王国の宝。
その頃、アルバードの町にはディアナの姿があった。
普段から整った身なりを崩さない彼女ではあるが、今日は騎士として町を見回っているわけでも、レイズから何か仕事を任されているわけでもない。目的はもっと穏やかで、そしてディアナ自身、少し困ってしまうようなものだった。
事の始まりは、少し前に遡る。
「そろそろレイズ様がお帰りになるはずです」
そう切り出したクリスは、何やら妙に真剣な表情でディアナへ金銭の入った袋を差し出してきた。
「ですのでディアナ。貴女には、レイズ様がお喜びになりそうな物を、これで買いに行くことを譲ります」
「…………はい?」
あまりにも意味の分からない言葉に、ディアナはしばらく差し出された袋とクリスの顔を交互に見比べた。
「何を言っているのですか!? 抽象的すぎて意味が分からないのですが! そもそも『譲ります』って……これ、命令ですよね!?」
「何を言っているのですか!!」
「どうしてクリスさんが怒るんですか!?」
「本来なら私が……私がやりたいことなのです!! レイズ様がお帰りになるのですから、何をお喜びになるのか考え、町を巡り、最高の品をこの手で探し出し、直接お渡しする! 本来なら私がやるべきことなのです! それなのに私は、レイズ様が残された仕事をこなすのに忙しいというのに……!」
クリスは本気で悔しそうだった。
ディアナはそんなクリスをしばらく眺めたあと、だったら簡単な話ではないかと首を傾げる。
「それなら、私も仕事を手伝いますから、一緒に買いに行きませんか?」
「いいえ」
即答だった。
「…………どうしてですか?」
「ディアナ。貴女はもう忘れたのですか?」
クリスは深刻そうに首を振る。
「私とディアナが共に町を歩けば、それこそ買い物どころの騒ぎではありません。貴女はあまりにも目立ちすぎるのですよ」
「…………私が?」
その瞬間、近くで話を聞いていたイザベルが盛大に吹き出した。
「アハハハハハ!! なんでディアナのせいにしてんのよ!?」
「何がおかしいのですか、イザベル様」
「どう考えてもクリスも原因でしょうが! 二人で歩いたから騒ぎになったのに、なんで全部ディアナが悪いみたいになってんのよ!」
「私は普通に歩いていただけです」
「ディアナだって普通に歩いてただけでしょうよ!」
もっともな指摘だった。
ディアナも苦笑いするしかない。
すると今度は、そのやり取りを聞いていたリアノとリアナが、おずおずと手を挙げた。
「あの……それでしたら、私達が買い出しに行きましょうか?」
「私も行きます!」
リアナもすぐに続く。
するとイザベルまで勢いよく立ち上がった。
「ずるいずるい! それなら私も行くー!」
「いけません」
「なんでよ!?」
再びクリスがぴしゃりと言い切った。
「リアナとリアノには、学院へ向かうための準備があります。レイズ様は多方面に類い稀なる才能をお持ちなのですから、少しでも遅れを取ることのないよう、今のうちにイザベル様からしっかり教わってください」
「なんで私がそんなことしないといけないのよ!?」
「イザベル様も学院へ通われていたのでしょう?」
「通ってたけど! だからって私が先生になる必要ないでしょう!?」
そんなイザベルの抗議を聞きながら、リアノは申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません……私達のせいで、イザベル様にまで……」
「私は大丈夫です!」
対照的に、リアナは胸を張っていた。
「私はレイズ様と一緒に、できるだけ早く卒業してアルバードへ戻ってきますから!」
「…………」
イザベルがじっとリアナを見る。
「リアノはともかく……リアナは確かに心配だよね」
「どうしてですか!?」
決して、リアナがリアノより頭が悪いという話ではない。ただ、リアナには一つだけ大きな問題があった。何かを教えていても、いつの間にか話題がレイズへ移り、そこから恋の話になり、気が付けば勉強とはまるで関係のない方向へ進んでしまうのである。
最初のうちはイザベルも楽しんで話に乗っていたのだが、何を話しても最後には色恋へ辿り着くリアナに、最近では少し疲れ始めていた。
「……分かったわ。リアナ、リアノ。今日は眠れると思わないでよね? 徹底的に教えてあげるから」
そう宣言した直後。
「ふぁぁぁぁ……」
イザベルが大きなあくびをする。
ディアナは呆れたように目を細めた。
「今、一番眠りそうな人が何か言っていますね……」
「うるさいわね!」
賑やかな声が響く中、ディアナは改めてクリスへ視線を向ける。
「それにしても……クリスさん?」
「なんでしょう」
「ちゃんと覚えていますからね。貴方が以前、私の手を握って……皆さんの前で、あんなことを言ったこと」
「ええ。もちろん覚えています」
