馬鹿
ウラトスは満足していた。
十分に殴った。十分に壊した。目の前の男がどれほど強く、どれほど頑丈で、どれほど魔法に長けているのかも理解した。その力を真正面から受け止め、幾重にも重ねられた障壁を砕き、自分の拳まで壊しながら殴り続け、それでもなお立ち上がるガイルの姿を見て――もう十分だった。
だからこそ、ウラトスは飽きていた。
先ほどまで僅かに浮かんでいた笑みが消え、赤く染まった瞳が真っ直ぐにガイルを捉える。
「次で、お前は死ぬ」
あまりにも静かな声だった。
だが、その言葉が脅しでも虚勢でもないことを、ここまで戦ってきたガイルだけは誰より理解していた。
「…………ハッ」
ガイルは短く笑う。
全身が痛む。治癒魔法で塞いだはずの傷は再び開き、呼吸をするだけでも肺の奥が軋む。それでも逃げるという考えはなかった。いや、もう逃げ切れるとも思っていなかった。
目の前にいるこの男――自分がレイズだと思っている人間は、あまりにもおかしい。
強い。それだけではない。
魔力を封じる手段がありながら使わず、剣まで捨て、自分の拳が壊れても殴り続ける。それでいて怒鳴り散らすわけでもなく、完全に我を失っているわけでもない。むしろ動きそのものは冷静で、必要な場所へ必要な一撃だけを叩き込み、そのうえで自分を苦しめるように戦い続けている。
そんな相手に、今さら話が通じるとは思えなかった。
「だったら……やるしかねぇよなぁ……」
ガイルの身体から、これまでとは比較にならないほどの魔力が噴き上がる。黒く、濃く、重いその魔力は身体を包み込むだけでは終わらず、幾重にも重なりながら分厚い障壁へと変化していった。
一枚や二枚ではない。
残された魔力のほとんどを注ぎ込み、自身の周囲すべてを覆い尽くすほどの防御。その密度は先ほどまでとはまるで違い、外から見ればガイルの姿さえ歪んで見えるほどだった。
だが、それだけではなかった。
ガイルの唇がゆっくりと動く。
「アルマナディア……ルェーラ――」
人間の言葉ではない。
古代魔族言語による詠唱。
左手では細かな破壊の術式を組み上げ、複数の属性を互いに喰い合わせることなく圧縮していく。一方、右手では過剰なまでの防御魔法を維持し続けていた。
攻撃と防御。
本来なら、どちらか一方へ意識を集中させなければ成立しないほど高度な魔法を同時に発動する。それを可能にしていること自体が、ガイルという男が百年以上を魔族の中で生き、戦い続けてきた証明でもあった。
もう話は通じない。
なら、やるしかない。
ガイルはそう判断していた。
そして不意に、ほんの少しだけ笑った。
「…………ディアブロ」
もういない名を、小さく呟く。
「俺も……そっちに向かうことになるな」
勝てるとは思っていない。
それでも逃げる気もない。
この一撃で終わるかもしれない。
いや、おそらく終わる。
それでもガイルは笑っていた。
そんなガイルを見つめていたウラトスもまた、満面の笑みを浮かべる。
「…………」
右腕へ、膨大な魔力が集まっていく。
空気が震え、地面が軋み、二人の間にある空間そのものが歪んで見えるほどの魔力。それは先ほどまでの殴り合いとは明らかに違う。次で確実に終わらせる、その意思そのものが魔力となって集約されていく。
ガイルの攻撃魔法が完成へ近づく。
目の前の男の一撃も完成する。
互いに、次で終わらせるつもりだった。
そして――二つの力が発動する、まさにその寸前。
「――いい加減にしなさい!!!」
少女の怒声が戦場を貫いた。
「…………ぁ?」
ガイルが目を見開く。
同時に、自身の周囲を覆っていた膨大な魔力が、まるで最初から存在しなかったかのように霧となって消えていった。
障壁だけではない。
左手へ集めていた破壊の術式も、圧縮していた複数の属性も、すべてが一瞬で霧散していく。
「なっ――」
ガイルが振り返る。
そこに立っていたのは、息を切らしながらこちらを睨みつけるイザベルだった。
「クリス!!! あなた!!! 全部をぶち壊すつもりなの!?」
「…………クリス?」
ガイルの眉が僅かに動く。
