優しい別れ。
そうして、グレサスとデュランはジュラを後にし、王国へ戻るための帰路についていた。
しかし――来た時とはまるで違う。
あれほど二人を惑わせ、同じ場所を何度も歩かせ、正しい道を見つけたと思えばいつの間にか別の場所へ誘導していたジュラの森が、今は不自然なほど素直に道を開いている。枝葉は二人が進む方向を避けるように左右へ分かれ、足元には歩きやすい地面が続き、まるで森そのものが「正しい道はこちらだ」と教えているようだった。
あまりにも露骨な変化に、デュランは周囲を眺めながら深いため息を吐く。
「はぁ……。私達のこれまでの努力は、いったい何だったのでしょうか」
「知らん」
隣を歩くグレサスは、いつもと変わらない調子で短く答えた。
ただし、その姿だけはいつも通りとは到底言えない。レアリスビーストの一撃によってハクライの上半身部分はほとんど砕け散り、現在のグレサスは上半身をほぼ晒した状態で歩いている。それでも本人は気にした様子もなく、先ほどディアを捕らえるために使った、ところどころ破れた網を肩へ担いでいた。
「だが……得るものは確かにあった」
「そうですね。魔力の結晶もそうですが……」
デュランはそこで少しだけ言葉を止め、横目でグレサスを見る。
「いいのですか?」
「何がだ?」
「レイズ・アルバードの力ですよ。魔力を消し去る、あの不可思議な力。先ほどの状況ならば、本人へ尋ねるにはこれ以上ないほど条件が良かったと思いますが」
レアリスビーストとの戦いの最中、確かにデュランも見ていた。
グレサスの身体から溢れていた膨大な黄金色の魔力。それをレイズが触れただけで消し去った光景を。そしてレアリスビーストが操っていた魔力すら、同じように消滅させていた。
魔力を防ぐのでも、相殺するのでもない。
存在そのものを消している。
王国にとっても無視できない力であることは間違いない。
しかしグレサスは少し考えたあと、不意に笑った。
「一つ、気付いたことがある」
「それは?」
「答えを知らぬ方が面白いということだ」
「…………はぁ」
デュランは何とも言えない顔になる。
「ですが、あれは答えというより、今後の王国とアルバードの関係を考えるうえでも重要な情報なのでは――」
「なぁに、問題あるまい。あの男は再び王国へ現れる」
グレサスは前を向いたまま笑う。
「学院へ入るのであろう? ならばこれから様々なものを見て、様々な経験をし、そしてまだまだ強くなる。その時に、あの不可思議な力を使うあいつを――俺が真正面から叩き潰せばよい」
「叩き潰さないでください。陛下が認めるはずがありませんからね?」
「ハハハハ!!」
「笑い事ではありませんよ」
デュランの冷たい視線など気にも留めず、グレサスは楽しそうに笑い続ける。
「だが、やつの秘密をすべて暴き、弱点まで調べ尽くし、そのうえであれに勝つなど――このグレサスには似合わん! それだけの話だ!」
「……アルバードを相手にするため、様々な知略を巡らせていた方と同一人物とは思えませんね。本当に」
「あれは別格だろう」
グレサスの返答は早かった。
そして、その声から僅かに笑いが消える。
「同等……いや、それ以上の存在が二人もいた。まともにぶつかっていれば戦いにすらならん。それほどの差があったのだ。ならば使えるものをすべて使う。それだけのことだ」
「…………」
デュランは思わずグレサスを見る。
今のグレサスがどれほど強いのか。
それを、このジュラで嫌というほど見せつけられた。
災害級と呼ばれる魔物を相手にしても傷一つ負わず、無数の幻獣を一撃で薙ぎ払い、迷宮そのものすら力任せに破壊した。神獣であるメーレを目の前にしても恐れるどころか興味を失い、ついにはレアリスビーストと真正面から衝突し、吹き飛ばされながら再び戻ってきた。
そんな男が、真正面からでは戦いにすらならないと認めた存在。
ヴィル・アルバード。
セバス・タフガイヤ。
そして現在も健在であるグレサスの弟、ウラトス。
その者達の中心に、今ではレイズ・アルバードがいる。
デュランは改めて考え、静かに息を吐いた。
「……ええ。本当に、戦わずに済んで良かったと思いますよ。心の底から」
「ハハハ! つまらん男だな、おまえは!」
「私は戦いに面白さを求めたことなどありませんので」
そんな会話を交わしながら進んでいるうちに、二人は驚くほどあっさりとジュラの入口付近まで辿り着いてしまった。
