カイネルの怒り
カイネルは動揺を押し殺し、玉座からグレサスの姿を見つめていた。
「う……うむ。よくぞ無事に戻ってきた」
どうにか、それだけを口にする。
無事に戻ってきた。それ自体は喜ぶべきことなのだろう。だが、カイネルの視線はどうしてもグレサスの姿、とりわけ無残な状態となったハクライへと向かってしまう。
王国が誇る鎧、ハクライ。
その上半身部分が、見るも無残なほど破壊されている。
――あれほどの鎧を……。
一体、修復するのにどれほどの時間と費用がかかるというのか。
もちろん、グレサスが生きて戻ったことに比べれば些細なことだ。そう思わなければならない。そう思ってはいるのだが、それでも王として、その損害を考えずにはいられなかった。
そして、もう一人。
「デュラン。病み上がりだというのに……ご苦労であった」
「ハッ……」
デュランは疲労の滲んだ顔のまま、深く頭を下げる。
その姿を見たカイネルは一度だけ息を吐いた。
聞きたいことなら山ほどある。
なぜグレサスのハクライがこれほどまでに破壊されているのか。なぜ上半身裸なのか。なぜその手に、見るからにボロボロの網を持っているのか。
だが、何から聞けばいいのかすら分からない。
「して……聞きたいことが、あまりにも多すぎるが……まずは報告せよ」
「ハッ!」
グレサスは力強く返事をすると、わずかに興奮したような笑みを浮かべた。
「実に興味深いものが、たくさんありました」
その言葉に、玉座の間にいる者たちの視線が一斉にグレサスへ集まる。
もっとも、今この場にいる者たちの興味が、すでにジュラそのものよりもグレサスの現在の姿へ向いていることについては、あえて口にする者はいなかった。
「……そうか」
カイネルはひとまず頷き、もっとも気になっていたことを尋ねる。
「それで……神獣は、それほどに強かったのか?」
カイネルの視線が、壊れたハクライへ向かう。
「だが、こうして無事に戻ってきたということは……やはりグレサス。さすがと言うべきであろう」
カイネルの中では、すでにある程度の答えが出来上がっていた。
ジュラに存在するという神獣は、想像をはるかに超える強敵だった。グレサスですらハクライを破壊されるほどの激戦となり、それでも最後には王国最強の騎士として討ち取った。
そう考えれば、目の前の姿にも説明がつく。
だが。
「えぇ……」
グレサスは、珍しく残念そうに目を伏せた。
「本来ならば……ここへ連れてくることもできたのですが。残念ながら、横取りされました」
「……なんと?」
カイネルの表情が固まった。
数秒遅れて、その言葉の意味を理解する。
「待て。グレサス……お前は神獣を、生け捕りにするつもりだったというのか!?」
「はい」
「しかも……横取りされた、だと?」
「はい。なかなかに手強い敵でした。王国自慢のハクライも、この有り様で……なんとも見苦しい姿をお見せしております」
グレサスは自分の壊れた鎧を見下ろす。
そこでカイネルは、再び自分の中で情報を組み立て直した。
なるほど。
神獣そのものは、グレサスならば倒せる相手だったのだ。
だからこそ、生け捕りという選択肢を取った。
倒すのではなく捕らえる。それだけの実力差があったということなのだろう。
だとすれば――。
「詳しく説明せよ、グレサス。一体何者なのだ!? お前から神獣を横取りし、ハクライをここまで破壊するほどの敵とは!」
「なかなかに手強い相手でした」
グレサスは思い出すように目を細める。
「ですが、あれは逃げたのです。神獣を横取りしただけでなく、そのまま地中深くへと」
「だから、それは一体何なのだ!?」
「あれの名は……確か……レアなビースト、とか……」
「レアリスビーストです」
横から静かな声が入った。
デュランだった。
「陛下。ここからは、私が説明いたします」
カイネルは杖を握る手をわずかに震わせながら、デュランを見る。
「そ、そうか……。ではデュラン、説明せよ。そのレアリスビーストとは、一体何なのだ?」
「ハッ。ですが、その前に一つ訂正を」
「訂正?」
「まず、ジュラに存在していた神獣の名は、メーレと申します。そしてメーレは、ジュラという土地そのものを守護し、均衡を保つ役目を担う存在でした」
「……うむ」
「そして……先ほどからグレサスが『神獣』と呼んでいるものは、神獣ではありません」
「…………何?」
カイネルがゆっくりとグレサスを見る。
グレサスは何も言わない。
デュランは続けた。
「ディアという、小柄な生物です。もっとも……神獣ではないとはいえ、そちらも我々には正体を判断できない、得体の知れぬ存在ではありましたが」
「…………待て」
