母は強し。
その頃――。
システィーヌが馬車の中で「レイズという人物の化けの皮を剥いでやる」と意気込んでいた、まさにその頃。
当のレイズは。
「ハハハハハハ!! 風呂だ風呂だ!!」
そんなことなど知る由もなく、猛烈な勢いで服を脱いでいた。
「やっとだ!! やっと入れる!!」
上着をぽいっ。
シャツもぽいっ。
ズボンもぽいっ。
ジュラから帰ってきてからというもの、町の住民から逃げ、屋敷へ戻ればクリスが叫んでおり、その原因を辿ればガイルがいて、百年以上にも及ぶ因縁とルイガスの話を聞き、ようやく終わったと思えばクリスとディアナが突然婚約し、さらに自分の部屋へ戻ればイザベルたちが勉強会を開いていた。
もういい。
今だけは何も考えたくない。
レイズの頭の中にあるのは、ただ一つ。
風呂。
風呂。
風呂!!
「もう誰にも邪魔されないぞ!!」
それなりに高価な服が床へ落ちていくが、そんなことはどうでもよかった。
今のレイズにとって服の価値など、湯船に比べれば些細な問題である。
そして最後の一枚まで脱ぎ終え――。
「よし!!」
念願の風呂へ向かおうとした、その時だった。
「…………レイズ」
「…………」
身体が止まった。
それは、怒鳴り声ではない。
むしろ静かな声だった。
だがレイズにとっては、クリスの叫び声よりも遥かに逆らいにくい声だった。
アルバードで、レイズを呼び捨てにできる人間はほとんどいない。
一人は――ヴィル。
そして、もう一人。
「…………リリ……アナ?」
恐る恐る振り返る。
そこには、リリアナが立っていた。
「ね、ねぇ……!? なんでここにいるの!? ここ脱衣場だよね!?」
そういえば、アルバードへ帰ってきてから一度もまともにリリアナと話をしていなかった。
いや、それ以前の問題である。
今のレイズは何も着ていない。
ようやく風呂に入れる喜びですっかり忘れていたが、ここは脱衣場だ。
当然、服を脱ぐ場所である。
なのにリリアナはまったく動じなかった。
昔から何度もレイズの世話をしてきた彼女にとって、今さらその程度で慌てる理由などない。
リリアナは静かにレイズへ近づいてくる。
そして――。
床へ散乱した衣服を見た。
「…………レイズ」
「…………はい」
さっきより声が低い。
レイズは反射的に背筋を伸ばした。
「衣服を、このように脱ぎ散らかすものではありません」
「…………はい」
「今まで、貴方がお風呂に入るたびに、誰がその服を拾い、誰が洗い、誰が傷んだところを直してきたと思っていますか?」
「…………」
「それに、以前の貴方は身体の大きさも随分変わりましたね。その度に誰が寸法を測り直し、仕立て直し、それでも合わなくなれば新しい衣服を用意していたと?」
「…………ぁ」
「考えたことはありますか?」
「ぁぁ……う……」
先ほどまで、
風呂だ!!
誰にも邪魔させない!!
