ルイガスの感性
ガイルがゆっくりと眼を開けると、最初に感じたのは香ばしい匂いだった。
「…………ん」
重たい瞼を何度か瞬かせる。辺りはすでに真っ暗になっていた。いつの間にこれほど時間が経っていたのだろう。身体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走る。
「いった……」
そして、目の前にあるものに気がついた。
火だ。
ぱちぱちと薪が爆ぜ、その上では何かが焼かれている。最初は何なのか分からなかったが、少しずつ意識がはっきりしてくるにつれて、それが何なのかを思い出す。
先ほど、自分が必死になって倒したギルウェラだった。
鋭い牙を持ち、水の中を泳ぎ、何度も自分へ魔法を放ってきた魔物。その身体はすでに綺麗に捌かれ、食べられる部分だけが火にかけられている。
「目ぇ覚ましたか?」
聞こえてきた声に、ガイルはびくりと身体を震わせた。
顔を上げる。
そこにはルイガスがいた。
「…………うん」
返事をしてから、ガイルは周囲を見回した。
暗い。
知らない場所。
そして、自分の目の前にいるのは人間ではない。頭には角があり、脚も人間とは違う。
魔族。
そこでようやく、眠る前までの記憶がすべて戻ってきた。
「…………あ」
そうだった。
自分は捨てられた。
人間たちに差し出されて、魔族に連れてこられた。
もう、帰る場所なんてない。
父も母も、自分を知っている大人たちも、誰一人として追いかけては来なかった。
「…………」
眼から涙が溢れた。
さっきまで必死に戦っていたから、考える暇なんてなかった。死にたくない。それだけで身体を動かしていた。
けれど、目を覚ましてしまえば嫌でも思い出す。
自分は今、魔族がたくさんいる場所にいる。
一人だ。
本当に、一人になってしまった。
ガイルが俯いて涙を拭っていると、目の前へ何かが差し出された。
「ほら、食えよ」
「…………え?」
顔を上げると、ルイガスが焼かれたギルウェラの身を差し出していた。
「食って、生きるんだろ?」
「…………」
「いいか、ガイル。お前はここで生きるために学べ」
ルイガスはそれだけ言うと、自分の分の肉を手に取った。
「弱さを見せるな。生きていることを楽しめ。生きているってのは、本来楽しいもんだ。美味いものを食えば嬉しい。強くなれば楽しい。誰にも舐められねぇほど強くなれば、ここじゃそれだけで美しい」
ガイルは涙を拭いながら、意味が分からないというようにルイガスを見る。
「単純なことだろ?」
「…………嬉しくなんかない」
「あ?」
「楽しくも……ない。美しいとか……そんなのも分かんない」
するとルイガスは、少しだけ眼を細めた。
「じゃあ、生きたくねぇのか?」
「生きたい!!」
考えるより先に声が出た。
その返事を聞いたルイガスは、満足そうに笑う。
「だったら生きろ。食うことは生きることだ」
そう言って、ルイガスは焼かれたギルウェラへ豪快にかぶりついた。
「…………あっ!」
ガイルの眼が大きくなる。
「それ、俺が倒したのに!!」
「クハハハ! だが捕まえたのは俺だろ?」
「でも倒したのは俺だよ!?」
「だったら食え。早くしねぇとなくなるぞ?」
「ずるい!!」
慌ててガイルもギルウェラの身へかぶりついた。
その瞬間。
「…………!」
眼を見開いた。
中までしっかり火が通っている。ほどよく塩味が利いていて、骨もほとんど残っていない。どうやったのかは分からないが、丁寧に処理されているらしく、ふわふわとした柔らかな身が口の中で簡単にほどけていく。
「…………うまい」
もう一口。
「……なんで、こんなにうまいの……」
ついさっきまで泣いていたことも忘れ、ガイルは夢中になって肉を頬張った。
そんな姿を眺めながら、ルイガスは笑っていた。
「ガイル」
「ん……?」
「お前、人が憎いか?」
ガイルの手が止まった。
「……憎い?」
その言葉が、自分の中にあるものと同じなのかはまだ分からない。
ただ――。
「むかつく!!」
それだけは分かった。
「なんで俺が……なんで俺だけ、こんなところに……」
自分は何もしていない。ただ生まれて、みんなと同じ場所で暮らしていただけだった。それなのに、突然いらないと言われたように差し出された。
そんなガイルを見て、ルイガスは笑った。
「へぇ……不幸だと思ってんのか?」
「…………」
「俺はそうは思わねぇぞ」
「なんでだよ……」
「お前はここで、これからどんどん強くなれる。成長する。今まで見たことのねぇものを見て、知らなかったことを知る。そして、いつか理解するだろうよ」
ルイガスは夜空の向こうへ眼を向けた。
「ガイル。世界はな――かなり広い」
「…………」
「そして、おもしれぇ」
「……おもしれぇ?」
「空から見た景色はどうだった?」
その言葉に、ガイルは思い出した。
ルィエに抱えられ、初めて空を飛んだ時のこと。
怖かった。
落ちたら死ぬと思った。
けれど――。
「海を見た感想はどうだ?」
「…………」
「クハハ。最高だったろ?」
ガイルは何も答えなかった。
けれど、頭の中には鮮明に残っている。
空から見た世界は、嘘みたいに広かった。自分が暮らしていた場所など、あっという間に見えなくなった。どこまでも続く大地があり、その上には白くふわふわしたものが浮かんでいた。
雲。