聞いたことのない名前だった。
だが、その疑問を口にするよりも先に、目の前の男の右手を誰かが優しく握った。
「…………クリスさん」
聞き慣れた女の声。
ウラトスの動きが止まる。
「やめて……ください……」
ディアナだった。
まだ顔色は悪い。身体中に傷が残り、立っていることさえ決して楽ではない。それでもディアナはウラトスの手を両手で包み、必死に握っていた。
ガイルは今度こそ明確に困惑する。
「は……? クリス……? どういうことだよ…………」
目の前の男は静かにディアナへ視線を向ける。
「だから私はクリスでは――」
パシンッ。
乾いた音が響いた。
ディアナの手が、その頬を叩いていた。
強くはない。
傷つけるためのものでもない。
それでもウラトスは完全に言葉を止めた。
そして次の瞬間、ディアナはその胸へ身体を預けるようにして抱きついた。
「ウラトスじゃありません……」
「…………」
「貴方は……クリスです」
ガイルの目がさらに細くなる。
「…………ウラトス?」
知らない名前が、また一つ増えた。
ディアナはウラトスを抱き締めたまま、震える声で続ける。
「私の……大好きなクリスさんです…………」
その言葉を聞いた瞬間、ウラトスの赤く染まった瞳が僅かに揺れた。
何も言わない。
ただ、ディアナに抱き締められたまま立ち尽くしている。
やがて、後ろへ流されていた銀色の長い髪が、一本、また一本と静かに前へ落ちていく。張り詰めていた魔力も薄れ、右腕へ集められていた膨大な力も消えていった。
そして――。
「…………無事でよかったです。ディアナ」
その声を聞いた瞬間、ディアナは目を閉じた。
「…………遅すぎますよ」
「え?」
「私の無事を祈ってくださるなら……相手を倒してからではなくて、先に私を助けてください…………」
「…………」
クリスが完全に固まる。
そこへイザベルの怒声が飛んだ。
「そうよ!!! クリス!! あなた治癒魔法だって使えるでしょ!? ディアナをこんな状態のままにして、何やってんのよ!!」
「…………申し訳ございません」
クリスは素直に頭を下げたものの、視線だけはガイルへ向いていた。
「ですが……その男が……」
「ええ……分かっています」
ディアナが静かに遮った。
「私も……もっと考えるべきでした。ガイルが来たと聞いて、すぐに一人で向かってしまって……王国の人々が殺されたことを知っていたからこそ、冷静ではいられなかったのだと思います」
それは、自分だけが悪かったという意味ではない。
ガイルが人々を殺してきたことも、ディアナへ手をかけたことも消えない。そしてクリスがウラトスを名乗り、確実に殺そうとしたこともまた、それぞれが選んだ行動だった。
それでもディアナは、自分にも別の選択があったのではないかと考えていた。
守らなければならない。
自分が行かなければならない。
その思いが強すぎたからこそ、一人で向かってしまった。
「だから……私も、ごめんなさい」
クリスはしばらく何も言えなかった。
やがて心配そうにディアナの身体を見る。
「ディアナ……身体は大丈夫なのですか?」
「はい。ですから……私を連れていってください」
「…………分かりました」
その二人を横目に、イザベルは大きく息を吐くと、今度はガイルへ向き直った。
「それで……あなたがガイルよね?」
「…………ぁあ」
「何をしに来たのよ!! こんなにめちゃくちゃにして!!」
「ぁあ……? 俺様はレイズと話すために――」
「話すために殺し合ってどうすんのよ!! 馬鹿なの!?」
「ぁあ!? 馬鹿だと!? 先に仕掛けてきたのは――」
そこまで言って、ガイルは止まった。
思い出す。
アルバードへ入り、ディアナと出会った。
帰れと言われた。
そして彼女が元王国座位騎士だと知った。
その瞬間、自分は――。
「…………」
ガイルは少し考えた。
「…………ぁあ」
さらに考えた。
「…………俺か」
「あなたじゃない!!」
「うるせぇな!! 分かってんだよ!!」
つい先ほどまで世界が崩れるほどの魔力をぶつけ合っていた男とは思えない会話に、周囲の空気が一気に抜けていく。
