グレサスという男
迷宮の中で、それまでグレサスとデュランを取り囲んでいた魔物たちが、一斉に動きを変えた。
誰かに命令されたわけではない。統率された撤退でもなければ、メーレが逃げろと命じたわけでもない。それでも魔物たちは、まるで一つの意思を共有したかのように散り散りとなり、グレサスから少しでも遠ざかろうと暗闇の奥へ走り始める。
理由は、あまりにも単純だった。
――生き残るためだ。
「…………ほう」
逃げていく魔物たちを眺めながら、グレサスはどこか楽しそうに目を細めると、それまで大切そうに持っていた網をデュランへ差し出した。
「持っていろ」
「え? あ、はい」
反射的に網を受け取ったデュランの耳へ、直後、小さな金属音が届く。グレサスが腰に下げていた剣を、鞘から完全に引き抜いた音だった。
それだけで、デュランには分かる。
ここまでのグレサスは、あくまで迷宮を探索していた。魔法を使い、網を振り回し、デュランのエアルドオーブまで自分なりに改変して遊びながら、この場所の仕組みを暴こうとしていた。
だが、剣を抜いた。
それはつまり――ここから先は探索ではない。
王国最強の騎士、グレサス・グライオンが、ようやく完全な戦闘態勢へ入ったということだった。
「ハハハッ! 残り余さず狩るとしよう!」
「えっと……私も戦いますが?」
網を抱えたまま尋ねるデュランだったが、グレサスは逃げていく魔物たちから視線すら外さず、「必要ない。俺が一人ですべてやる」と当然のように答えた。
「はぁ……左様ですか」
もはやデュランも、それ以上は何も言わなかった。
グレサスは逃げていく魔物たちを目で追いながら、ほんの僅かな時間だけ考えていた。どうすれば効率よく、そして一体たりとも逃さずにすべてを仕留められるのか。それを考えているのだろうとデュランには分かったが、逃げる魔物たちとは対照的に、その場へ残った存在もいた。
メーレによって生み出された幻獣たちだ。
彼らは逃げない。
そもそも通常の生物と同じ意味での命を持たない彼らにとって、自らの死を恐れる理由などなかった。そして今、彼らに与えられている役割は、自分たちがグレサスを足止めし、その間に本来ジュラで生きる魔物たちを逃がすことだった。
故に躊躇などない。
最初に動いたのは昆虫型の幻獣だった。巨大な身体を一気に加速させ、その先端から伸びる鋭い針をグレサスの胸へ突き出す。それとほぼ同時に上空からは鳥型の幻獣が急降下し、左右からは獣型が牙を剥き、さらに背後からも別の幻獣が襲いかかった。
正面、左右、頭上、背後。逃げ道を完全に塞ぎながら、針、爪、牙、それぞれがグレサスの身体を確実に貫くため、一斉に迫る。
だがグレサスは、その場から一歩も動かなかった。
避けようともしなければ、剣で防ごうともしない。ただ自分へ迫ってくる幻獣たちを眺め、その攻撃方法を確認したところで、僅かに口元を緩める。
「突き刺す攻撃ばかりではないか。……いいだろう」
次の瞬間、無数の幻獣が一斉にグレサスへ絡みついた。
巨大な針が胸へ突き立てられ、牙が肩へ食らいつき、鋭い爪が背中を抉ろうとする。傍から見れば、確実にすべての攻撃が命中したように見えた。
だが――届いていない。
「…………」
デュランはそれを見て、僅かに目を細めた。
すべての攻撃が、グレサスの身体を覆う黄金色の魔力壁によって止められていた。確かに突き刺しているはずなのに、その針も牙も爪も、薄く身体を包んでいる魔力の膜一枚を突破することすらできていない。
「その程度か?」
グレサスが呟いた直後、彼へしがみついていた昆虫型の幻獣が激しく発光した。
その光景を見たデュランの表情が変わる。
「グレサス!」
光が一点へ収束していく。自らの存在そのものを燃料とするかのように魔力が膨れ上がり、逃げることなど考えていない幻獣は、グレサスへ密着したままそのすべてを解放した。
轟音とともに凄まじい爆発が起こった。
爆炎が周囲を飲み込み、衝撃波が地面を抉り、近くにあった木々が大きく揺れる。爆煙によってグレサスの姿すら完全に見えなくなったほどの威力だったが、その煙も長くは残らなかった。
爆発の中心から猛烈な風が巻き起こり、炎も煙も一瞬にして周囲へ吹き飛ばされていく。
そして、その中心から何事もなかったかのようにグレサスが歩いてきた。
傷一つない。
あれだけの攻撃をまともに受けたというのに、その歩みには僅かな乱れすらなかった。
「ふむ……それなりに強い……か?」
「強いなんてもんじゃない……」
デュランは思わず呟いた。
目の前にいる幻獣たちの強さは、決して大したことがないわけではない。災害級の魔物でさえ、本来なら王国の騎士が複数人で連携して対処することを想定するほど危険な存在である。そのうえ、この見たこともない幻獣たちは明確な戦略を持ち、互いに役割を分担し、自らが消滅することすら恐れず、攻撃だけへすべてを振り分けて襲ってくる。
普通の騎士が相手をすれば、むしろ絶望的な状況だ。