などと叫んでいたアルバード当主の威厳は、完全に消滅した。
王国の王と向き合うことはできる。
魔族とも話せる。
ガイルを前にしても自分の考えを伝えることができる。
だが――。
リリアナには勝てない。
勝てる気がしない。
そもそも、反論しようという気にすらならなかった。
なぜならレイズにとって、リリアナは使用人という言葉だけでは到底片付けられない存在だからだ。
幼い頃から自分を見てきた人。
世話をしてくれた人。
叱ってくれた人。
そして――母親のような人。
「…………ごめんなさい」
レイズは素直に謝った。
そして。
その場に正座した。
「…………」
何も身につけていないまま。
正座して。
自分がぽいぽいと放り投げた服を、一枚ずつ丁寧に畳み始める。
上着を整え。
シャツの皺を伸ばし。
ズボンもきちんと折り畳む。
そこにいるのは、メモリアルストーンを生み出したアルバードの当主。
王国最強クラスの者たちとも関わり、魔族の未来について語り、王すらその存在を無視できなくなった少年。
その少年が今――。
裸で正座して服を畳んでいる。
「…………はい」
最後の一枚まで綺麗に畳み終え、レイズはリリアナを見上げた。
「ごめんなさい」
リリアナは畳まれた服を確認する。
「はい。よくできました」
「…………!」
「それでは、お風呂へ行ってきていいですよ」
ぱぁっ、とレイズの顔が明るくなった。
「ほ、ほんと!?」
「ええ」
「ありがとう、リリアナ!!」
つい先ほどまで裸で正座させられていたことなど、もう頭から消えていた。
レイズは嬉しそうに立ち上がる。
「風呂!!」
そして今度こそ。
本当に今度こそ。
待ち望んだ湯船へ向かって駆けていった。
「走ってはいけませんよ?」
「はーい!!」
「…………まったく」
その背中を見送りながら、リリアナは小さく笑った。
「やっぱり、まだまだ子供なんですから」
王になろうとしているわけではない。
英雄になろうとしているわけでもない。
それでも、レイズはいつの間にか多くのものを背負うようになった。
アルバードの当主として
人と魔族の間に立つ者として。
そして、いつの間にか王国すら動かすほどの存在として。
随分と立派になった。
以前とは比べものにならないほどに。
けれど――。
リリアナにとっては、そんなことは関係なかった。
床に置かれた衣服を手に取る。
「あらあら……本当に……」
少しだけ鼻を近づけた瞬間、リリアナは困ったように笑った。
「…………少し匂いますね」
二日も野宿をしていたのだから当然だ。
それでも嫌な顔はしない。
むしろ、どこか懐かしそうに衣服を抱える。
昔からそうだった。
汗まみれになれば洗った。
泥だらけになれば洗った。
破けば直した。
太って服が入らなくなれば、新しいものを用意した。
そして痩せてぶかぶかになれば、また仕立て直した。
何度、その成長を見てきただろう。
どれほど姿が変わっても。
どれほど考え方が変わっても。
どんなに立派になっても。
たとえ――。
別人がレイズの中へ入ったのだとしても。
リリアナにとって、それは何も変わらない。
「レイズ……」
もう姿の見えなくなった少年へ語りかけるように、リリアナは静かに呟いた。
「貴方は、私の息子なんですから」
柔らかな笑みを浮かべる。
そしてレイズの衣服を抱え、そのまま洗い場へ向かった。
汚れた服を洗い。
風呂から上がった時に着る新しい衣服を用意する。
いつも通り。
昔から、何度も繰り返してきたこと。
レイズがどれほど偉くなろうとも、リリアナにとっては何も特別な仕事ではない。
ただ、自分の子供の世話をしている。
それだけだった。
「さて……」
新しい衣服を綺麗に揃えた、その時。
「ゴホッ……ゴホッ……」
「…………」
リリアナは口元を押さえた。
しばらくして咳が治まると、何事もなかったかのように小さく息を吐く。
「うん……」
そして、先ほどレイズが消えていった方角を見る。
「まだ、私も頑張らないといけませんね」
そのまま洗い場を離れ、今度は屋敷の清掃へ向かおうとする。
すると、それを見つけた使用人たちが慌てて駆け寄ってきた。
「リリアナ様」
「はい?」
「こちらは私たちがやりますので……リリアナ様は、どうかお休みください」
「…………」
リリアナは掃除道具へ手を伸ばしかけたまま、少しだけ考える。
そして微笑んだ。
「いいえ」
「ですが……」
「これも、私の楽しみですので」
その言葉に、使用人たちは何も返せなくなった。
「…………はい、リリアナ様」
リリアナはいつものように仕事へ戻っていく。
自分が世話をしてきた少年が帰ってきた屋敷を。
いつものように整えるために。
その頃。
そんなリリアナの想いなどまったく知らないレイズは――。
「はぁぁぁぁぁぁ…………」
ようやく。
本当にようやく。
念願だった湯船へ身体を沈めていた。
「…………生き返るぅぅぅ…………」
王国で一人の王女が、自分の化けの皮を剥いでやると息巻きながらアルバードへ向かっていることなど。
当然――知る由もなかった。