だがガイルの頭の中には、もう一つ大きな疑問が残っていた。
「ってか待て」
「何よ」
ガイルはクリスを指差す。
「こいつ……レイズじゃねぇのか?」
「…………はい?」
今度はイザベルが固まった。
ディアナも僅かに目を見開く。
クリスだけが、何を言っているのか分からないとでも言いたげに眉を寄せた。
「俺様は最初からレイズと話すために来たんだよ!! で、こいつが出てきて、こんだけ馬鹿みてぇに強ぇから……てっきりこいつがレイズだと思ってたんだよ!!」
イザベルは数秒黙った。
そして――盛大にため息を吐いた。
「…………違うわよ」
「…………ぁ?」
「その人、クリス」
「…………」
「レイズくんじゃない」
ガイルは動かなかった。
「…………」
もう一度、クリスを見る。
次にディアナを見る。
さらにイザベルを見る。
「…………じゃあ」
ガイルは本気で理解できない顔をした。
「レイズって……どいつだよ!?」
「だから今いないのよ!!」
「いねぇのかよ!!!」
ガイルの怒声が辺りへ響く。
「俺様は何のためにここまで殺し合ってたんだよ!!!」
「知らないわよ!! 勝手に勘違いしたんでしょ!!」
「くそがぁぁぁ!!!」
さすがにガイルも頭を抱えた。
レイズと話をするためにアルバードへ来た。
その途中で元王国騎士に止められ、自分から戦いを始め、その後現れた化物じみた男をレイズだと思い込み、死ぬ覚悟までして全力で殺し合った。
そして今になって、その男はレイズですらないという。
「…………意味わかんねぇ」
ガイルが心の底から呟いた。
イザベルは腰へ手を当てながら、呆れたようにガイルを睨む。
「ちゃんとレイズくんと話すだけなら、何もしないって約束しなさい。そうしたら会わせてあげるわよ」
「…………ぁあ」
ガイルは眉を寄せたまま答えた。
「ってか……お前は誰だ?」
「私?」
イザベルは自分を指差す。
「私はヴィルおじいさまの孫娘よ」
「…………」
ガイルの表情が変わった。
「お前も……か」
「何がよ」
「…………憎くねぇのかよ」
イザベルはほんの少しだけ黙った。
だが、誤魔化さなかった。
「憎いわよ」
即答だった。
「…………」
「憎いに決まってるでしょ。でも、貴方だって人が憎くてそんなことをしてるんでしょ?」
ガイルは答えない。
「だったら……どっちかが呑み込むしかないじゃない」
イザベルは僅かに目を伏せ、それでも最後にはいつもの調子で付け加えた。
「馬鹿」
「…………ぁあ」
ガイルは理解できないものを見るような目でイザベルを見つめた。
憎い。
それでも殺さない。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
それでも、自分から終わらせるために呑み込む。
ガイルが百年以上生きてきた中で、それを強さだと思ったことなど一度もなかった。
「ってかよ……」
ガイルは頭を掻く。
「クリス……ってなんなんだよ。さっきウラトスとか言ってただろ。こいつ結局なんなんだよ。それにレイズは別にいるって……アルバード、意味が分からねぇ……」
「知りたいなら、ちゃんとレイズくんと話しなさい」
イザベルはそう言い切ると、クリスへ顔を向けた。
「クリス。ディアナを屋敷まで連れていって。それが終わったら――ここ、ちゃんと元に戻すのよ?」
「イザベル様!!」
突然クリスが声を荒らげた。
「それはあまりにも危険です!! その男は容赦なく人々を殺そうと――」
「ふざけんじゃねぇ!!!」
今度はガイルの怒声が響いた。
全員の視線がガイルへ集まる。
ガイルはクリスを指差し、本気で怒鳴った。
「てめぇの方が圧倒的に狂ってんだよ!!!」
「…………なんだと?」
クリスの眉が僅かに動く。
「なんだとじゃねぇよ!! てめぇ自分が何してたか分かってねぇのか!? 俺様を殺すだけじゃ飽き足らず、わざわざ魔力封じるもんまで捨てて、剣まで置いて、拳ぶっ壊しながら殴ってきたんだぞ!? どう考えてもてめぇの方がおかしいだろうが!!」
