試されているのは……
そしてついに、ガイルはアルバードと魔族領を隔てる境界へと辿り着いた。もっとも、本人には境界を越える緊張感など欠片もない。隠れるつもりもなければ、気配を殺してこっそり侵入しようなどという発想もなく、ただ堂々と真正面から歩いている。その表情には満面の笑みすら浮かんでおり、この先でレイズという人間に会えることを、心の底から楽しみにしているのが分かるほどだった。
ガイルにとってアルバードは、すでにかなり都合よく解釈された存在になっていた。王国と敵対しながら魔族を殺すことを選ばず、魔族領と盟約を結び、人間でありながら人間だけを選ばなかった場所。そこにいるレイズという少年は、きっと自分と同じように人間という生き物の醜さへ気付き、魔族という存在の在り方を理解した人間なのだろう。百年以上生きてきて、ようやく現れたかもしれない同志。王国をどうするのか、人間をどうするのか、魔族をどうするのか。そんなことを考えるだけで自然と口元が吊り上がり、ガイルは楽しそうに笑いながら歩き続けていた。
「ククク……楽しみじゃねぇか」
だが、その上機嫌な笑みを少しずつ壊していく光景が、境界の手前からすでに広がっていた。
「……ぁあ?」
ガイルの歩みが僅かに緩む。そこには魔族達がいた。それ自体は何もおかしくない。この辺りはアルバードと魔族領の境界であり、魔族がいることなど珍しいことではない。だが、問題はその魔族達の中に、当然のように人間が混じっていることだった。
「ヌェさん、今日は向こうまで行くんですか?」
「ぁあ。そのつもりだ……」
「なら帰りにまた寄ってくださいよ。昨日の話の続き、まだ聞いてませんから」
「ハハハ。覚えておったのか?」
「そりゃ覚えてますよ!」
人間が魔族へ普通に声をかけ、魔族もまたそれを当たり前のように受け入れている。警戒している様子も、互いに距離を測っているような雰囲気もない。笑って話し、まるで昔からそうしてきたかのように同じ場所で過ごしている。その光景を見たガイルの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「……なんだ、ありゃ」
盟約を結んでいるという話は聞いている。だから、ある程度の交流が生まれていること自体は理解できる。だがガイルが想像していたものは、もっと利害で繋がった関係だった。王国という共通の敵がいるから一時的に手を組み、互いに利用価値があるから同じ場所に立っている。せいぜいその程度だと思っていた。
だが、目の前の光景はまるで違う。人間が笑い、魔族も笑う。そこにあるのは、一時的な協力関係というよりも、すでに生活そのものが混じり始めているような穏やかさだった。
そして、その空気がガイルの姿に気付いた瞬間に変わった。
「……っ」
先に反応したのは人間ではない。魔族達だった。ガイルという名を知らない人間達と違い、魔族達は遠くから歩いてくる男が何者なのかをすぐに理解する。百年以上、魔族の中で戦い続け、魔族でありながらその名を知らぬ者はほとんどいないほどの存在。ガイル。
先ほどまで穏やかに笑っていた魔族達の顔から、すっと表情が消える。だが、そこで彼らが取った行動は、ガイルにとってさらに理解し難いものだった。
誰も武器を抜かない。魔力を高めて威嚇する者もいない。ただ、それでも明らかに分かるほど自然に、魔族達が人間の前へ出た。
「……ぁあ?」
一人の魔族が人間の女性より半歩だけ前へ出る。別の魔族も、人間の老人とガイルとの間へ身体を入れる。さらにもう一人が、偶然そうなったように見せかけながらも、明らかに人間を自らの背後へ隠していた。
戦う構えではない。だが、ガイルには分かる。自分が少しでも人間へ手を伸ばせば、こいつらは迷わず前に出てくる。勝てるはずがないことなど理解しているだろう。それでも、命を懸けてでも人間を守ろうとしている。
「…………」
その瞬間、ガイルの顔から笑みが消えた。
「ヌェさん?」
背後へ隠された女性が、不思議そうに魔族へ声をかける。
「どうしたんですか?」
「心配するな。少しだけ、ここから離れていろ……」
「はい? どうして……」
「なに、気にするんじゃない。少し向こうへ行っておれ……」
「……えぇ、ええ」
