レイズは知らない。
朝。
目を覚ましたレイズが最初に抱いた感想は、英雄らしいものでもなければ、ジュラで起きた出来事についてでもなかった。
――そろそろ、柔らかい布団で寝たい。
ただ、それだけだった。
二日も野宿を続け、当然ながら風呂にも入っていない。自分の服へ鼻を近づけるほどではないが、なんとなく自分から土と汗の匂いがしているような気さえする。
「…………風呂、入りたいな」
世界樹の種を手に入れ、グレサスやデュランとも別れ、メーレとも無事に別れを済ませた。ジュラでやるべきことは終わったのだ。
ならば、あとはアルバードへ帰るだけ。
レイズは立ち上がり、大きく身体を伸ばした。
「さてと。アルバードに戻ったら…………まずは風呂だな」
そして、できれば柔らかい布団で眠りたい。
そんな、あまりにも生々しく、あまりにも平和なことを考えながら、レイズはアルバードへ向けて走り始めた。
「ハハハッ、気持ちいいなぁ……!」
頬を撫でる風が心地いい。
木々が次々と後方へ流れていく。それなりの速度で走っているはずなのに息はほとんど乱れず、足も重くならない。それどころか、このままどこまででも走っていけそうなほど身体が軽かった。
「にしても……この身体、どうなってんだ」
以前から分かっていたことではある。
どれだけ現実世界で鍛えたところで、十四歳の少年がこれほどの速度で延々と走り続けられるはずがない。
だが、この世界では違う。
アルバードの血。
その血に秘められたものこそが、本来のレイズという少年が持っていたポテンシャルなのだとでも言わんばかりに、鍛えれば鍛えるほど身体は応えてくれる。
かつては痩せたいだけだった。
少しでも格好よくなりたい。
この身体が本来持っている才能を引き出したい。
そんな単純な理由から始めた鍛錬だったというのに、気づけば随分と遠いところまで来てしまったものだ。
それでも今だけは難しいことを考える必要もない。
アルバードへ帰る。
風呂へ入る。
飯を食う。
そして寝る。
完璧だ。
――レイズは知らない。
自分が留守にしている間に、アルバードがまったく落ち着いていなかったことを。
そして。
自分が帰ったところで、しばらく休めそうにないということを――。
◇
その頃、アルバードでは。
「何故ですか!!」
屋敷の外から、とんでもない大声が響いていた。
「何故、私が外にいなければならないのですか!! イザベル様!!!!」
声の主はクリスだった。
屋敷の中にいるイザベルは、その声を聞きながら深々とため息を吐く。
「あたりまえでしょ……。あなたとガイルを同じ場所に置いて、また争いでも始められたらどうするのよ。今度こそ屋敷がなくなるわよ」
「私は争うつもりなどありません!!」
「…………」
イザベルは黙った。
そして室内にいるもう一人の男を見る。
ガイルも黙っていた。
しばらくして、恐る恐る口を開く。
「お、おい……」
あのガイルが、である。
百年以上を生き、魔族の中で戦い続け、グレサスと並ぶほどの怪物であるガイルが、明らかに居心地悪そうに扉を見つめていた。
「俺……もう帰ってもいいか?」
「何言ってるの?」
イザベルが即答する。
「あなた、レイズくんと話をするために来たんでしょ?」
「いや、それはそうだけどよ……」
「それとも何?」
イザベルの目が細くなる。
「ただディアナを苛めて、クリスに殺されかけて……それだけのためにアルバードまで来たの?」
「言い方ってもんがあるだろうが!!」
その瞬間だった。
「ガイルゥゥゥゥ!!」
屋敷の外から声が響く。
ガイルの肩がピクリと動いた。
「聞こえているのでしょう!!」
「…………」
「もし屋敷に傷一つでもつけてみろ!! 今度こそ貴様だけは絶対に逃がさんぞぉぉぉぉぉ!!」
静寂。
イザベルは何も言わなかった。
ガイルも何も言わなかった。
しばらくして、イザベルが小さく呟く。
「…………クリス、どうしちゃったのよ」
「だから言っただろうが」
ガイルが即座に返した。
「あいつは狂ってんだよ」
「普段はあんな人じゃないのよ……」
「信じられるか!!」
ガイルは本気だった。
イザベルから聞いた限りでは、クリスという男は普段は真面目であり、少々レイズへの忠誠心が行き過ぎている部分こそあるものの、理由もなく誰かを痛めつけたり、容赦なく殺したりするような男ではないらしい。
イザベルも、それについては何度も説明していた。
だが――。
『今度こそ貴様だけは絶対に逃がさんぞぉぉぉぉぉ!!』
屋敷の外から聞こえてくる声が、その説明を片っ端から破壊していた。
「あんだけの強さで大人しくしてた? 冗談じゃねぇ……。あんなもん、どうやって大人しくさせてたんだよ」
ガイルには、まったく信用できなかった。
それほどまでに、あのときのウラトスは異常だった。
固いから殴れる。
傷つけば治す。
治ればまた殴る。
殺すためではない。
すぐには殺さないために。
自分を散々痛めつけた末に殺そうとしていた、あの男。
思い出すだけでガイルの表情が引きつる。
しかし――。
イザベルには、クリスがあそこまで変わった理由も分かっていた。
だからこそ、ガイルへ冷たい視線を向ける。
「でもね」
「あ?」
「クリスをあんなふうにした原因、あなたでしょ?」
「…………」
「ディアナをあんな目に遭わせたから、クリスがおかしくなったんじゃない」
「…………」
「だから責任……取りなさいよ」
ガイルの眉間に青筋が浮かんだ。
「っち……ふざけんな!!!」
勢いよく立ち上がる。
「俺様はもう二度とあいつには絡みたくねぇ!!」
「知らないわよ」
「レイズって奴もだ!!」
まだ会ったことすらない少年の名前を、ガイルは忌々しそうに吐き捨てた。
「一体どんな化物を従者にしてんだよ!! あれをどうやって手懐けてんだ!?」
もはや猛獣。
いや――猛獣という表現すら生温い。
決して人に懐かず、ひとたび牙を剥けば相手が死ぬまで止まらない何か。
「魔物ですら、もう少し理性的だろうがよ……」
ガイルが頭を抱える。
その頃。
そんな評価を受けている従者の主人は――。
「ハハハッ! やっぱ走るの気持ちいいなぁ!」
アルバードへ向かって、ものすごい速度で走っていた。
頭の中にあるのは。
風呂。
飯。
そして、柔らかい布団。
自分の屋敷でガイルが待っていることも。
クリスが屋敷の外へ追い出されていることも。
イザベルがその二人の間に挟まれていることも。
何一つ知らない。
「もう少しだな、アルバード!」
レイズは笑った。
――レイズは、まだ知らない。
自分が帰った瞬間。
風呂どころではなくなることを。