カイネルは額へ手を当てる。
一つずつ整理するしかない。
「つまり……グレサスが捕らえようとしていたのは、神獣メーレではなく、そのディアという生物であり……それをレアリスビーストと呼ばれる何者かが連れ去った。そういうことか?」
「その認識で間違いございません」
「ではメーレは!? 本物の神獣はどうしたのだ!」
「メーレそのものは、グレサスであれば容易に倒せる存在でした」
デュランはそこで一度言葉を切った。
「ですが――倒すわけにはいかなかったのです、陛下」
「倒してはならぬ……?」
「はい。メーレはジュラの均衡を保つ存在です。そして、私にも完全には理解できておりませんが……レアリスビーストについて、メーレはこう説明しておりました」
デュランは記憶を辿るように言葉を選ぶ。
レイズが説明し、レアリスと肯定していた言葉を思い出しながら。
「『レアリスビーストはレアリスそのもの。だが、レアリスのすべてではない』と」
「……どういう意味だ?」
「申し訳ございません。私にも分かりません」
「お前にも分からぬのか……」
「はい。ですが、その存在がどれほど危険であるかは、グレサスを見ていただければお分かりになるかと」
デュランの視線が、破壊されたハクライへ向く。
カイネルも同じ場所を見る。
「つまり……それほどの化け物だったということか」
「はい」
「それは、とんでもないことではないか……!?」
「その通りでございます。そして、もし我々がメーレを倒していた場合――同等、あるいはそれに類する存在が、さらに複数現れていた可能性がありました」
カイネルの顔から血の気が引いた。
「グレサスのハクライを破壊するほどの化け物が……数体、だと……?」
「鎧が破壊された程度です」
すぐにグレサスが口を挟む。
「私なら問題なく倒すことができます。ですから、どうかご安心を」
「そ、そうなのか……。グレサスがそう言うのであれば……」
「いいえ」
デュランが即座に否定した。
「はっきり申し上げます。あれが数体同時に現れていたならば……グレサスも私も、ここへ戻ることができなかった可能性があります」
「…………」
カイネルは再びグレサスを見る。
グレサスは不満そうだった。
どちらを信じればいいのか。
いや、こういう場合はデュランを信じた方がいい。
カイネルは長年の経験から、そう判断した。
「それほどの存在が……一体、何を目的として現れたというのだ?」
「恐らくですが……レアリスビーストは、ディアを迎えるために現れたのだと思われます」
「ディアを……?」
「はい。ただし、その理由については私にもまったく理解できません。メーレ自身も、あのようなことは初めてだと申しておりました。故に、詳細については……説明したくとも、これ以上は説明できないのです、陛下」
そこでカイネルは、別の疑問に気づいた。
「……待て」
デュランを見る。
「なぜ、お前たちはそこまで知っている?」
「…………」
「名前だけではない。メーレの役目も、レアリスビーストについても知っている。つまり――お前たちは、そのメーレという神獣と話をしたということだな?」
デュランは一瞬だけ黙り、それから短く答えた。
「そこに、レイズ・アルバードもおりました」
「…………は?」
カイネルの思考が止まった。
「レイズ……とな……?」
「あぁ」
グレサスも、今思い出したかのように笑った。
「そういえば、いたな」
「その報告がまず先であろう!!?」
玉座の間にカイネルの声が響き渡った。
「な、なぜレイズがジュラにいるのだ! あやつは一体何をしていた!?」
「探し物をしていたとのことです」
デュランは淡々と答える。
「陛下との話し合いによって王国との関係も改善し、学院の件も決まった。故に学院へ向かう前に、どうしても手に入れておきたいものがあったそうです」
「な……それほどのものが、ジュラに眠っているというのか?」
「はい」
デュランは頷いた。
「世界樹の種――そのように申しておりました」
「…………世界樹の、種?」
カイネルの表情から、先ほどまでとは別の意味で余裕が消えた。
「そのようなものが……本当に実在するというのか?」
「少なくとも、レイズ殿はそう申しておりました」
「……お前たちは?」
デュランは、カイネルが何を尋ねているのかすぐに察した。
「必要でございましたか?」
カイネルはしばらく黙ったあと、ゆっくりと首を振った。
「……いや」
世界樹の種。
もし本当にそのようなものが存在するのなら、価値など計り知れない。
だが――価値があるからこそ、王国が手を出してよいものではない。
「そのようなものを王国が手にすれば……厄介なことになる」
