レイズの友人
その頃――システィーヌたちを乗せた馬車は、ついにアルバードの領地へと足を踏み入れていた。
カタカタと規則正しい音を立てながら町の中を進んでいく馬車。その御者台で手綱を握っているのはエルンストだった。本来であれば王国騎士の鎧を身に纏い、王国の剣を腰に下げているはずの男であり、しかもただの騎士ではなく王国の座位騎士という立場にある。だが今のエルンストには、そんな王国騎士らしい姿はほとんど残っていなかった。鎧は身につけず、剣も目立たないようにしており、何も知らない者が見れば、ただ馬車を操縦している御者にしか見えないだろう。
もっとも、エルンストがどれほど目立たない格好をしていても、肝心の馬車そのものがあまりにも豪華だった。
「あの馬車……なんだ?」
「誰か来たのか?」
「ずいぶん立派だな……レイズ様に知らせた方がいいんじゃないか?」
馬車が進むにつれて、道行く人々が次々と足を止め、その視線が集まり始める。王族を乗せるために用意された馬車なのだから目立つのは当然なのだが、事情を知らないアルバードの人々からすれば、一体何者がやって来たのかと警戒するのも無理はなかった。
馬車の中からその様子を見ていたリールは、これ以上進めば余計な混乱を招くと判断し、御者台のエルンストへ声をかける。
「エルンスト様。一度、止めていただいてもよろしいでしょうか?」
しかし返事はなく、馬車はそのまま進んでいく。
「…………エルンスト様?」
もう一度呼んでも反応はない。聞こえていないのかと思ったリールがさらに声をかけようとしたところで、向かいに座っていたシスティーヌが口を開いた。
「エルンスト、止めてください」
「ハッ」
馬車はすぐに止まった。
「…………」
リールはしばらく黙ったまま御者台を見つめ、それからゆっくりシスティーヌへ顔を向ける。
「え……私、今、無視されましたよね?」
「当然のことですわ。エルンストは王国の座位騎士。つまり王家の騎士そのものなのですから」
どこか誇らしげに答えるシスティーヌに、リールは何とも言えない顔をした。
「はぁ…………そうですか」
納得はしていない。だが今ここで抗議しても仕方がないので、リールは小さくため息を吐くと、「少し人々が混乱していますので、私が説明してきます」と馬車を降りた。
すると――。
「あっ!! リールさんだ!!」
「え?」
「リールだぁぁぁ!!」
「おお! 本当にリールじゃないか!」
先ほどまで豪華な馬車を警戒するように見ていた人々の空気が、一瞬にして変わった。メモリアルストーンの取引などで何度もアルバードへ足を運んでいるリールは、今では住民たちにもよく知られている。次々と顔見知りが集まってきて、久しぶりの再会を喜んでいたのだが、やがて人々はリールの背後に停まっている豪華な馬車へ目を向けた。
「すげぇな、リールさん! こんな馬車で来るようになったのか!」
「大出世じゃないか!」
「さすがアルバードの英雄だな!」
「えっと…………はい?」
なぜか英雄扱いまでされ、リール自身が一番困惑していた。
「えっと……なぜ私が英雄なんです?」
「何言ってんだよ! レイズ様やクリス様から聞いたぞ。王国との戦いが終わったのは、リールさんの活躍もあったからだって!」
「そうだそうだ! 王国までメモリアルストーンを運んでくれたんだろ?」
言われてみれば、まったく心当たりがないわけではない。レイズに頼まれて大量のメモリアルストーンを王国へ運び、カイネルのもとへ赴いてレイズの言葉を伝えた。確かに身の危険を感じる場面もあったが、それすらレイズによって事前に対策されていたため、リール自身としては商人として頼まれた仕事をしただけという認識だった。