女性は納得していない様子だったが、魔族の雰囲気がいつもと違うことだけは感じ取ったらしく、戸惑いながら頷いた。周囲の人間達も同じだった。なぜ突然、魔族達が自分達を庇うように前へ出たのか、その理由が分からない。
だからこそ、人間達の視線が自然とガイルへ向けられる。
「あの人……人、ですよね?」
「たぶん……」
その言葉を聞いたガイルの額に僅かに青筋が浮かんだ。見た目だけで言えば確かに人間だ。だが、その身体を覆う魔力は人間のものとは到底思えないほど濃く、荒々しく、長い年月を魔族の中で戦い続けた結果、もはや人間と呼ぶにはあまりにも異質な気配を放っている。
本来なら、それだけでも普通の人間は逃げ出していておかしくない。だがアルバードの人々は逃げなかった。なぜなら、彼らはすでに魔族と共に過ごすことへ慣れているからだ。身体へ魔力を纏わせて歩いている魔族など珍しくない。鍛錬のため、肉体を守るため、あるいは長年の癖として無意識に魔力を纏っている者もいる。それでも、そこに殺意がなければ危険ではないことを、人間達は日々の暮らしの中で知ってしまった。
強大な魔力を持っていることと、自分達を傷つけることは同じではない。
その経験があるからこそ、目の前にいるガイルの異常さへすぐには気付けなかった。
「……なんか」
一人の女性が小さく呟く。
「嫌な予感がする……」
理由など分からない。ただ、ヌェ達の様子がおかしい。いつもなら人間へ向ける穏やかな表情がない。明らかに、あの男を警戒している。
女性は少し迷ったあと、踵を返した。
「私、ちょっと行ってきます!」
「待て!」
「すぐ戻ります!」
そのままアルバードの方角へ走り出す。ガイルは追わなかった。ただその後ろ姿を眺め、それからゆっくりと魔族達へ視線を戻した。
「……人間なんか守るのかよ」
誰も答えない。
ガイルの中で、いくつもの考えが一気に巡る。アルバードと盟約を結んでいる。ならば、あいつらはアルバードの人間なのだろう。そう考えれば、一応は筋が通る。
「……ぁあ、そういうことかよ」
ガイルは面倒臭そうに頭を掻き、そして人間達へ顎を向けた。
「良かったな。王国の奴らだったら問答無用でぶっ殺してるぜ?」
「……っ」
そこでようやく、人間達の表情が固まった。だが魔族達は、それどころではない。
「頼む……ここにいる人々には何もしないでくれ。彼らは……」
一人の魔族が、低い声で懇願するように言った。
「何もしていない……」
「分かってるぜ?」
「…………」
「分かってるって言ってんだろ。戦う気がねぇ奴に興味ねぇよ。くそが」
ガイルは手をぶらぶらと振り、そのまま魔族達の間を通り抜ける。誰も止められなかった。止めればどうなるのか、全員が理解している。それでもガイルが人間へ視線を向けるたび、魔族達は僅かに身体を動かし、何かあればすぐに割って入れる位置を取っていた。
「……意味分かんねぇな、てめぇら」
それが、ガイルには気に入らなかった。
「俺様の方がどう考えても味方だろうがよ」
百年以上、魔族と共に生きた。魔族と戦い、魔族を守り、魔族に守られ、そして魔族を受け入れようとしたルイガスを殺した人間を今でも憎んでいる。
なのに。
その魔族達が人間を背後へ隠し、自分へ警戒を向けている。
「ったく……」
舌打ちを一つ残しながら、ガイルはそのままアルバードへ足を踏み入れた。
◇
「はぁ……はぁ……!」
その頃、先ほど境界を離れた女性は必死に走っていた。胸が苦しく、息も続かない。それでも足を止めることはできなかった。
「ヌェ……それに、他の皆さんも……」
あんな顔をしているヌェを見たことがない。他の魔族達もそうだ。あの男を見た瞬間に、自分達を守るように前へ出た。
理由は分からない。
何者なのかも知らない。
それでも。
「伝えなくちゃ……!」
何かが起きる。
「伝えないと……クリス様に……アルバードへ!」
女性は走り続けた。あの男が来たことを、一刻も早く知らせるために。
◇
一方で、そんなことなど知らないガイルは急いですらいなかった。アルバードへ入ってからもゆっくりと歩き、周囲の建物や人々、魔族、そして時折混じっているダークエルフらしき者達へ視線を向けている。
「……なんだここ」
妙な場所だった。