それを越えれば、まるで滑らかなクリームが一面に広がっているように濃密で、手を伸ばせば触れられそうだった。
そして海。
初めて見たあれは、本当に意味が分からなかった。どこまで行っても終わらない。全部水だと言われても信じられないほど、あまりにも大きい。
「…………でかかった」
「あぁ」
「でかすぎるし……広すぎる」
「そうだな」
「……でも、怖かった」
「それでいい」
ルイガスは笑った。その眼はガイルではなく、ずっと遠くを見ているようだった。
「人と争うだけが答えじゃねぇよな。俺たちが殺し合ってることなんざ、世界全体から見ればあまりにも小せぇ話だからな?」
ガイルには、まだその意味がよく分からなかった。
「一人になるのが不安か?」
「…………」
答えなかった。
それでもルイガスは続ける。
「だがな、その不安だって世界から見りゃ小さな話だ。ここが危険だと思うか? そんなもん、どこに行ったっていくらでもある」
「…………」
「なぁ、ガイル。生きることを楽しんでみろよ」
ルイガスが初めて、真っ直ぐガイルを見る。
「誰かのことより、まず自分のことだ。自分を見ろ。自分を何より大切にしろ。誰かのためになんて、今のお前は考えなくていい。お前がどうしたいのか。それだけ考えろ」
ガイルは黙って聞いていた。
「魔族ってのは、そういう意味じゃ自分が中心だ。自分が何をしたいのか。何を欲しいのか。誰といたいのか。そんなもん、自分で決めりゃいい」
そして、ルイガスは僅かに笑った。
「だがな――自分が中心だからこそ、守りたいものも生まれるんだよ」
「……守りたいもの?」
「あぁ。強くなれば、いずれ気付く。上に立てば、その意味も分かる」
ルイガスは焚き火へ薪を放り込んだ。火の粉が夜空へ舞い上がる。
「戦いってのは、奪い合うためだけにあるんじゃねぇ。自分を磨くためにもある。戦って、負けて、考えて、また強くなる。自分を育てて、自分がどこまでできるのか知るためにな」
「…………」
「強くなれ、ガイル。強くなって、世界を自由に飛び回れる喜びを知れ」
ルイガスが立ち上がった。
そして次の瞬間。
ひょい。
「ぅわわわわっ!?」
ガイルの身体が持ち上げられた。
「な、なにすんだよ!!」
「お前にはそれだけのことができるだろ?」
ルイガスは暴れるガイルなど気にもせず、そのまま抱えて歩き出した。
「だから間違えるな。小さなことに囚われるな」
「じ、自分で歩けるよ!! 下ろせって!!」
「人も魔族も、最初から敵だったわけじゃねぇ」
「聞いて……!?」
「どちらを守るのも、どちらを選ぶのも――お前の自由だ」
ガイルはしばらく腕の中で暴れていたが、やがて諦めたように力を抜いた。
それでも一つ、どうしても気になることがあった。
「……ねぇ」
「あ?」
「ルイガスは……なんで人を食べないの?」
するとルイガスは、一瞬だけ考えるような顔をしたあと、あまりにも簡単に答えた。
「不味いからだ」
「…………え?」
「それに余計なもんが混ざりすぎる」
「余計なもの……?」
「そんな味、美味くもねぇし、食って嬉しくもねぇ。純粋に飯を楽しみてぇだけなら、人なんぞわざわざ食わなくてもいい」
ガイルはぽかんとルイガスを見上げた。
「人を好んで食うこと自体、小さなことに囚われてるだけだろ。そう思わねぇか?」
「…………」
「どうした?」
「俺、人を食べたことないから……分かんねぇよ……」
一瞬の沈黙。
「クハハハハハ!! そりゃそうだ!!」
「笑うなよ!!」
「人を食うなんざ、別に何の意味もねぇよ。強くなるために、わざわざ人間を食う必要もねぇ」
「じゃあ、なんで魔族は……人を食べるの?」
「さぁな?」
「知らないの!?」
「旨いと感じる奴もいる。それだけだろ?」
「さっき不味いって言ったじゃん!!」
「それは俺の感想だろ?」
ルイガスは何を当然のことを聞いているのだと言わんばかりの顔をしていた。
「当たり前のことを聞くな」
「当たり前じゃないよ!!」
「小せぇなぁ、お前は」
「子供なんだから当たり前だろ!!」
「クハハハ! だったらさっさと大きくなりやがれ!」
「そういう意味じゃないだろ!!」
ガイルは頭を抱えた。
やっぱり、この魔族は変なのかもしれない
ルィエも言っていた。
強い。
とても強い。
でも、変わっている。
その意味が少しだけ分かった気がした。
けれど――ガイルは自分を抱えて歩いていくルイガスの横顔を見上げた。
大きかった。
身体が大きいから、というだけではない。
見ているものが違う。
考えていることも違う。
人間か魔族か。味方か敵か。
そんなことよりも、もっと遠くを見ているような気がした。
空の向こう。
海の向こう。
自分がまだ知らない世界の、そのさらに先まで。
その感性も、その知性も、その強さも。
幼いガイルにとって、ルイガスという存在はあまりにも大きかった。
「小さなことに囚われるな」
その言葉が何を意味しているのか、この時のガイルにはまださっぱり分からなかった。
ただ一つだけ。
焼かれたギルウェラは美味しかった。
空から見た世界は、とてつもなく広かった。
海は信じられないくらい大きかった。
そして――ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
これから自分が生きていく世界を、もっと見てみたいと思った。




