小さな終わり。
ガイルは空を飛びながら、笑っていた。
アルバード――本当に、とんでもねぇ奴がいたものだ。
憎しみも、怒りも、失うことの苦しさも理解している。それなのに、それを理由に誰かを憎めとも、許せとも言わなかった。ただ自分の選んだものを守り、そのために必要ならば自分とは違う考えさえ受け入れてしまう。
ガイルには、それがどうにも理解し難かった。
レイズの魔力が特別強いわけではない。才能なら確かにある。戦うことに関しても、あの年齢を考えれば異常と言っていいほどのものを持っている。それはアルバードの血なのだと言われれば、ある程度は納得できる。
だが――血。
それだけでは、あまりにも説明がつかなかった。
長く生きてきたのは自分だ。人と魔族が争い、殺し、殺され、その死を理由にまた誰かが憎しみを抱く。そんな終わりのない連鎖を、嫌というほど見てきたのも自分だった。
なのに。
「あいつは………それを断ち切ったってか」
思わず笑いが漏れる。
百年以上生きてきた自分にもできなかったことを、あんな十四のガキがやってのけた。本人がそれをどこまで理解しているのかは知らない。もしかすると、何か大それたことをしたつもりすらないのかもしれない。
だが、それで十分だった。
ガイルは前を向きながら考える。
ならば、もうここで自分がやるべきことはないのではないか。
ルイガスがかつて言っていたように、もっと世界を見るために進んでもいいのではないか。あの頃、自分が知らなかった場所を見てみたいと思ったように、今度こそ自由に世界を飛び回ってもいいのではないか。
そう思ったところで、ガイルは小さく首を振った。
「……いや」
世界を見る前に、まだやるべきことがある。
アースリガルドで続いてきた魔族と人との戦いは、ようやく終わろうとしている。だが、この世界から魔族と人との争いそのものが消えたわけではない。
「……帝国の奴らか」
知ってはいた。
海の向こうにも人間がいることを。そして帝国の人間たちもまた、魔族と争い続けていることを。
これまでも気にならなかったわけではない。それでもガイルは、最果ての地を離れることができなかった。
自分がここを離れた時、アースリガルドの魔族たちに何かが起きればどうなるのか。王国が再び魔族へ牙を剥けば、誰が止めるのか。ルイガスを失い、ディアブロを失い、それでもなおこの地で生きている同胞たちを放って、自分だけが好き勝手に世界を見て回ることなどできなかった。
だからこそ、ガイルは動けなかった。
強くなった。
誰よりも自由に空を飛べるようになった。
それなのに、守りたいものが増えれば増えるほど、この場所から離れることができなくなっていた。
だが――今は違う。
王国は、もう簡単に魔族へ手を出すことはないだろう。そして、その間にはアルバードがある。
何より、レイズがいる。
「…………クハハ」
だったら、もういい。
自分がこの地に張りついていなくても、守られるものは守られる。何かが起きれば、それを止めようとする奴らがいる。
ようやく自分は動ける。
ようやく――自由になれる。
どこへ行くのも、何を見るのも、自分次第。
そう思ったガイルだったが、その自由を手にして最初に考えた行き先が次の戦場なのだから、自分でも笑えてくる。
「クハハハハ!! なんだかんだ言って……戦いもおもしれぇだろ? なぁ、ルイガス」
返事などあるはずがない。
それでもガイルは笑っていた。
ルイガスだって、戦うことそのものを嫌っていたわけではない。むしろ強さを競い、自分を磨き、昨日の自分より強くなることを楽しんでいた。
強くなれ。
世界を見ろ。
自由に飛び回れる喜びを知れ。
そう教えたのは、あいつだった。
だったら自分も、それを楽しめばいい。
戦いはガイルにとって、憎しみだけから生まれるものではない。強い奴と戦うことは好きだ。自分の力がどこまで通じるのか試すことも、新しい魔法を見ることも、知らない強者に出会うことも、昔から嫌いではなかった。
いや――好きだった。
「帝国か……」
どんな奴がいるのか。
どれほど強い奴がいるのか。
何が待っているのか。
まだ何も分からない。
だからこそ――面白い。
ガイルの口元が大きく吊り上がった。
「戦えることを楽しみながら……守ってやりゃいい」
もう、憎しみに自分の行き先を決めさせる必要はない。
守りたいものを自分で選び、行きたい場所へ自分で行く。そして戦わなければならないのなら、思い切り戦えばいい。
それだけのことだった。
「終わらせてやるよ」
ガイルは遥か先を見つめながら呟いた。
「憎しみだけで戦うなんざ……つまらねぇ」
かつて自分へ向けられた言葉を思い出す。
小せぇなぁ、お前は。
あの時は腹が立った。
自分は子供なのだから、小さいのは当たり前だと本気で思った。
けれど、今なら少しだけ分かる。
世界は広い。
自分が百年以上抱え続けてきた憎しみですら、その広い世界のすべてではない。
「……あまりにも、小さなことだ」
ガイルはそう呟くと、少しだけ空を見上げた。
「そういうことだよな? ルイガス……」
やはり返事はない。
それでいい。
今度は自分で決める。
ガイルは大きく笑うと、その速度を一気に上げた。
アルバードの空を越え、さらにその先へ。