「はい。故に、我々は手を出しておりません」
「それでよい」
カイネルは迷わなかった。
世界樹。
現在も世界の帝国のある大陸に存在するとされ、その存在を帝国が血眼になって求めているもの。
もし世界樹そのものを生み出し得る種を王国が所有していると知られれば、帝国がどのような動きを見せるのか想像すらできない。
何より、王国には世界樹についての十分な知識がない。
世界樹とは、本来エルフたちの領域と深く結びつく存在である。そして彼らが敵と定めた者にとって、その領域は容易に踏み込める場所ではない。
ならば、知らぬものへ欲を出す必要などない。
ダークエルフもまた、このアースリガルド大陸に実在する。
だがカイネルには、彼らへ攻撃を仕掛ける意思など毛頭なかった。
まして今、その選択は単にダークエルフとの敵対だけでは済まない。
――アルバード。
カイネルは静かに目を細めた。
王国とアルバードの分裂。
その根は、決して浅くない。
そしてカイネルは知っている。
レイズの母、セシル・アルバード。
彼女こそ、人とダークエルフ、その二つの血を引く者であったことを。
ならば、王国が世界樹を欲してダークエルフへ手を伸ばせばどうなるのか。
考えるまでもなかった。
ようやく修復され始めた王国とアルバードの関係を、自らの手でもう一度壊すことになる。
世界樹の種を手に入れる。
たったそれだけの欲のために、ダークエルフを敵に回し、アルバードを敵に回し、さらには帝国まで刺激する。
そこまでして王国が得るものなど、一体何だというのか。
「……必要ない」
カイネルは改めて呟いた。
「レイズが何のために世界樹の種を求めているのかは知らぬ。だが、それがアルバードと……ダークエルフに関わるものであるならば、なおさら王国が手を伸ばすべきではない」
「私も、同意見でございます」
デュランが頭を下げる。
カイネルは小さく頷いた。
少なくとも、この件についてはそれでいい。
世界樹の種については、レイズに任せる。
王国が余計な欲を出さなければ、それで済む話だ。
「……さて」
カイネルはようやく一つ問題を片付けた気持ちになり、深く息を吐いた。
そして、改めてグレサスを見る。
壊れたハクライ。
上半身裸の王国最強の騎士。
その横では、疲れ果てたデュラン。
そして――。
先ほどからずっと気になっていた。
グレサスの手に握られている、ボロボロの網。
「…………」
カイネルの視線が、その柄へと止まる。
妙だった。
どこかで見たことがある。
いや。
見たことがあるどころではない。
カイネルは無意識に、自らの手に握られた杖を握る。
そして再び、グレサスの持つ網を見る。
「…………グレサス」
「ハッ」
「先ほどから気になっていたのだが……」
カイネルは目を細めた。
「その網の柄は……なんだ?」
グレサスは落ち着いていた。
それどころか、カイネルから網について尋ねられた瞬間、その顔には待っていましたと言わんばかりの笑みが浮かび、瞳は隠しきれない興奮によってギラギラと輝いている。
対して、その隣に立つデュランの表情は露骨に暗くなった。
――遂に、そこへ触れられてしまいましたか。
そう言わんばかりの落胆。そして、自分が直接やったわけでもないというのに、どこか罪悪感すら漂わせながら視線を落としている。
あまりにも対照的な二人の姿に、カイネルは嫌なものを感じながら、改めてグレサスの持つ網をじっと見つめた。
「えぇ。ジュラの神獣と相対するのです」
グレサスは楽しそうに笑う。
「当然、準備は入念に行う必要がありました」
「…………」
入念な準備。
それが、その網だというのか。
カイネルにはどうにも納得できなかった。
だが、それ以上に気になっているものがある。
網そのものではない。
その柄だ。
「分かった。ならば質問に答えよ、グレサス」
カイネルは自らの杖を握りながら、目を細めた。
「その木は、一体何の材質だ?」
「…………」
「どうにも見覚えがある。だが、どこで見たものなのかが思い出せぬ。ジュラで手に入れた材木なのか? 説明せよ」
無意識のうちに、杖を握る手へ力が入っていた。
まだ分からない。
分からないはずなのだ。
だが、王として長年さまざまな品を見てきたカイネルには、グレサスが手にしているそれが、そこらに転がっている木などではないことだけは分かる。
それどころか――。
もしかすると、とてつもない価値を持つ材木なのではないか。
「さすが、と申しましょう」
グレサスの笑みがさらに深くなった。
「えぇ。その通り。この網に使用しているものは、実に特別な素材です」
そう言って、グレサスが柄を握る。
次の瞬間――。
ギュインッ!!