「ハハ……大袈裟ですよ、皆さん」
「何言ってんだ! 英雄だろ!」
「そうだそうだ!」
困ったように笑うリールだったが、住民たちは本気だった。そんな中、一人が「それで今日はどうしてアルバードに来たんだ? 何か面白い商品でも持ってきたのか?」と尋ねてくる。
「いや、今日は商人として来たわけでは――」
リールが説明しようとした、その時だった。背後で馬車の扉が開き、システィーヌが姿を現した。
その瞬間、人々の声が止まる。
馬車から降りてきた女性は美しかった。整った顔立ちと気品ある立ち姿は、アルバードの人々がよく知るイザベルやディアナにも決して劣ってはいない。そして何より、纏っている空気そのものが一般人とは明らかに違っていた。
住民の一人がシスティーヌを見て、それからリールを見た。
「…………リールさん?」
もう一度システィーヌを見る。
「…………リール……様?」
「なんで私まで敬語になるんですか!?」
どうやら豪華な馬車からこれほど美しい女性を連れて現れたことで、リールがとんでもない大物になったと勘違いしたらしい。慌てたリールは誤解を解こうと口を開く。
「いや、違いますよ。この方は――」
その瞬間、肩にぽんと手を置かれた。振り返ればエルンストが立っており、小さな声で告げる。
「素性を明かすな」
「…………っ」
リールの背筋に冷たいものが走った。ここで「王国の王女システィーヌ様です」などと言えるはずがない。アルバードには人間だけが暮らしているわけではないうえ、王族が突然やって来たと知られれば、それだけで町中が大騒ぎになりかねない。
「そ、そうですね。この方は……レイズ様のご友人で、ティーヌさんです」
「…………はい?」
システィーヌの表情が固まった。
「ティーヌ……?」
勝手に名前を縮められ、明らかに納得していない。しかし、すぐにリールが自分の素性を隠した理由を理解したらしく、それ以上は何も言わなかった。
そして周囲へ視線を向けたシスティーヌは、別の意味で言葉を失う。
「…………え?」
少し離れた場所に、人間とは明らかに異なる特徴を持った者がいた。
一人ではない。
よく見れば、何人もいる。
「…………魔族?」
システィーヌの表情が引きつった。
魔族たちは隠れているわけでも、拘束されているわけでもなかった。普通に道を歩き、普通に買い物をし、人間と会話をしている。中には人間と笑いながら楽しそうに話している者までいた。
(魔族……普通にいるの!?)
王族にとって魔族とは、あまりにも長い因縁を持つ存在だ。王家の歴史を学べば必ず魔族との戦いへ辿り着く。それほど深い因縁を持つ相手が、ここでは人間のすぐ隣で何事もないように暮らしている。
意味が分からない。
どういう場所なのか、ますます分からなくなってきたシスティーヌは、無意識にエルンストを探した。彼は王国の座位騎士であり、王家の騎士そのもの。先ほど自分自身がそう誇らしげに語ったばかりなのだから、こんな場所でも頼りになるはずだった。
だが――。
「…………え?」
システィーヌが見つけたエルンストは、ちょうど数人の魔族と目が合ったところだった。
エルンストが軽く会釈する。
魔族も軽く会釈を返す。
それだけだった。
「…………エルンスト?」
システィーヌの声が僅かに震えた。
エルンストはすでにアルバードの事情を知っている。以前から何度か顔を合わせている魔族もいるため、お互い余計なことは言わず、ただ軽く挨拶を交わしただけなのだ。
だが、そんな事情を知らないシスティーヌからすれば、頼みの綱だった王家の騎士まで魔族と普通に挨拶している。
(なんで……?)
