ウラトス
ガイルがゆっくりと顔を上げ、先ほど剣が飛んできた方向へ視線を向けると、その先には一人の男が立っていた。長い銀髪を持つ男だった。普段であれば美しいとさえ感じられるであろう銀色の髪は、今はどこか深く沈んだような色を帯び、その身体からは黒とも銀とも言い切れない魔力が、まるで炎のようにゆらゆらと揺らめきながら小さな光を散らしている。
男は何も言わない。ただ、まっすぐにガイルだけを見ていた。
「…………ぁあ? なんだ、てめぇ……」
ガイルは眉を寄せながら男を見る。だが、すぐにその表情が僅かに変わった。強い。一目見ただけで分かる。先ほどまで相手をしていたディアナとは明らかに違う。いや、それ以前にアルバードへ来るまでに見てきた連中とも違う。そして何より異様だったのは、その男の瞳だった。
ガイルを見据えていた瞳が、ゆっくりと赤へ染まっていく。
膨大な魔力を持つ生き物の中には、感情の昂ぶりによって身体へ変化が現れる者がいる。瞳や髪、あるいは身体から漏れ出す魔力。その現れ方は様々だが、目の前の男に起きている変化が何を意味しているのか、ガイルには説明されるまでもなく理解できた。
怒っている。
それも、尋常ではないほどに。
「おいおい……まさかお前がレ――」
ガイルが何かを言いかけた、その瞬間だった。
男の姿が消えた。
「――ぁ?」
次の瞬間には、すでにガイルの目の前にいる。速い。そう認識した時には、男は身体を大きく後ろへ反らし、片足を軸に腰を捻りながら、もう片方の足を真っ直ぐ前へ突き出していた。
ただの蹴り。
それだけのはずだった。
だが、ガイルの表情が変わる。
「ハッ……!」
生身で受ける。その選択だけは、本能が拒絶した。
「――舐めんなよ!!」
咄嗟に膨大な魔力を放出し、自らの身体の前へ幾重にも魔力壁を展開する。その直後、男の足が真正面から魔力壁へ叩き込まれた。
轟音が響いた。
一枚目の障壁が大きく歪み、そこから二枚目、三枚目へと凄まじい衝撃が抜けていく。それでも男の蹴りの勢いは止まらず、ガイルの身体が地面から浮き上がった。
「――ッ!?」
次の瞬間、ガイルは凄まじい速度で後方へ吹き飛ばされていた。地面を転がるような生易しいものではない。完全に宙を飛び、身体を覆っていた膨大な魔力が流星の尾のように長く引き伸ばされ、その姿は瞬く間にアルバードの町から遠ざかっていく。
「なっ……ハハ……!! なんだよ、あいつ……!!」
その声すら次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
だが、男はすぐには追わなかった。ゆっくりと足を下ろすと、先ほどまでガイルへ向けられていた赤い瞳を地面へ倒れているディアナへ向け、そのまま何も言わずに歩み寄っていく。
ディアナは、その姿を呆然と見上げていた。
助かった。
また、この人が助けてくれた。
そう理解した途端、それまで張り詰めていたものが一気に崩れ、瞳から涙が溢れ出した。
「クリス……さん……ごめ……なさ……」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
「ディアナ。今の私は、クリスではありません」
「…………え?」
いつもと変わらない静かな声だった。だからこそ、ディアナにはその言葉の意味がすぐには理解できなかった。
男はゆっくりと手を上げ、額へ垂れていた長い銀髪へ指を差し込むと、そのまますべてを後ろへとかき上げる。隠れていた顔が完全に露わになり、赤く染まった瞳と、身体から溢れ続ける黒銀の魔力がより鮮明に見えた。その魔力は深く、どこまでも沈んでいくような色を持ちながら、それでいて激しく燃え盛る炎のようでもあった。
「ウラトス。今の私は――ウラトスです」
「…………」
ディアナの目が大きく見開かれた。
その名前を知っている。
クリス。それは、この男がアルバードへ仕えるようになってから名乗っている名前。そしてウラトスとは、アルバードへ来る以前、王国にいた頃に使っていた名だった。
だからこそ、その意味を理解するまでに時間など必要なかった。
「ク……クリスさん……駄目……」
震える声で呼び止める。
だが、ウラトスは何も答えなかった。