クリスは何の動揺もなく頷いた。
「ディアナ。あの時は大変にお見事でした」
「…………」
「何ですか?」
「いえ……もういいです」
ディアナは小さくため息を吐いた。
やはり、この男には何も伝わっていない。
そんなやり取りを経て、結局レイズが喜びそうな物を探すという、あまりにも曖昧な使命を押し付けられたディアナが、今こうして一人で町を歩いているのである。
思い返してみれば、自然と笑みが漏れた。あれだけ人目のある場所で堂々と自分の手を握りながら、本人にはまるで特別な意味がないのだから困ったものである。
「どうせなら……恋人宣言とかしてくれればいいのに……」
ぽつり。
口から漏れた自分の言葉に、ディアナ自身が固まった。
「…………あ」
数秒遅れて頬が赤くなる。
「い、今のは……何でもないですから……」
誰も聞いていないというのに、慌てて周囲へ言い訳する。
もちろん、ディアナ自身も分かっている。クリスが自分へ向けている感情は、今のところそういうものではない。彼の頭の中の大部分を占めているのは、どう考えてもレイズである。
それでも、いつからだろう。
気付けばディアナは、クリスのことを考える時間が随分と増えていた。
「いつか……伝えられる時が来るのでしょうか……」
その声には、先ほどまでとは違う穏やかさがあった。
元王国騎士であり、座位四位にまで上り詰めたディアナが、今もなおアルバードへ仕え続けている最大の理由はレイズだった。王国と魔族、敵と味方という単純な線引きだけで人を判断せず、それでも守るべきもののためならば前へ出る。そんなレイズの在り方が、ディアナにとってあまりにも眩しく、そして理想的だったからこそ、この少年を支えたいと自ら決めた。
だが、今ではそれだけではなくなっている。
その理由の一つが、クリスだった。
かつて王国の騎士達がアルバードへ攻め込んできた時、ディアナはデュランと言葉を交わした。どうにか止められないかと話した。それでも、すでに事態は彼女一人の言葉で止められる段階を越えていた。
王国の騎士達を前にして、自分はここで死ぬのだろう。
あの時のディアナは、本気でそう思っていた。
王国から見れば、自分は裏切り者に映ってもおかしくない。かつて同じ場所に立っていた者達から刃を向けられ、このまま殺される。それも仕方がないことなのかもしれないと、ほんの一瞬だけ受け入れかけていた。
その時だった。
王国の騎士達を一瞬で吹き飛ばし、自分の前へ立った男がいた。
クリス。
あの背中を見た瞬間のことを、ディアナは今でも鮮明に覚えている。
嬉しかった。
ただ命を助けてもらったからではない。
自分をアルバードの仲間として認め、守るべき者としてクリスが迷わず前へ出てくれたことが、何よりも嬉しかった。
そしてディアナがクリスに惹かれた理由は、その圧倒的な強さだけではない。
あの時のクリスなら、王国の騎士達を殺すこともできた。
だが、殺さなかった。
座位騎士を含む者達に囲まれながら、必要以上に命を奪うことなく制圧することを選んだ。その難しさを、元座位騎士四位であるディアナは誰よりも理解している。圧倒的な実力差があれば簡単だと思われるかもしれないが、複数の強者を相手に、殺さず、味方も守り、自分も傷を負わずに戦いを終わらせる。それは、ただ強いだけではできない。
たとえグレサスほどの力を持っていたとしても、決して簡単な話ではない。
「クリスさんは……すごく立派な人なんですよね」
歩きながら、ディアナの口元が緩んでいく。
「それに、すごく優しい人で……」
さらに緩む。
「……すごく、格好いいですし……」
自分で口にして恥ずかしくなり、また頬が赤くなる。
そして少し考えたあと。
「でも……すごく馬鹿なんですよね」
「フフフ……」
とうとう自分で笑ってしまった。
そんな上機嫌なディアナが町を歩いていれば、当然ながら目立つ。王国にいた頃から、その容姿と人柄を含めて“王国の宝”とまで称された女性である。だが今の彼女へ向けられる視線は、かつてのような遠巻きの憧れだけではなかった。
「あっ! ディアナ様!」
「こんにちは」
「今日はクリス様はいらっしゃらないんですか!?」
「え?」
いきなり投げかけられた質問に、ディアナが僅かに目を丸くする。
すると別の人間まで面白そうに声を上げた。
「もしかしてディアナ様、クリス様へのプレゼントを探してるんじゃないですか?」
「…………」
否定しようとした。
だが少し考えて。
「ええ。何か素敵な物でもあれば、それもいいかもしれませんね。お勧めはありますか?」
「おおおおおっ!!」
「本当に!?」
「ディアナ様、それならこっちです! 絶対クリス様も喜びますよ!」
「ちょっと待て! そっちよりこっちの方がいいって!」
「ねーねー、ディアナ様!」
今度は子供達まで駆け寄ってくる。