人間がいる。魔族がいる。さらに、そのどちらとも少し違う者達まで同じ場所を歩いている。それなのに争っていない。むしろ当たり前のように言葉を交わし、同じ道を歩いている。
理解できない。
いや、ガイルにとっては、理解したくないという方が近かった。
「なんなんだよ……」
そんなことを呟きながら歩いていると、道の脇に妙なものがあることへ気付いた。石で作られた小さな装置。その側には短い文字が刻まれている。
『喉が渇いたら、魔力を注げ』
「……ぁあ? なんだこれ?」
ガイルは眉をひそめたものの、試すこと自体は嫌いではない。適当に手を置き、ほんの僅かだけ魔力を流す。
すると。
ちょろちょろちょろ……。
「…………」
水が流れ出した。
「……ぁ?」
ガイルは水を見る。装置を見る。そして、もう一度水を見る。
「なんだこれ……?」
手を伸ばして触れてみるが、普通の水だった。
もちろん、ガイルにとって水が出てきたことそのものに驚きなどない。水が欲しければ自分で作れるし、火が欲しければ起こせばいい。光が欲しければ照らせるし、風が欲しければ起こせる。長い年月を生き、膨大な魔力と数え切れないほどの魔法を扱ってきたガイルにとって、日常生活で必要になる程度のことなど、ほとんど自分一人で完結できる。
だから、水が出たことそのものはどうでもよかった。
だが。
「……誰でも使えんのか? これ」
そこだけは、少し引っかかった。
必要なのはほんの僅かな魔力だけ。水属性を扱える必要もなければ、高度な魔法を覚える必要もない。ただ魔力を流す。それだけで誰でも水を得られる。
「……なんだよこれ」
ガイルは数秒だけ装置を眺めていたが、すぐに鼻で笑った。
「まぁ、こんなおもちゃでも少しは役に立ってんのか?」
そして興味を失ったように歩き出す。
「ッハ。馬鹿馬鹿しい」
ガイルにとっては、水くらい自分で出せばいい。できないなら、できる者に頼めばいい。強い者が弱い者へ与えれば、それで十分だった。
だからまだ気付かない。
誰か一人の強者に頼らなくても、力の弱い者であっても、自分の手で必要なものを得られるようにする。
そんな考え方が、あの小さな石の装置に込められていることなど。
そして。
そんなものを作った人間が、自分と本当に同じ思想を持っているのかどうかさえ、ガイルはまだ疑っていなかった。
◇
歩けば歩くほど、ガイルの中には少しずつ苛立ちが溜まっていった。
アルバードの人間は敵ではない。
少なくとも、今はそう考えている。
だが、人間と魔族が並んで歩いている。人間とダークエルフらしき者まで同じ場所にいる。そして、魔族達の中にはガイルの存在へ気付く者もいた。
目が合う。
すぐに逸らされる。
また別の魔族と目が合う。
そこにあるのは警戒。
さらに別の魔族から向けられるのは敵意。
「……なんなんだよ」
その視線は、人間に向けられているのではない。
自分に向けられている。
「意味分かんねぇな、てめぇら……俺様の方がどう考えても味方だろうがよ」
人間を憎み、魔族を愛し、魔族のために人間を滅ぼそうとしている。
なのに。
人間ではなく、自分が魔族から警戒されている。
「ったく……アルバードの人間には手を出すわけねぇだろが」
ただし、ガイルには一つ問題があった。
「どいつがアルバードの人間なんだよ……」
見分けがつかない。
アルバードに住んでいる人間なのか。
王国から来た人間なのか。
たまたまここへ滞在しているだけなのか。
ガイルから見れば、全部同じ人間にしか見えない。
「めんどくせぇな……」
もし王国の人間が混じっていたとしても、それを簡単に判別する方法がない。だから今は、全員放っておくしかなかった。
それがまた、少しだけ気に入らない。
「……まあいい」
ガイルは自分へ言い聞かせるように呟く。
「ここはアルバードだ。それに、レイズの場所だ」
せっかく見つけた同志だ。まだ顔すら見ていない。話すらしていない。そんな状態で余計なことをして関係をぶち壊す。
それだけは、ガイルも望んでいなかった。
「ククク……まあ、話が通じる奴ならいいけどよ」
歩きながら、再び口元へ笑みが戻る。
「通じねぇ奴なら……その時は、その時だよなぁ?」
ガイルにとっては、とても単純な話だった。
