大書斎へゆくぞ!
食事を終えたレイズは、満足げに息を吐くと静かにリアナを呼んだ。
先ほどまで野菜との死闘を繰り広げていた人物とは思えないほど、今の表情は落ち着いている。もっとも、それは周囲が勝手にそう思っているだけなのだが。
「……それでは午後から大書斎へ向かう。手筈は整っているな?」
背筋を伸ばし、堂々と告げる。
その視線が、ちらりとテーブルへ向けられた。
そこには綺麗に空になった皿がある。サラダは一欠片すら残っていない。
リアナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を整え、深く頭を下げた。
「はい、当主様。すべて整っております」
その声には、どこか感慨深いものが混じっていた。
「うむ」
レイズは満足そうに頷き、そのままリアナとともに食堂を後にする。
しばらくして、片付けのために使用人たちが食堂へ入ってきた。
そして――誰もが足を止めた。
「…………」
視線の先にあるのは、綺麗に空になったサラダの皿。
誰かが、震えるような声で呟いた。
「……本当に、乗り越えられたのだな」
別の使用人も静かに頷く。
「ヴィル様がお認めになったとはいえ、正直なところ私はまだ半信半疑でした」
「私もです。まさか、ここまでとは……」
かつてのレイズを知る者ほど、その意味を理解していた。
野菜を食べた。
ただ、それだけのこと。
けれど、彼らにとっては違う。
それは確かな変化だった。
自らを変えようとしている、その証だった。
「我らは……本当に凄い御方に、お仕えできるのかもしれませんな」
一人の使用人が、噛み締めるようにそう呟いた。
その言葉を否定する者はいなかった。
食堂には、静かな喜びが広がっていた。
◇◇◇
大書斎へ向かう廊下の途中。
「当主様!」
聞き慣れた声が響く。
振り返ると、リアノが慌てた様子で駆け寄ってきていた。
「当主様、お体は……本当に問題ないのですか?」
心配そうに身を寄せる。
昨夜の光景が、まだ頭から離れていないのだろう。
けれど、レイズはそんな心配などどこ吹く風とばかりに胸を張った。
そして、腕を曲げる。
ぽこん。
頼りない力瘤らしきものが現れた。
「是非もない……」
実に誇らしげな顔だった。
むしろ、どこか得意げですらある。
リアノは一瞬きょとんとした。
数秒遅れて意味を理解し、心の中で呟く。
(えっと……いや、そういうことじゃなくて……)
聞きたいのは筋肉の話ではない。
昨夜、汗にまみれながら苦しそうに呼吸をし、水すらまともに飲み込めなくなっていた姿。
その光景が、今も鮮明に脳裏へ焼き付いている。
だからこそ、心配だった。
けれど、当の本人はそんなリアノの不安に気づく様子もなく、満足そうに頷いた。
「それでは行ってまいる!」
そのまま軽い足取りで歩き出してしまう。
リアノは小さく唇を噛み締めた。
「……どうか、無理だけはなさらないでください。本当に……」
小さな願いは、残念ながらレイズの耳には届かなかった。
◇◇◇
一方、その頃。
当のレイズ本人はというと――。
(大書斎……)
胸が高鳴る。
(魔法の先生……どんな人なんだろうな……)
さらに高鳴る。
(いったいどれだけ俺をワクワクさせたら気が済むんだ……)
異世界。
魔法。
図書館。
先生。
男の子の夢が全部詰まっていた。
もう止まらない。
口元が勝手に緩んでいく。
「くくくくく……」
笑う。
「ふふふふふ……」
さらに笑う。
そして、とうとう我慢できなくなった。
「ははははははっ!」
廊下に豪快な笑い声が響き渡る。
つい先ほどまでの重苦しい空気など、どこへ行ったのか。
レイズはすっかり上機嫌だった。
まるで遠足を前日に控えた子供のようである。
いや。
実際、その通りだった。
魔法という未知の世界が自分を待っている。
それだけで胸が躍った。
自然と足取りも軽くなる。
そんなレイズの姿を見ていた使用人たちは、思わず作業の手を止めた。
「…………」
あまりにも豪快な笑い声。
あまりにも無邪気な表情。
以前のレイズからは、到底想像できない姿だった。
けれど、誰一人として不快には思わなかった。
むしろ――胸の奥から、じんわりと温かなものが込み上げてくる。
「本当に……変わられましたね」
誰かが、ぽつりと呟いた。
別の使用人も静かに頷く。
「えぇ……本当に」
その瞳には、以前にはなかった光が宿っていた。
希望。
期待。
そして、ほんの少しの安心。
「レイズ様は……本当に、変わられたのですね」
その言葉は、誰か一人へ向けたものではなかった。
けれどきっと。
アルバードに仕える多くの者たちの想いを、代わりに口にした言葉だった。
レイズは知らない。
自分が笑うだけで、救われる者がいることを。
自分が前を向くだけで、未来を信じられる者がいることを。
そんな期待も希望も知らないまま――。
レイズは胸を躍らせ、大書斎へ向かっていくのだった。