「貴様がディアナを――」
「クリスさん……」
ディアナが小さく呼ぶ。
クリスが即座に振り返った。
「はい」
「はやく……私……倒れちゃいそうで…………」
「…………え?」
ディアナは僅かに身体をふらつかせ、そのまま意識を失いそうな仕草を見せる。
「ディ……ディアナ!!!」
クリスの顔色が一瞬で変わった。
「分かりました!! すぐに!!」
慌ててディアナの身体を抱き上げる。
ディアナはクリスの腕の中でこっそり目を開け、イザベルへ小さく視線を送った。
イザベルも、それですべてを察した。
だが走り出す直前、クリスはガイルへ凄まじい殺気を向ける。
「貴様ぁぁぁ!!」
「なんだよ!?」
「イザベル様に何かあれば、地の底まで追いかけて絶対に殺すからな!! 分かったか!!!」
「お前クリスに戻ったんじゃねぇのかよ!!!」
返事を聞くこともなく、クリスはディアナを抱えたまま凄まじい速度で走り去っていった。
残されたイザベルは、しばらくその背中を見送る。
「…………」
そして小さく呟いた。
「え……こわ…………クリスって、あんなんなの……?」
「…………知らなかったのかよ、てめぇ……」
ガイルはとうとうその場へ座り込んだ。
戦闘による疲弊もある。
魔力もほとんど残っていない。
だが、それ以上に精神的に疲れていた。
イザベルはそんなガイルを見下ろし、呆れたようにため息を吐く。
「貴方だって十分怖いわよ……」
「…………」
「ほら。ちゃんと約束できるなら、付いてきて」
「…………ぁあ」
ガイルはゆっくり立ち上がった。
そして数歩歩いたところで、イザベルの背中を見ながら呟く。
「お前も……ただもんじゃねぇよ。絶対……」
イザベルは振り返った。
「私はどう見たって普通でしょ!」
「…………」
ガイルは何も答えなかった。
普通。
この場所に来てから、その言葉の意味が分からなくなってきていた。
人間と魔族が同じ場所で笑っている。
魔族が人間を守ろうとする。
元王国の座位騎士が、アルバードを守るために自分へ剣を向ける。
自分を憎んでいるはずのヴィルの孫娘が、憎しみを呑み込んで自分をレイズへ会わせようとしている。
そして何より――レイズだと思って全力で殺し合っていた相手が、レイズですらなかった。
「はぁ…………」
ガイルは深く、深くため息を吐いた。
「まじで…………どうなってんだよ……ここ…………」
返事はない。
イザベルは「早く来なさいよ」とでも言いたげに先を歩いている。
ガイルはその後ろを、渋々ついていった。
アルバードへ来るまで、ガイルは自分ならどうとでもなると思っていた。
気に入らなければ力で押し通せばいい。邪魔をする者がいれば倒せばいい。それでも邪魔をするのなら殺せばいい。
それだけの力が自分にはある。
そう信じていた。
だが――ここへ来て、ガイルは明確に一つのことを学んだ。
ここでは、好き勝手に暴れてはいけない。
そんな当たり前のことを、百年以上を生きてきた男が、今さらになって心の底から理解していた。
そしてもう一つ。
アルバードは、決して自分一人の力で崩せるような場所ではない。
それはクリスという化物がいるからだけではなかった。
自分へ剣を向けたディアナも。
自分を止めたイザベルも。
人間を庇った魔族たちも。
ここにいる者たちは、それぞれが自分の意思で、この場所を守ろうとしている。
そして、そのすべての中心にいるはずの男に――ガイルはまだ会ってすらいない。
「…………レイズ、か」
初めて、その名前を口にする声から余裕が消えていた。
自分が想像していたような男ではないのかもしれない。
そもそも、この場所そのものが、自分の知っている人間の国とはあまりにも違いすぎる。
ならば――一度くらい、本当に話を聞いてみてもいいのかもしれない。
そう考えてしまった自分自身に、ガイルは何とも言えない顔を浮かべながら、イザベルの後ろを歩いていく。
「…………はぁ。まじで……意味わかんねぇ……」
アルバードへ来て初めて。
ガイルは、力で壊すのではなく――この場所を知ろうとしていた。