「ティーヌさん!」
「ひゃっ……はい!?」
突然住民から声をかけられ、システィーヌの肩が跳ねた。
「ティーヌさんはレイズ様のご友人なんですか!?」
「え……えぇ……そう……ね」
(会ったことすらありませんけれど……)
「おお! レイズ様ってやっぱりすごいな!」
「王国にも友達がいるんだ!」
何人かは「王国にレイズ様の友人……?」と首を傾げていたが、どうやらすぐにどうでもよくなったらしい。今度は「それで今日はどうしてレイズ様のところへ?」と質問が飛んでくる。
(知らないわよ……)
システィーヌ自身、父カイネルから半ば強引に送り出された身である。答えに困っていると、リールがすぐに助け舟を出した。
「ティーヌさんは、レイズ様が暮らしている場所――つまりアルバードについて学びたいとのことで、私がお連れしたんです」
「ってことは、ティーヌさんは王国から来たのか?」
「はい。今では王国とアルバードも、許可さえいただければ自由に行き来できますからね」
住民たちは「そうなのか」と納得したように頷く。しかしシスティーヌだけは、まだ周囲を見回していた。王国の人間が訪れ、魔族が暮らし、人間と魔族が同じ場所で笑っている。自分が教えられてきた常識と、目の前の光景がどうしても噛み合わなかった。
そんな彼女の混乱など知らず、一人の住民が突然思い出したように声を上げる。
「あっ、そうだ! リールさん! この前、レイズ様がまた面白かったんですよ!」
「…………また?」
リールは少し嫌な予感がしたが、その言葉を聞いたシスティーヌの目が鋭く光った。
(面白い……?)
これはレイズという人物を知る好機かもしれない。システィーヌはすっと姿勢を正し、できるだけ丁寧に尋ねる。
「もし、そこの方。その……レイズという方が面白かったというお話、よろしければ私にも聞かせていただけませんこと?」
「おお! ティーヌさんもレイズ様のこと好きなんだねぇ!」
「…………」
違う。
そもそも会ったことすらない。
だが訂正する暇もなく、住民は嬉しそうに話し始めた。
「そうそう。この前さ、レイズ様が一人で歩いてたんだよ。クリス様も近くにいなかったから、みんなで声かけたんだ!」
「…………それで?」
「そしたらどんどん人が集まってきてさ! 最後にはレイズ様を捕まえて、ワッショイワッショイって!」
「…………ワッショイワッショイ?」
システィーヌが固まる。
「そう! ワッショイワッショイ!」
「…………なんですの、それ」
リールは口元を押さえた。なんとなくどころか、かなり鮮明にその光景を想像できてしまったからだ。
「レイズ様、最初はすっげぇ嫌そうな顔してたんだけどな!」
「最後には諦めてたよな!」
「そうそう!」
楽しそうに笑う住民たちを前に、システィーヌの眉間にはどんどん皺が寄っていく。
「確認しますけれど……レイズという方は、アルバードの当主なのですわよね?」
「うん! 当主だよ!」
「すごいんだから、本当に! レイズ様は!」
「…………」
ますます分からない。
「では……そのような方へ、皆さんが軽々しく触れたり、話しかけたりしても……平気なのですか?」
その質問を聞いた住民たちは、不思議そうに顔を見合わせた。
「なんで?」
「レイズ様だもんなぁ?」
「うんうん。レイズ様だしねぇ」
「…………」
説明になっていない。
まったく説明になっていない。
「ですが、それでは当主としての格が――」
「それほど、皆さんレイズ様を愛しているんですよ」
リールが穏やかに補足すると、システィーヌはすぐに振り返った。
「そういうことではなくてよ。私は常識の話をしていますの」
リールは少し考え、それから周囲を見回した。
笑っている住民。
人々と普通に言葉を交わす魔族。
そして、誰もが当たり前のように口にする『レイズ様』という名前。
「…………まあ、アルバードですからね」
「それで済ませないでくださる!?」
その時、エルンストが静かに割って入った。
「皆様、申し訳ございません。そろそろ出発しなくてはいけませんので、その辺で――」
システィーヌの頭は、すでにかなり混乱していた。王国で学んできた常識も、王族として教えられてきた身分の在り方も、領主と領民の距離も、人間と魔族の関係も、この場所では何もかもが少しずつ違っている。
だが、そんな彼女へさらに追い打ちをかける男が現れた。
「おいおい! レイズの話をするなら、俺が一番よく知ってるぜぇ?」
「…………」
システィーヌの目がゆっくりと声の方へ向く。
そこには顔を赤くした一人の男が立っていた。足取りも少し怪しく、どう見ても酔っぱらっている。しかもまだ昼間だ。
だが、そんなことよりも。
(…………レイズ?)