膨大な魔力が木製の柄を走り、そのまま網へと流れ込んでいく。
「おぉ……!」
その場にいた者たちにも分かった。
明らかに異常だった。
ただの木材ならば、これほど大量の魔力を一瞬で流し込めば耐えられない。だというのに、その柄はグレサスの膨大な魔力を受け止め、それどころかほとんど損失させることなく網へと伝えている。
その美しい魔力の流れを見たカイネルは――。
「ハハハハッ!!」
思わず愉快そうに笑った。
「とてつもないではないか!」
カイネルは感心しながら、自らの杖を掲げる。
「まるで余が使っている、この杖のように魔力が美しく流れておる!」
グレサスも満足そうに頷いている。
カイネルは純粋に感心していた。
まさかジュラで、これほどの材木まで見つけていたとは。
「まさか、それほどのものを手に入れていたとはな! 見事だ、グレサス!」
「ハッ!」
「セフィロトにすら並ぶ名木と言えよう! して、それは何という木だ!? 一体どこで手に入れた!」
待ってましたと言わんばかりに、グレサスが胸を張った。
「さすがは陛下!」
そして、満面の笑みで答える。
「これはセフィロトという木で――王城に一本とない神木から、このグレサスが直接仕立てたものです!」
「ハハハハハ――」
カイネルの笑い声が止まった。
「…………は?」
玉座の間が静まり返る。
グレサスだけが笑っていた。
「…………いま」
カイネルの顔から、先ほどまでの笑みが完全に消えている。
「いま……なんと申した?」
「セフィロトです!」
グレサスは聞こえなかったのだと思ったらしい。
先ほどよりもはっきり答えた。
「これほどの素材は、世界中どこを探してもそう見つかるものではありません! 例えジュラであろうと、これに並び立つ木などそうは存在しないでしょう!」
「…………」
「これこそ、まさしく王国の宝! 神獣を捕らえるための得物として、これ以上に相応しいものはありません!」
胸を張るグレサス。
その隣でデュランが目を閉じた。
カイネルの手が震え始める。
ゆっくりと自分の杖を見る。
そして。
グレサスの網を見る。
もう一度、自分の杖を見る。
「…………デュラン」
「……ハッ」
「まさか、そなたも……分かっていて許したのではあるまいな?」
デュランは即座に首を振った。
「いいえ、陛下。グレサスが一人で勝手に……」
そして、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ですが……気付くべきでした。私がもっと早く気付いていれば、止めることもできたかもしれません。申し訳ございません」
「…………」
カイネルは再び網を見る。
あれほどの木を。
先代から代々守り続けてきた、王国だけの神木を。
それを。
――あの、わけの分からぬ網の柄に仕立てたというのか。
もはや言葉すら出なかった。
しばらくの沈黙の後、カイネルは低い声で呼ぶ。
「……グレサスよ」
「ハッ!」
グレサスだけは、相変わらず堂々としている。
「その木はな……余の許可なく使用することなど、決して許されぬものだ」
「…………」
「先代より、さらにその先代より……王家が代々受け継ぎ、守り続けてきた神木である。王族の名誉であり、王国の歴史そのものと言ってもよい」
カイネルの声が徐々に震えていく。
「それを……理解しておるのか?」
「もちろんです」
グレサスは自信満々に頷いた。
「だからこそです」
「…………何?」
「それほど貴重な神木だからこそ、神獣を相手取る得物として最も相応しい。このグレサス、自信を持ってそう断言できます!」
「…………」
カイネルは笑った。
「そうか」
「はい」
「そうなのだな………ハハハ……」
「陛下?」
「ハハハハハハッ!! そうか、そうか!!」
突然笑い始めた王に、グレサスが僅かに首を傾げる。
そしてカイネルは笑顔のまま言った。
「グレサス」
「ハッ!」
「余は怒ったぞ!!」
「何故ですか?」
「何故ですか、ではないわ!!!」
玉座の間が震えるほどの怒声が響いた。
「お前の自由を、余はこれまでどれほど許してきたと思っておる!! 鍛錬だ、ジュラだ、強敵だと好き勝手に飛び回ることも黙認してきた! それが――それが何故、王国の神木を勝手に切って網の柄にしてよいという話になるのだ!!」
グレサスから、ようやく笑みが消えた。
「ですが陛下」
低い声で返す。
「ならば、どうするというのです」
「……何?」
「神獣を相手にするのです。ジュラを攻略するのです。それ相応の準備を行うのは当然でしょう」
グレサスにふざけている様子はなかった。
本気だった。
本気で、自分の判断は正しいと思っている。
だからこそ、カイネルの怒りはさらに大きくなる。
「準備をするなと言っておるのではない!!」
カイネルは立ち上がった。
「それならば――」
杖を床へ叩きつける。
「余に相談するのが先であると言っておるのだ!!」
そして。
「この馬鹿者がぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
王城中に響き渡るほどの怒声とともに。
王国最強の騎士、グレサス・グライオンへの長い長い叱責が――始まった。




