに思ったのだろう。
額へ手を当てながら、ため息を吐いた。
「エルンスト……。お父様がどうして貴方を私たちと共に付けたのか、分かっていますの?」
「陛下の勅命でございますので」
「そういう意味ではありませんわ……」
頭が痛い。
リールもリールだが、エルンストもエルンストである。
だが――。
ある意味、これこそシスティーヌが知っている世界でもあった。
王家が命じれば騎士は従う。
上に立つ者が言葉を発すれば、その下にいる者はそれに従う。
もちろん、それだけが王という存在ではない。父カイネルがただ命令だけで国を動かしているわけではないことくらい、娘であるシスティーヌは誰よりも知っている。
それでも、そこには明確な線がある。
王は王。
騎士は騎士。
貴族は貴族。
民は民。
立場というものがあり、格式というものがあり、それを守ることで秩序は成り立っている。
だからこそ、システィーヌにはアルバードが理解できなかった。
「でも……本来はそういうものでしょう?」
「はい?」
「上に立つ者が一言命じれば、人々はそれに従う。そこには身分も格式もあります。それなのに、ここではあまりにも皆さん自由すぎませんこと?」
システィーヌは窓の外へ視線を向けた。
先ほどまで見ていた町の光景を思い出す。
「領主を捕まえて胴上げする。酒場で気軽に話す。挙げ句の果てには『ダチ』などと呼ぶ者までいる……。レイズという方、相当舐められていますわよ?」
だがリールは、すぐに首を横へ振った。
「先ほども申し上げました。舐められているのではありません」
そして、少しだけ笑う。
「愛されているのですよ」
「…………」
システィーヌの眉が跳ね上がった。
「それはまるで、お父様が王国民から愛されていないような言い方ですわね? 貴方!!」
「そ、そんなことはございません!! 陛下も…………愛されてはいますよ」
「今、妙な間がありましたわよ!?」
「違います! そういう意味ではなくてですね!」
リールは慌てて両手を振った。
「私も上手く説明できないのです。レイズ様は……そうですね。すごい方なのに、すごくないのです」
「…………は?」
「誰よりも近くにいるように思えるのに、とても遠い。とんでもないことを平然とやってしまうのに、ご本人はまるで大したことをしたと思っていない。そして皆から尊敬されているのに、誰もレイズ様を遠ざけようとはしない。むしろ近づいていくんです」
「だから意味が分かりませんわ!」
「ですよねぇ……」
「何故そこで貴方が困るの!?」
「言葉にすると、本当に難しいんですよ!」
リールは少し考えたあと、困ったように笑った。
「ですが、そればかりは……会えば、本当に分かりますから」
「またそれですの!?」
とうとうシスティーヌの声が大きくなった。
「先ほどから『会えば分かる』『見れば分かる』と、そればかり! だったら今の私が、貴方から聞いた話と、この町で見たものだけでレイズという人物を正確に評価して差し上げますわ!」
「おお……」
システィーヌは腕を組み、堂々と言い放った。
「愛される馬鹿が当主になった――その程度ですわよ!」
「ええ。実に的を射ているかと」
「…………」
「…………」
「貴方。今のは嫌味ですのよ?」
「え?」
「『え?』じゃありませんわ! もしかして貴方まで、この土地に来て馬鹿がうつったのではなくて!?」
「いえいえ、本当にそのままの意味ですよ」
リールは笑いながら、付け加える。
「強いて補足するのでしたら――」
少しだけ間を置いて。
「愛される馬鹿な天才ですから」
「その補足でだいぶ話が変わるんですが!?」
馬車の中に、システィーヌの声が響いた。
「まったく……つくづく私の常識をめちゃくちゃにしてくれますわね……」
システィーヌは苛立ったように腕を組み直し、窓の外へ顔を向ける。
こんな相手を父が認めている。
それどころか、何度も何度もその名を口にする。
兄リオネルではなく。
王国の名だたる貴族でもなく。
レイズ・アルバード。
そんな人物を父が高く評価しているなど、今のシスティーヌには到底認められなかった。
格式を知らなすぎる。
身分というものを知らなすぎる。
領民との距離が近すぎる。
そして何より――あまりにも危機意識が薄すぎる。
領主でありながら気軽に町を歩き、領民に囲まれ、触れられ、胴上げまでされる。
そんなもの、システィーヌからすれば危険以外の何物でもない。
だからこそ、彼女はまだ理解しない。
受け入れもしない。
だが――。
レイズは危機意識が薄いわけではない。
むしろ誰よりも先に危険の芽を見つけ、それが大きくなる前に動こうとしてきた。
それでも危険が訪れたなら、自らその中心へ向かい、気づけばそれすらも乗り越えてしまう。
そして彼一人で解決できないのなら――。
彼のために動く者たちがいる。
だからこの地に暮らす人々は、いつの間にか知ってしまったのだ。
何かが起きても。
困ったことがあっても。
最後には、きっと大丈夫なのだと。
その安心感こそが、システィーヌにはまだ理解できないアルバードの日常だった。
そんな彼女の横顔を見ながら、リールは小さく笑った。
「危機意識……ですか」
「何ですの?」
「いえ」
リールは少しだけ考え、やがて懐かしむような表情を浮かべる。
彼自身、何度も見てきたからだ。
誰も気づいていないところで考え。
誰も動いていないうちから動き。
そして気づいた時には、とんでもないものを背負い込んでいる少年を。
「どうでしょうね」
カタカタカタカタ――。
再び車輪の音が響く。
そしてリールは、静かに言った。
「私が知る限り――レイズ様ほど、危険を回避するのが上手な方はいないと思いますがね……」
「…………?」
システィーヌには、まだその言葉の意味が分からない。
ただ一つだけ確かなのは。
レイズ・アルバードという少年について聞けば聞くほど――。
彼女の中の疑問は、解消されるどころか増えていくばかりだった。