ゆっくりと立ち上がり、ガイルが吹き飛んでいった方向へ身体を向ける。その身体を黒銀の魔力が包み込んだ瞬間、ディアナは必死に腕を伸ばした。
「待って……待ってください、クリスさん……!」
その声が届いたのかどうかすら分からない。
ウラトスが地面を蹴った瞬間、その場所が大きく沈み込み、次の瞬間にはもう姿が消えていた。ガイルが吹き飛んでいった方向へ、黒銀の光だけを残して一直線に飛んでいく。
ディアナの手だけが、何もない空間へ伸びたまま残された。
「…………どうして……」
涙が頬を伝う。
今度の涙は、助かったことへの安堵から流れたものではなかった。もっと別の、言葉にすることのできない恐怖からだった。
クリスという、アルバードで得た名を自ら否定し、かつての名であるウラトスを名乗った。その本当の意味をディアナが理解しているわけではない。それでも、今の彼からは、いつものクリスならばどれほど怒っていても最後には必ず残していたはずの何かが感じられなかった。
どれほど相手を許せなくても、どれほど怒りに震えていても、最後にはレイズの言葉を思い出し、アルバードの人間として踏みとどまることのできる僅かな余白。
それが今の彼にはないように見えた。
「どうして……レイズ様が……」
どうしてレイズがいない時に。どうしてこんなことに。どうしてクリスが――そこまで考えたところで、ディアナは自分自身の考えに違和感を覚えた。
そもそも、今のウラトスはいったい何に対してあれほど怒っているのだろう。
ガイルがアルバードへ入ったからなのか。王国の人々を殺した男だからなのか。レイズのいない場所で騒ぎを起こしたからなのか。それとも――。
「…………」
ディアナは、自分自身の身体へ視線を落とした。
傷つき、服は汚れ、立ち上がることすらできない自分の姿。
「…………そんな……」
そんなはずはない。
そう思おうとした。
けれど、先ほどの赤い瞳が一瞬だけ自分へ向けられた時の、あの男の表情が頭から離れてくれなかった。
◇
「はぁ……はぁ……ちょっと……クリス……! 速すぎるっての……!」
少し遅れて一人の少女が走ってくる。屋敷を出てから必死に追いかけてきたのだろう。イザベルは肩で息をしながら辺りを見回し、そして地面へ倒れているディアナを見つけた瞬間、疲労など忘れたように顔色を変えた。
「…………え? ディアナ!?」
すぐに駆け寄り、ディアナの傍へ膝をつく。
「ちょっと!? 大丈夫なの!? 何これ……こんな……!」
「イザ……ベル……様……」
服は汚れ、身体には激しく吹き飛ばされた跡が残り、首には強く掴まれた痕まである。先ほど自ら治癒を施したとはいえ、とても大丈夫と言える状態ではなかった。
ディアナは震える手を自分の胸へ当てる。
「光を……我が身を……」
「待って」
イザベルはその手へ自分の手を優しく重ねた。
「落ち着いて。大丈夫だから……ね? 焦って魔法を使ったら駄目。ちゃんと息して。ゆっくり」
「でも……違うんです……私のせいで……クリス様が……」
「そんなわけないでしょ。いいから、まず自分のことでしょ?」
「…………は……はい……」
ディアナは小さく頷き、乱れていた呼吸を少しずつ整えていく。それから再び胸元へ手を当て、今度は焦らず、ゆっくりと魔力を巡らせた。
「光よ……我が身を包み……癒やし給え……」
淡い光がディアナの身体を優しく包み込む。急激にすべての傷が消えていくような治癒ではない。傷ついた身体へ少しずつ光が染み込み、ずれていた骨を元の位置へ戻しながら、損傷した箇所をゆっくりと整えていく。完全には治らない。それでも呼吸は先ほどより明らかに楽になり、激しかった痛みも少しずつ遠ざかっていった。
「はぁ……はぁ……」
「そう。それでいいから。もう少し休んで――」
「イザベル様!!!」
突然、ディアナが顔を上げる。
「クリスさんを止めないと!!」
「…………え?」
「早く……! 早く止めないと……!」
だが、イザベルはその必死な様子とは対照的に、不思議そうに首を傾げた。
「大丈夫よ。だって……クリスよ?」
「大丈夫じゃありません!」
「いや、確かにあいつも相当怒ってたけど……」
イザベルは困ったように眉を寄せる。
ガイルという男が危険な存在であることは理解している。それでも、クリスが何を考えているのかについては心配していなかった。