もう何かに縛られて飛ぶのではない。
自分自身が選んだ場所へ向かうために、ガイルは空を飛んでいった。
その姿を、遠くから見つめている者たちがいた。
ヴェルたちもまた、アルバードから遠ざかっていくガイルの姿を見ていた。
「…………行ったか」
ヴェルが静かに呟く。
ガイルがアルバードから離れていく。
ただそれだけの光景のはずなのに、ヴェルには何か途方もなく長いものが、ようやく終わりを迎えたように感じられた。
そして、今になってようやく理解する。
「……イェイラ」
あの者たちが何を守ろうとしていたのか。
ルイガスが死んだあと、魔族は大きく二つの道へ分かれた。
ルイガスの意思を受け継ぎ、人との共存を捨てなかったイェイラ。
そして、人を信じたからこそルイガスは殺されたのだと考え、人との共存を拒絶したガイル。
同じ男を大切に思っていた者たちが、その男を失ったことによって別々の道を歩くことになった。
長い、長い時間だった。
それが今――。
「レイズ……お前は本当に、とんでもない奴だ」
ヴェルは思わずそう呟いた。
ガイルがイェイラとまったく同じ考えになったわけではない。人間を好きになったわけでもなければ、王国を許したわけでもない。
それでも、もうガイルは王国を滅ぼすために生きてはいない。
魔族を守る。
ただ、そのために生きる。
それだけで十分だった。
ガイルとイェイラ。
大きく二つに分かれていた道が、完全に一つになったわけではない。それでも互いを否定し、殺し合わなければならないほど遠く離れていた二つの道は、今ようやく同じ方向を向こうとしている。
ヴェルには、そう思えた。
「やっぱり、レイズ様でしたね」
隣から聞こえてきた声に、ヴェルは視線だけを向けた。
エルイが、どこか嬉しそうに笑っている。
「……ぁあ。どこまでも予想外なことをする」
あれほど頑なに王国を滅ぼすことだけを見続けていた男が、今はもうその憎しみに縛られていない。
解決したとは言えない。
ガイルが王国を許したわけではないし、王国と魔族の間に積み重なった長い歴史が消えるわけでもない。
だが――それでもいい。
少なくとも、この地で今すぐ新たな戦争が始まる理由はなくなった。
王国。
アルバード。
そして、最果ての魔族たち。
これまで別々の方向へ渦を巻き、いつぶつかってもおかしくなかった三つの大きな流れが、アルバードという場所を中心に、少しずつ同じ方向へ流れ始めている。
本当の意味ですべてが終わったわけではない。
それでもヴェルは、確かに感じていた。
長く続いた何かが――今、終わったのだと。
「…………イェイラ」
ヴェルは静かに空を見上げる。
「それに……ルイガス」
もし二人が今も生きていたなら。
この光景を見たなら、何を思うのだろう。
人と魔族が同じ町を歩き、互いを恐れることなく暮らすアルバード。
王国と繋がりながら、それでも魔族を拒絶しない場所。
そして、人間を滅ぼすことだけを見続けていたガイルが、自分の意思でその地を離れ、もっと広い世界へ向かって飛んでいく姿。
かつてなら、そんな未来が来るなど誰が信じただろう。
「ここは……大きくなるな」
アルバードは、もう小さな一つの領地というだけではない。
人と魔族。
王国と最果て。
長い間決して交わらなかったものが、ここで繋がろうとしている。
ヴェルはしばらく空を見つめたあと、ゆっくりと身体を丸めた。
そんなヴェルを見ていたエルイが、ふっと笑う。
「ヴェル様も……なんだか可愛くなりましたね?」
「…………ふざけろ」
「ふふっ」
ヴェルはそれ以上何も言わず、目を閉じた。
不思議なほど身体から力が抜けていく。
長く、長く生きてきた。
その時間の中で、人を警戒しなかった日はどれほどあっただろう。いつ王国が動くのか、いつ魔族が動くのか、いつ再び誰かが殺され、その死を理由に新しい戦いが始まるのか。
そんなことを考えず、ただ目を閉じることのできた夜が、これまでどれほどあっただろうか。
だが今は、何も考えなくていいような気がした。
ヴェルだけではない。
ガイルが飛び去っていく姿を見ていた魔族たちも、それぞれが何かを感じ取っていた。
誰かが宣言したわけではない。
戦争が終わったと告げる鐘が鳴ったわけでもない。
王国と魔族が手を取り合い、過去のすべてを水に流したわけでもない。
それでも――。
もう、憎まなくていい。
もう、殺さなくていい。
もう、怯えなくていい。
明日、誰かが攻めてくるのではないかと、常に身構えていなくてもいい。
過去が消えるわけではない。
失った者たちが戻ってくるわけでもない。
それでも、過去と同じことを繰り返さない未来なら選ぶことができる。
アルバードがある限り。
レイズが、自分の選んだ道を歩き続ける限り。
王国も。
魔族も。
そしてアルバードも。
それぞれが、それぞれのままで生きていくことができる。
アースリガルドはようやく、長い憎しみから自由になろうとしていた。
そんな空気を感じながら、ヴェルは静かに眠りにつく。
長く長く生きてきた時間の中で、ここまで心地よく眠りにつけたことが、かつて一度でもあっただろうか。
その答えを考える必要すらなかった。
今はただ――眠ればいい。
もう、怯える必要はないのだから。