レイズという男が自分と同じものを見ているのであれば、手を組めばいい。一緒にやればいい。王国を壊し、人間のくだらない秩序を壊し、もっと純粋で、もっと自由で、強い者が弱い者を守る世界を作ればいい。
だが。
もしレイズが違うのであれば。
話が通じないのであれば。
アルバードも結局は。
「人間だったってことだ」
その時は壊せばいい。
ガイルにとって、それだけのことだった。
なぜなら。
今のアルバードに、自分を止められるような化け物はもういない。
少なくとも、ガイルはそう考えていた。
「ヴィルに……セバスか……」
あの二人は、もういない。
ガイル自身、完全に死んだ瞬間をその目で確かめたわけではない。だが、あの戦いの中で二人の命が燃え尽きていく、その現象を見ていた。
仮にあそこから生きて戻ることができたとしても、あれは治癒魔法でどうにかできる領域ではない。
その考えに至ると、ガイルの脳裏に一人の魔族が浮かんだ。
ディアブロ。
目の前で、その身体が崩れていった男。
魔法の頂点にすら届いていたはずの存在。
あれほどの魔力と知識を持っていても、自分自身の終わりを止めることはできなかった。
長く生きれば嫌でも分かる。
治せる傷がある。
救える命がある。
だが、その逆も必ず存在する。
もう治せない。
もう戻せない。
もう救えない。
何をしたところで、どうしようもない終わり。
「……ちっ」
ガイルは舌打ちした。
ディアブロですら止められなかったのだ。ならば、人間であるヴィルとセバスがあそこから元通りになるなど、到底考えられない。
「だから、もういねぇ」
ヴィルも。
セバスも。
あの二人がいないのであれば、少なくともガイルが知っている範囲では、今のアルバードに自分を恐れさせるほどの存在はいない。
「ククク……」
ならば、確かめればいい。
レイズという人間を。
ただし、ガイルにはもう一つ確かめたいことがあった。
「……俺様のこと、どう思ってんだろうなぁ?」
口元がゆっくりと歪む。
直接ガイルがヴィルやセバスを殺したわけではない。
だが、無関係でもない。
自分があの戦いを引き起こした。
その結果、二人の命の消費を早めた。
その事実まで否定するつもりはなかった。
ならば。
レイズは、自分を見た時どうする。
「仇だって怒るか?」
ククッ、と笑いが漏れる。
「俺様を見た瞬間、襲ってくんのか?」
それでもいい。
むしろ、それなら分かりやすい。
「戦うなら殺る。戦わねぇなら、こっちも戦わねぇ」
理由などどうでもいい。
恨み。
復讐。
正義。
そんなものを並べるくらいなら、やるか、やらないか。
それだけでいい。
だが。
レイズという人間が、本当に自分が期待したような人間なのであれば、ただ怒りに任せて、ただ仇だからという理由だけで自分へ襲いかかってくるような人間ではないはずだ。
「ククク……だから試してやるよ、レイズ」
ガイルの笑みが、ゆっくりと大きくなる。
「俺様のことを、ただの仇だと思って見るのか。それとも、俺様が何を考えてここまで来たのか、ちゃんと聞こうとするのか」
ルイガスのことを聞くのか。
魔族のことを聞くのか。
なぜ自分が人間を滅ぼそうとしているのか。
そこまで知ったうえで、それでも自分を否定するのか。
「おまえがその程度の人間なのかどうかもな!!」
「クハハハハハハハ!!!」
ガイルの笑い声がアルバードの空へ響き渡る。その声に、遠くにいた魔族達が振り返り、人間達も何事かと空を見上げる。
そして、そのさらに先では、一人の女性が息を切らしながら必死に走り続けていた。
「はぁ……はぁ……!」
知らせなければならない。
あの男が来たことを。
魔族達が、命を懸ける覚悟で人間を庇ったことを。
何か、とんでもないものがアルバードへ入ってきたことを。
「クリス様に……伝えないと……!」
だが。
ガイルはまだ知らない。
自分が会うことを心待ちにしているレイズが、今はアルバードにいないことを。
そして、もう一つ。
ヴィルはいない。
セバスもいない。
だから、自分を止められるような化け物はもうアルバードには存在しない。
そう。
ガイルは思っている。
だが――。
そのアルバードには。
ガイルがまだ、本当の力を知らない人間が。
一人。
残っていた。