「レイズ様とクリス様のお話して!」
「またですか?」
「聞きたい!」
「俺、クリス様が騎士を吹っ飛ばした話がいい!」
「私はレイズ様のお話!」
「はいはい。分かりましたから、皆さん一度に話さないでください」
困ったように笑いながらも、ディアナは一人一人へ丁寧に応えていく。
王国にいた頃、宝とまで称された女性。
それでも今の彼女は、手の届かない場所から眺められるだけの存在ではない。町へ出れば人々から声をかけられ、子供達が駆け寄り、時にはクリスとの関係まで遠慮なく茶化される。
そしてディアナ自身も、それを嫌がってはいなかった。
むしろ。
こんな距離の近さを、心地よいとさえ感じていた。
王国の宝と称された乙女は、いつの間にかアルバードの日常の中へ溶け込み、その明るさを作る一人として確かな居場所を得ていたのである。
だからこそ。
その穏やかな日常へ飛び込んできた声は、あまりにも異質だった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
遠くから、誰かが走ってくる。
「……?」
ディアナが振り返る。
女性だった。
顔を真っ赤にし、息を荒らしながら、それでも必死に走っている。
「あ……!」
そしてディアナを見つけた瞬間。
「ディアナ様!!!」
「……っ!」
その尋常ではない様子に、ディアナの表情が一瞬で変わった。
先ほどまで頬を赤くしていた女性の顔ではない。
元王国座位騎士四位。
幾度も戦場を経験してきた者の顔へ戻る。
「どうしたのです?」
ディアナは自分から女性へ駆け寄り、その身体を支えた。
「大丈夫ですか? まず息を整えてください」
「はぁ……はぁ……! だ、大丈夫……です……」
「何がありました?」
「え……えっと……」
女性は必死に呼吸を整えながら、それでもどう説明すればいいのか分からない様子で言葉を探していた。
「特に……何かが起きた……というわけじゃないんです……」
「…………はい?」
ディアナが僅かに眉を寄せる。
これほど必死に走ってきたにもかかわらず、何も起きていない。
普通ならば意味の分からない話だった。
「でも……ヌェさん達が……」
「ヌェさん?」
「はい……急に私達へ、ここから離れろって……」
「…………」
「いつもと全然違ったんです。ヌェさんだけじゃありません。他の魔族の方々も……みんな……私達を後ろに隠すみたいに前へ出て……」
その言葉を聞いた瞬間。
ディアナの目から、僅かに残っていた柔らかさが消えた。
「それは……誰かが来たからですか?」
「はい……たぶん……」
「どのような人物でした?」
「人……だと思います」
「人?」
「でも……分からないんです。見た目は人間なんですけど……なんだか普通じゃなくて……すごく嫌な感じがして……」
女性の声が震える。
「ヌェさん達……あの人が何かしたら、私達を守ろうとしているみたいで……だから……もしかしたら今頃、ヌェさんも、他の魔族の方々も……!」
「分かりました」
ディアナは女性の肩へそっと手を置いた。
「大丈夫です。まず、詳しく聞かせてください」
「ディアナ様……」
「その人物の外見、どちらから来たのか、ヌェさん達が何と言っていたのか。覚えている範囲で構いません。一つずつで大丈夫ですから」
「は、はい……!」
女性が頷く。
ディアナはまだ知らない。
その人物の名を。
ガイル。
百年以上もの間、魔族の中で戦い続け、人でありながら人を憎み、今まさにレイズという少年を試すためにアルバードへ足を踏み入れた男。
そしてガイルもまた知らない。
自分の存在を知らせようと走り出した一人の女性が、最初に出会った相手が誰だったのかを。
本来、彼女が知らせようとしていたのはクリスだった。
だが、その途中で偶然出会ってしまったのは――王国で“宝”と称され、かつて座位四位にまで上り詰めた騎士。
ディアナ。
彼女は、危険かもしれないという話を聞いて、ただ誰かへ伝えるだけで済ませるような人物ではない。
ましてや。
危険に晒されているかもしれない者の中には、つい先ほどまで自分へ笑いかけていたアルバードの人々と、彼らを守ろうとしている魔族達がいる。
「…………」
女性の話を聞きながら。
ディアナの瞳が、静かに鋭くなっていく。
まだ何も起きてはいない。
誰かが襲われたわけでもない。
血が流れたわけでもない。
だからこそ、この時点で事態を止めることができれば、それが一番いい。
そう考えることは。
騎士として。
そして今のアルバードを大切に思うディアナとして。
あまりにも自然なことだった。
だから、この時。
誰も知る由もなかった。
ガイルの存在を最初に聞きつけた者が、よりにもよってディアナだったこと。
その小さな偶然が。
やがてアルバードを巻き込む大きな騒動へ繋がっていくことを――。