なぜなら、つい先ほどまで屋敷で本人と話していたのだから。
◇
『ガイルと思われる人物がアルバードへ入った可能性があります!』
報告を受けたクリスは、一瞬だけ目を細めた。
だが、焦りはなかった。
それどころか、僅かに笑った。
『愚かですね。まさか、自分からここへ向かってくるとは』
『…………ちょっと!? クリス、駄目よ!? レイズくんも言ってたよね!?』
『ええ。もちろん理解しております』
『本当に?』
『ですから、腕の一本や二本や三本ほど叩き折り、そのまま監禁しましょう』
『腕は三本ないと思うけど!?』
『比喩です』
『どんな比喩よ!?』
クリスはまるで冗談など言っていないような顔で立ち上がると、淡々と言葉を続けた。
『ですが、完全に無力化した上で捕らえます。そしてレイズ様へ、アルバードの皆様へ、これまで迷惑をかけたすべての者へ、必ず詫びさせます』
『…………殺さないのね?』
『当然です。レイズ様が望まれていないことを、私が勝手に行う理由がありません』
即答だった。
その声にも表情にも迷いはなく、ガイルがどれほど危険な存在であろうと必ず生きたまま捕らえ、完全に無力化したうえでレイズへ引き渡す。それだけしか考えていなかった。
『では、少々捕らえて参ります』
『ちょっと待って! 私も――って速っ!?』
そうしてクリスは、あっという間に屋敷から姿を消した。
あの時のクリスには、殺意などなかった。
むしろ心には十分すぎるほどの余裕があった。
◇
「だから大丈夫よ」
イザベルはディアナを安心させるように言った。
「確かに怒ってたけど、クリスは最初からガイルを殺すつもりなんてなかったから。捕まえてレイズくんに任せるって――」
「違うんです!!」
ディアナの叫びに、イザベルの表情が止まった。
「…………ディアナ?」
「違うんです……さっきのクリスさんは……違ったんです……」
「どういうこと?」
「クリスさんは……」
ディアナは唇を震わせながら、先ほど目の前で起きたことを思い出す。そして、その名を口にした。
「ウラトスを……名乗られました」
「…………え?」
今度はイザベルが完全に固まった。
「ウラトス……? それって……」
「はい……」
ディアナは小さく頷いた。
「きっと……アルバードのクリスとしてではなく……別の……存在として……」
そこから先を言葉にすることができなかった。
本当にそうなのかは分からない。クリスが何を考え、何をするつもりなのか、本人から何一つ聞いていない。
それでも、ディアナには先ほどの姿が忘れられなかった。
長い銀髪をすべて後ろへかき上げ、赤く染まった瞳でガイルを見据え、黒銀の魔力を全身から溢れさせていた姿。
そして、もう一つ。
ディアナが何より恐怖を覚えた理由があった。
「イザベル様……さっきのクリスさん……似ていたんです」
「…………誰に?」
その問いに、ディアナはすぐには答えられなかった。
頭に浮かんでいるのは、一人の男だった。
王国最強と呼ばれる男。
圧倒的な剣技を持ち、その身体から常人では考えられないほど膨大な黄金色の魔力を溢れさせる存在。
そして何より。
クリス――いや、ウラトスと同じ血を持つ男。
「…………グレサス様に」
「…………」
「さっきのクリスさんは……あまりにも……あの方に似すぎていました」
王国最強の男、グレサス・グライオン。
そしてウラトスの、実の兄。
いつものクリスからはほとんど感じることのなかった面影が、怒りによって初めて表へ現れたかのように、あまりにも似ていた。
だからこそ、ディアナは怖かった。
ガイルが、ではない。
今まさにガイルを追っていった、あの男が。
「…………クリスさん……」
ディアナは震える手を強く握り締める。
だが、ディアナもイザベルも、まだ本当の意味では理解していなかった。
屋敷を出た時には確かに残っていたはずのクリスの余裕を、一瞬にして消し去ったものが何だったのか。
ガイルを殺すどころか、生きたまま捕らえてレイズへ引き渡すつもりだった男が、なぜディアナの姿を目にした瞬間、自ら「クリス」という名を否定してまで、かつての「ウラトス」へ戻ったのか。
その感情に。
当の本人であるウラトス自身さえ、まだ気付いてはいなかった。




