知らない魔法。
ヴィルはコーヒーカップを手に、窓の外を眺めていた。
視線の先にあるのは大書斎。
その表情はどこか穏やかで、優しい。
「大丈夫だ、レイズ」
小さく呟く。
「お前なら、きっと乗り越えられる」
祖父として。執事長として。
ヴィルはそう信じていた。
そして何故か少しほっこりしていた。
――だが。
その期待とは裏腹に。
当のレイズは大書斎の中で盛大にパニックを起こしていた。
「あ、あの……そうですね!」
声が裏返る。
「ちょっと運動してて!」
さらに裏返る。
「少し痩せた? かもですね!」
そして最後に。
「うん! 是非もない!!」
意味不明だった。
自分でも何を言っているのか分からない。
レイズは顔を真っ赤に染める。
(何言ってんだ俺ぇぇぇぇぇ!!)
心の中で頭を抱えた。そんなレイズを見て。
イザベルは優しく微笑む。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
柔らかな声。
どこか懐かしむような響き。
「昔みたいに『イザベル』って呼んでくれたらいいのよ」
その一言で。
張り詰めていた空気がふっと和らいだ。
そして同時に。
レイズはある事実に気付く。
(……そうか)
胸の奥が少しだけざわつく。
(この子とレイズは、もともと仲が良かったんだ)
知り合いどころではない。
もっと近い。
もっと自然な関係だったのだろう。
だからイザベルは戸惑わない。
だからイザベルは変わらず接してくれる。
それが少しだけ嬉しかった。
イザベルは机の上の本を閉じる。
そして首を傾げた。
「それでね」
「ん?」
「どうして私に魔法を教わりたいの?」
レイズの肩がぴくりと動く。
イザベルは続ける。
「レイズ君なら、もう魔法を使えていたじゃない?」
その言葉に。
レイズは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
――やはり。
かつてのレイズは魔法を使えていた。
それも恐らく、かなり高いレベルで使えていた…。
だが。
今の自分は違う。
深く息を吸う。
そして静かに口を開いた。
「そうだね」
少しだけ視線を落とす。
「かつての僕は魔法を使えていたんだと思う」
曖昧な言い方。
だが嘘ではない。
「でも……色々あって」
言葉を選ぶ。
「忘れることにしたんだ」
その瞬間。脳裏によみがえる。
リアノへ語った言葉。
――色々あって思い出さないようにしている。
そして。あの恐怖の部屋。
得体の知れない空気。
絶対に思い出したくない記憶。
(いや本当に何だったんだあれ……)
思い出しただけで少し怖い。
イザベルはそんなレイズを静かに見つめていた。
そして。
どこか納得したように微笑む。
「フロストバインド……」
聞き慣れない単語。
レイズは首を傾げる。
だがイザベルは続けた。
「レイズ君は、自分で記憶を縛り付けたんだね」
その声は責めるものではなかった。
むしろ――
悲しそうだった。
「そっか……」
小さく呟く。
「だから、だったんだ」
長年抱えていた疑問が解けた。
そんな表情だった。
そして真っ直ぐレイズを見る。
逃げることなく。逸らすことなく。
真剣な眼差しで告げた。
「私ね」
その声は優しい。どこまでも優しい。
「今も昔も……レイズ君が大切」
レイズの胸が僅かに揺れる。
「だから――」
イザベルは微笑んだ。少しだけ寂しそうに。
「もう二度と、あんな悲しい魔法は使わないでね」
レイズは固まった。数秒後。
心の中で盛大に叫ぶ。
(だから何なんだよそのフロストバインドってぇぇぇぇぇ!!)
知らない。本当に知らない。初耳である。
だが。
そんな心の叫びとは裏腹に。
レイズは何も言えなかった。
目の前の少女は。
自分の知らない『レイズ』を知っている。
その過去を知っている。
そして今もなお、その記憶に胸を痛めている。
その姿を見ると。
理由は分からないのに。
胸の奥が少しだけ苦しくなった。
――フロストバインド。
イザベルが口にした魔法の名。
それは氷属性に由来する特殊な魔法だった。
膨大な書物を読み。
数多の魔法知識を学んできたイザベルだからこそ知っている術。
そして彼女は勝手に結論へ辿り着いていた。
レイズは自らの記憶を凍結したのだと。
思い出したくない何かを封じるために。
悲しい過去から自分を守るために。
だから今のレイズは覚えていないのだと。
だが――
それは完全なる誤解だった。
本人だけが、その事実を知らないのである。