今、この男は呼び捨てにした。
アルバードの当主を。
先ほどの住民たちですら「レイズ様」と呼んでいたのに、この男だけはまるで昔からの知り合いを呼ぶように、当然の顔で「レイズ」と口にしたのだ。
「ああ、ドイルさん。昼間から飲んでいるんですか……」
リールが疲れたように笑うと、ドイルは嬉しそうに近づいてくる。
「おお! リールさんじゃねぇか! また来てくれたのか!? 今日は面白い酒はないのか?」
「あはは……今日は商人として来たわけではありませんので。次に来る時までに探しておきますよ」
「おお!! 頼むぜ!! そしたらレイズとまた酒場で酒でも飲むからよぉ!」
「…………」
システィーヌの目がさらに細くなった。
また呼び捨て。
しかも酒場。
当主が、この男と酒場で酒を飲む?
理解が追いつかない。
「こら! ドイル! お前いい加減にしろ! 調子に乗りすぎだろ!」
別の住民から注意されると、ドイルは不満そうに振り返った。
「なんだよ!! 俺とレイズはダチみたいなもんなんだよ!! 羨ましいのか!? あぁん!?」
「…………ダチ?」
システィーヌの口から、とうとう声が漏れた。
その直後――。
バシンッ!!
乾いた音とともに、ドイルの頭が大きく揺れた。
「いってぇ!?」
振り返れば、一人の女性が恐ろしい顔で立っていた。どうやらドイルの妻らしい。
「いい加減にしなって、あんた!」
「お、おい! 待て! 俺は今、レイズとの友情をだな――」
「はいはい。帰るよあんた」
「待てって! リールさん! 次は酒だからな! 絶対だぞ!!」
「分かりました、分かりましたから……」
妻に襟首を掴まれ、ドイルはずるずると引きずられていく。
「俺とレイズは本当にダチなんだからなぁぁぁ!!」
その声だけが遠ざかっていった。
「…………」
システィーヌは呆然と、その後ろ姿を見送っていた。
アルバードへ到着してから、まだ大して時間は経っていない。それなのに、すでに何一つ分からなくなっていた。
魔族が普通に歩いている。
人間と魔族が笑いながら話している。
王家の座位騎士であるエルンストまで、その魔族と何事もなかったように挨拶を交わしている。
領民たちは当主であるレイズを心から尊敬しているらしい。
なのに、気軽に話しかける。
触る。
捕まえる。
挙げ句の果てには、ワッショイワッショイと胴上げまでしてしまう。
そして昼間から酒を飲んでいる男が、当主を呼び捨てにして『ダチ』と言い切った。
「…………」
システィーヌはゆっくりリールへ顔を向けた。
「リール。私、一つだけ聞いてもよろしくて?」
「なんでしょう?」
「…………本当に、ここを治めているのはレイズという方なのですわよね?」
「はい。間違いなく、レイズ様ですね」
リールは迷うことなく答えた。
システィーヌは再び町へ目を向ける。
人々は笑っている。
魔族も笑っている。
商人も、住民も、それぞれが自由に歩き、自由に話している。
そこには王国でシスティーヌが知っているような、領主に対する恐れや緊張はなかった。
だが、不思議なことに。
誰一人としてレイズを軽んじているようにも見えない。
むしろ逆だった。
話を聞けば聞くほど、誰もが当たり前のようにレイズを慕い、その名を口にする時には嬉しそうに笑う。
尊敬している。
それなのに恐れていない。
敬っている。
それなのに遠ざけようとしない。
システィーヌの知っている『領主』という存在と、この町の人々が語る『レイズ』という存在は、どうしても重ならなかった。
「…………なんですの、ここ」
思わず漏れた言葉に、リールは小さく笑う。
システィーヌはまだ知らない。
自分が理解できずにいる、このアルバードという場所。その中心にいて、王から評価され、リールからは学院という尺度では測れないとまで評された少年が、つい先ほどまで――。
裸で正座しながら。
リリアナに叱られ。
自分が脱ぎ散らかした服を、全裸で一枚一枚丁寧に畳んでいたことなど。
当然。
知る由もなかった。




