使用人たちの心配
レイズは重苦しい空気の中、静かに席へと腰を下ろした。
食堂に流れる空気は、異様なほど張り詰めていた。
目の前には、小皿に盛られたサラダ。
瑞々しい葉野菜。
薄く切られたトマト。
彩りよく添えられた野菜たち。
ただの一皿。
普通なら、なんてことのない料理。
だが、本来のレイズにとってそれは――強敵のはず。
レイズはフォークを手に取る。
その指先が、わずかに震えた。
カチャリ。
小さな音が、やけに大きく響く。
そしてフォークは、ゆっくりとサラダへ伸びていく。
その裏では――使用人たちが集まって、ひそひそと様子を見守っていた。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「サラダなど口にされたら、体を壊してしまうのでは……」
「無理をなさらなければよいのですが……」
誰もが不安を隠せない。
まるで大きな災厄が迫っているかのように、ざわつきを抑えきれずにいた。
そんな中、リアナが一歩前へ進み出る。
その表情は凛としていた。
もう迷いはない。
リアナは、まっすぐにレイズの背中を見つめた。
「レイズ様……」
小さく呟き、そして首を横に振る。
「いえ、当主様はきっと乗り越えてくださいます。私は、もう迷いません」
その言葉に、使用人たちの瞳が揺れた。
不安に染まっていた表情が、少しずつ変わっていく。
「……そうですね」
「今の…当主様なら、きっと……」
「信じましょう」
やがて誰一人声を発することなく、静かにその場を離れていった。
残されたのは――
サラダと向き合うレイズの姿だけだった。
レイズはごくりと喉を鳴らす。
フォークの先には、一枚のレタス。
それはまるで、立ちはだかる巨大な壁のように見えた。
きっと王国との交渉よりも。
魔族との対峙よりも。
今この瞬間の方が、遥かに重いものだと。
そして――
レイズはついに、そのレタスを口へと運んだ。
当主レイズ。
人生最大の戦いが、今まさに始まった。
そして――。
レイズは静かに、そのレタスを口へと運んだ。
ゆっくりと噛む。
一度。
二度。
三度。
食堂には咀嚼の音だけが響いていた。
誰も声を出さない。
誰も動かない。
ただ、その結果を待っている。
やがて。
レイズの手からフォークが静かに置かれた。
カチャリ――。
小さな音。
そして次の瞬間だった。
ぽたり。
一滴の雫がテーブルへ落ちる。
レイズは俯いたまま動かない。
その肩が僅かに震えている。
さらに一滴。
そしてまた一滴。
涙だった。
静かに。
本当に静かに。
レイズは涙を流していた。
使用人たちは息を呑む。
誰も理由が分からない。
サラダを食べたことで苦しんでいるのか。
それとも。
今まで避け続けていたものを、ようやく口にすることができた喜びなのか。
誰にも分からない。
「当主様……」
思わず誰かが呟く。
だが返事はない。
レイズはただ静かに涙を流し続ける。
その姿は敗北した者にも見えた。
長き戦いを乗り越えた英雄にも見えた。
リアナもまた言葉を失っていた。
誰よりも近くでレイズを見てきた。
だからこそ理解できない。
悲しみなのか。
苦しみなのか。
喜びなのか。
達成感なのか。
その涙に込められた感情が分からなかった。
ただ一つだけ分かることがある。
レイズは逃げなかった。
目の前に置かれたサラダから。
逃げずに向き合った。
リアナは胸の前でそっと手を握る。
そして小さく呟いた。
「おめでとうございます……当主様」
その声はレイズには届かなかった。
けれど。
その場にいた誰もが同じ気持ちだった。
涙の理由は分からない。
きっと本人にしか分からない。
それでも――。
当主レイズが今日、大きな一歩を踏み出したことだけは、誰の目にも明らかだった。