入る時にはあれほど苦労したというのに、帰り道には一度として迷わされることがなかった。
デュランは振り返り、静まり返った森を見る。
「…………」
気のせいだろうか。
森そのものから「もう戻ってくるな」と言われているような気がした。
そして再びグレサスへ目を向ける。
上半身はほぼ裸。
ハクライはボロボロ。
肩には破れた網。
この姿のまま王都へ戻るつもりなのだろうか。
「グレサス」
「なんだ?」
「せめて、その網だけは外しておきましょう」
「…………ふざけるな」
「なぜそこだけそんなに大事なのですか……」
デュランの呆れた声を最後に、二人はようやくジュラを後にした。
――その頃。
ジュラのさらに奥深くでは、先ほどまでの騒動が嘘だったかのように穏やかな時間が流れていた。
巨大な木々がゆっくりと左右へ開き、その隙間から夕暮れの陽光が差し込んでいる。黄金色に染まった光は草木を柔らかく照らし、遠くでは小さな魔物達の気配が戻り始めていた。
その景色を眺めながら、レイズは不思議そうに空を見上げる。
「メーレ……ここって、こんなに日当たり良くできたの?」
「今更何を言っている。もとより日当たりは良い」
「いや、だって今までずっと暗かっただろ?」
「必要に応じて木々が動いているだけだ。そもそも光すら満足に届かぬ場所で、どうしてこれほど植物が生育できると思っている」
「あー……それも、そっか」
言われてみれば当然だった。
レイズが一人で納得していると、隣を歩いていたメーレが不意に足を止める。そして何の前触れもなく、小柄なレイズの身体を軽々と持ち上げた。
「わっ!? わ、わわわっ!? なんだよ!?」
そのままレイズを自分の背中へ乗せる。
「なに。おまえの歩みと我とでは、進む速さが違いすぎる。それだけだ」
「だったら先に言ってくれよ……」
「細かいことを気にするな。それより見てみろ」
「ん?」
言われるまま、レイズはメーレの背中から周囲を見渡した。
そこで初めて、息を呑んだ。
地面を歩いている時とはまったく違う。
巨大な木々の隙間から差し込む夕陽が、ジュラの森を黄金色に染めている。遠くには淡い霧が流れ、葉の一枚一枚が光を受けて揺らめき、その向こうにはまだレイズの知らない森が果てしなく続いていた。
危険な魔物が跋扈する死の森。
人間から恐れられ、容易には足を踏み入れることのできない場所。
だが、今レイズの目に映っているジュラは、そんな言葉だけでは到底表現できないほど美しかった。
「……すごいな」
思わず声が漏れる。
「綺麗だ……」
「…………」
メーレが僅かに首を動かす。
「時々思うが、おまえは乙女のようなことを言うのだな」
「なんでだよ!? どう見ても男だろ!?」
「見た目だけなら分からぬぞ」
「分かるだろ!?」
メーレがそう言うのも、まったく理由がないわけではない。
レイズには僅かではあるがエルフの血が流れている。長く伸びた金色の髪に、光を受ければきらきらと輝く青い瞳。そして十四歳という年齢を考えても、その身体はまだ小柄だった。
「それにしても……小さいな、おまえは」
「やめてくれ……。これでも十四歳なんだよ。まだこれからだから。それなりには大きくなるはずなんだ」
レイズには、その確信があった。
自分が知っている未来のレイズは、確かに小太りではあったものの、身長そのものはそれなりに高かった。ならば今の自分も、いずれはそこまで成長するはずだ。
そんなことを考えていると、メーレが何気なく呟いた。
「まるで、未来を知っているとでも言いたげだな」
「…………」
レイズの表情が止まった。
メーレは深い意味もなく口にしたのだろう。
だが、レイズにとっては違った。
自分が未来を知っていること。
この世界がかつて自分の知っていたゲームと酷似していること。
そして、自分が本来のレイズとは違う存在であること。
そのすべてを詳しく話した相手など、ほとんどいない。
「…………メーレ」
「なんだ?」
レイズは少し迷った。
だが、結局その秘密を口にするより先に、別の言葉が出た。
「その……本当に悪かった」
「何がだ?」
「ジュラのことだよ。俺がここへ来なかったら、こんな大騒ぎにはならなかったかもしれない。迷宮だってあんなことになったし……魔物もたくさん殺された。レアリスまで目覚めた」
メーレはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「そんなことか」
「そんなことって……」
「心配する必要はない。魔物は魔物で、人を見つければ食らう。それがジュラだ。人が魔物を狩り、魔物が人を食う。どちらか一方だけを責める話でもあるまい」
「でも……」
「それに、本当に人の立ち入りそのものを禁じているのであれば、我がこのような奥地で待ち構えていると思うか?」
「あ……」
レイズは以前メーレから聞いた話を思い出した。
「そうか……。一応、人が来ること自体は必要なんだもんな」
「その通りだ。外からの来訪はジュラにとっても必要なものだ。何も入れず、何も出さず、それで永遠に循環が続くわけではない」
そこでメーレは僅かに目を細める。
「もっとも――あやつらは歓迎できぬがな」
「……グレサスとデュランか」
「あれほど森を荒らしておいて歓迎されると思う方がおかしい」
「それは……うん」
否定できなかった。
しばらくメーレの背中へ揺られながら、レイズは流れていく景色を眺めていた。
そして少し迷ったあと、小さな声で尋ねる。
「なぁ……メーレ」
「なんだ?」
「その……俺も、またここへ来たら駄目か?」
「…………」
「いや、世界樹の種を取りにとかじゃなくてさ。全部終わったあとでも……また」
メーレは不思議そうに尋ねる。
「世界樹の種を手に入れれば、おまえがここへ来る用などなくなるはずだ。なぜ来る?」
「…………だって」
レイズは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「メーレに会いたいし」
ピタリ。
メーレの足が止まった。
「…………」
「な、なんだよ?」
「…………ハハハ」
「なんだよ!?」
「ハハハハ!! 本当に……おまえという人間は……」
何がおかしいのか分からず、レイズはメーレの背中でむっとする。
だがメーレはそれ以上何も言わず、再びゆっくりと歩き始めた。
「それで、メーレ」
「今度はなんだ?」
「俺がなんでここまでいろんなことを知ってるのか……気にならないのか?」
「気になると言えば気になる」
「やっぱり?」
「だが、気にしていないと言えば気にしていない」
「……どういう意味だよ?」
メーレは前を向いたまま答える。
「レイズ。おまえは我らを正しく知っている。そしてレアリスという存在についても理解している。少なくとも、その知識を用いて我らを害そうとはしていない。我らにとって必要なのは、それだけだ」
「…………そ、そう?」
「おまえがどこで知ったのか。なぜ知っているのか。それを暴いたところで、何が変わる?」
「いや……まあ……そう言われると……」
「フッ……フフフ」
「また笑ったな?」
メーレは答えなかった。
ただ少しして、静かに続ける。
「だが……レイズ」
「ん?」
「おまえがまた来るというのであれば――我は待ってやろう」
「…………!」
レイズの顔が一気に明るくなる。
「ほ、本当に!?」
「ああ」
「そっか……!」
それだけで十分だった。
レイズは嬉しそうに笑うと、そのままメーレの背中へ身体を預けた。ふさふさとした白い毛へ沈み込み、身体から少しずつ力が抜けていく。
メーレはそんなレイズを背中に乗せたまま、ゆっくりと森を進み続ける。
不思議な人間だと、改めて思う。
最初は警戒していた。
自分達についてあまりにも多くを知る人間など、不快ですらあった。
だが、レイズと過ごす時間が増えるにつれて、その感覚は少しずつ変わっていった。
今では、この人間と共にいる時間に不快さを感じるどころか、どこか穏やかなものすら覚えている。
理由も、メーレなりには理解していた。
甘いのだ。
あまりにも甘く、あまりにも優しい。
それでいて、必要な時には自ら前へ立てるだけの強さも持っている。
ディアがレイズの傍にいた時もそうだった。
頭を撫でる手。
声をかける時の表情。
怯えるディアを自分の後ろへ庇った姿。
その一つ一つに打算など見えなかった。
ディアがあれほどレイズへ懐いていた理由には、ディア自身の生まれも関係しているのだろう。
だが、それだけではない。
この人間だからこそ、ディアは傍にいたのだ。
そして――自分もまた。
いつの間にか、この人間を受け入れていた。
どれほど歩いただろうか。
夕暮れだった森は次第に暗くなり、木々の間を通り抜ける光も少なくなっていく。レイズには、自分がジュラのどの辺りにいるのか、もうまったく分からなくなっていた。
やがてメーレが足を止める。
「着いたぞ」
「え?」
レイズは背中から滑り降り、すぐに周囲を見渡した。
「…………どこ?」
木。
草。
また木。
どこを見ても、世界樹らしきものなどない。
「え? どこ!? 世界樹の種どこにあるんだ!?」
キョロキョロと辺りを見回すレイズを見て、メーレが愉快そうに笑った。
「何を探している」
「いや、種だよ! 世界樹の種!」
「だから、ここだ」
「え?」
メーレが前脚を差し出す。
その先にあったものを見て、レイズの目が丸くなった。
小さな種。
あまりにも小さく、知らなければその辺りに落ちている木の実と見分けることすら難しそうなもの。
「…………え?」
レイズは種とメーレを交互に見る。
「えええ!? メーレが持ってたの!?」
「ああ」
「じゃあなんでここまで来たんだよ!?」
「先ほど、おまえが我の背中で気持ちよさそうに休んでいる間に回収しておいた」
「…………」
「言うならば、ここまでの道のりは散歩をしていただけだな」
「ちょっと待てぇぇぇ!!」
レイズの声が森へ響く。
「俺、学院までそんなに時間残ってないんだけど!? 急いでるって言ったよな!?」
「そうだったか?」
「絶対覚えてるだろ!!」
メーレは楽しそうに笑っている。
レイズは文句を言おうとした。
だが――やめた。
小さな世界樹の種を両手で受け取り、大切そうに握る。
「…………ありがとう、メーレ」
「ああ」
そしてメーレが、何気なく前方を指した。
「それと、あちらだ」
「ん?」
レイズが指された方向を見る。
木々の隙間。
その向こうに、見覚えのある景色が広がっていた。
「…………え?」
ジュラの外。
ほんの少し歩けば、森を抜けられる場所まで来ている。
レイズはもう一度メーレを見る。
「メーレ…?」
「なんだ?」
「ここまで送ってくれたのか?」
「散歩だと言ったであろう?」
「…………」
世界樹の種を回収し。
自分を背中へ乗せ。
ジュラの景色を見せながら。
最後には出口まで送り届ける。
それをメーレは、ただの散歩だと言う。
レイズの目が僅かに潤んだ。
「……メーレも、大概に優しいよな」
「何を言っている?」
「なんでもない」
レイズは笑った。
知っている。
ゲームの中でも、メーレはそういう存在だった。
圧倒的な力を持ち、最初は距離の掴みにくい性格をしている。それでも一度仲間として受け入れた相手には、誰よりも頼もしく、そして思っている以上に優しい。
本人だけが、それをまるで自覚していない。
「ありがとう、メーレ」
「礼には及ばぬ」
「…………」
そう答えたメーレの尻尾が、ふり、ふり、と左右へ揺れている。
レイズはそれを見て、なんとなく察した。
だが、何も言わなかった。
「それじゃあ……俺も帰るよ」
「ああ」
「また……全部落ち着いたらさ」
「なんだ?」
レイズは一度だけジュラの外へ目を向け、それからメーレを見る。
「俺と一緒に、この世界を見て回ってみないか?」
「…………」
「俺もまだ知らない場所いっぱいあるしさ。メーレだって、ずっとジュラにいるんだろ? だったらいつか――」
「いつになることやら」
「え?」
「それに、落ち着くなどというものが……レイズ、おまえに訪れると思わぬことだ」
「なんだよそれ!?」
メーレは答えず、ゆっくりと身体の向きを変えた。
ノシ、ノシと。
巨大な白い身体が、少しずつ森の奥へ戻っていく。
「メーレ!」
呼びかけても、振り返らない。
それでもレイズは笑っていた。
嫌だとは言われなかった。
拒絶されたわけでもない。
そして今なら、なんとなく分かる。
きっとメーレは待っていてくれる。
自分がもう一度ここへ来る日を。
いつか本当に、この世界を共に歩く日を。
レイズは手の中にある小さな世界樹の種を大切に握りしめ、遠ざかっていくメーレの背中をしばらく見つめていた。
世界樹の種を手に入れる。
そのためだけに始まったはずのジュラへの旅。
だが、振り返ってみれば――手に入れたものは、それだけではなかった。
「…………またな、メーレ」
小さく呟いてから、レイズもまた踵を返す。
こうして二人は、それぞれの帰るべき場所へ向かって歩き始めた。