それをグレサスは、「それなりに強い」と評価した。
その言葉の意味を、デュランは知っている。
グレサスがその程度の評価を与える相手であれば、それは王国の座位持ちに匹敵していても何らおかしくない。弱いのではない。十分すぎるほど強いのだ。
ただ――相手が悪すぎる。
そんな存在が何体、何十体と襲いかかろうとも、王国最強との間にはあまりにも大きな隔たりがある。
分かっていた。
デュラン自身、嫌というほど知っている。
それでも実際に目の当たりにすれば、結局同じ言葉しか浮かばなかった。
――桁が違う。
戦いになれば、グレサスに軽口を叩く意味などない。危険だと注意を促す必要もない。なぜなら、最後にはすべて一人で解決してしまうからだ。
それがグレサス・グライオン。
王国最強と呼ばれる男だった。
◇ ◇ ◇
「…………なんなのだ、こいつは!!」
迷宮で起きていることを把握していたメーレが、ついに声を荒らげた。
レイズはメーレから溢れ出した余剰魔力をエクリプスによって必死に消しながら、その反応に驚くこともなく叫び返す。
「だから言っただろ!? やめろって言ったのはそういう意味なんだよ! グレサスには中途半端な戦力をぶつけたって……瞬殺されるだけなんだって!」
「…………中途半端、だと?」
「いや!? 違うからな!?」
メーレの巨大な瞳が向けられた瞬間、レイズは慌てて首を振った。
「メーレが弱いとか、ここの魔物が弱いって意味じゃなくてだな!? 普通に考えたら十分すぎるくらい強いんだよ! ただ、あいつ相手だとその……!」
「分かっている! ならばどうしろというのだ!」
「俺に聞くなよ!!」
レイズにだって答えなどない。
中途半端な戦力を投入すればグレサスに蹴散らされる。かといって本当にグレサスを止められるほどの戦力を投入すれば、今度はジュラそのものを巻き込む大惨事になりかねない。
だから最初から戦わせたくなかったのだ。
だが、その時だった。
メーレの表情が変わる。
「……レイズ」
「なんだよ?」
「まずいぞ……」
「え?」
メーレは迷宮の方角へ意識を向けたまま、低く呟いた。
「何か……するつもりだ……」
◇ ◇ ◇
その頃、迷宮の奥ではグレサスが静かに足を止めていた。
周囲では今も幻獣たちが動き続け、遠くでは魔物たちが逃げ、迷宮そのものも侵入者を惑わせるために新たな道を作ろうと膨大な魔力を巡らせている。
それでもグレサスは追わなかった。
ただ静かに目を閉じ、右手に握った剣を僅かに下げ、腰を落とす。
「…………」
その姿を見た瞬間、デュランの表情から先ほどまでの呆れが消えた。
空気が変わった。
先ほどまでグレサスの身体から際限なく溢れ、周囲を黄金色に照らしていた膨大な魔力が、突然その姿を消したように見えた。
だが違う。
消えたのではない。
すべてがグレサスの内側へ引き戻されている。
普段であれば身体から漏れ続けてしまうほど膨大な魔力を、今だけは一滴たりとも逃がさぬよう押さえ込み、それを右肩から腕へ、腕から掌へ、そして握られた剣へと集中させている。
剣身が、ゆっくりと黄金色へ染まっていく。
それなのに、不思議なほど静かだった。
暴風も起こらない。
大地も震えない。
耳をつんざくような魔力の音すらない。
むしろ、これまで騒がしかった迷宮そのものが、グレサスの次の動きを恐れるかのように静まり返っていた。
デュランは息を呑んだ。
「グレサス……?」
返事はない。
やがてグレサスはゆっくりと目を開き、目の前に広がる偽りの森を見据えた。
「見えぬのなら――邪魔なものごと斬ればよい」
それだけだった。
特別な技名もなければ、雄叫びすらない。
グレサスはただ、右手に握った剣を横へ振り抜いた。
その瞬間。
黄金色の光が、迷宮を横一文字に駆け抜けた。
あまりにも速い。
デュランの目には、剣が振り抜かれた瞬間すらまともに映らなかった。ただ視界の中央を一本の黄金色の線が走ったかと思えば、それは瞬く間に左右の果てへ伸び、森も、魔物も、幻獣も、その向こう側にある闇さえもまとめて飲み込みながら、遥か彼方まで突き抜けていった。
だが――音がない。
「…………?」
ほんの一瞬だけ。
迷宮は何事もなかったかのように静まり返っていた。
グレサスはすでに剣を振り抜いている。
光も通り過ぎている。
それなのに何も起きていないように見える。
そして、一拍遅れて。
――シュパァァァァァァァァン!!!
世界そのものが裂けたかのような轟音が響き渡った。
「ッ――!?」
デュランの身体へ凄まじい衝撃波が叩きつけられ、髪も衣服も激しく後方へ煽られる。それと同時に、グレサスの周囲に存在していた無数の巨木へ、まったく同じ高さから細い切断線が浮かび上がった。
一本ではない。
十本でもない。
視界に入る木々、そのさらに奥にある木々まで、ほぼ同時にずれ始める。
その間にいた魔物たちも同じだった。
逃げようとしていた魔物。
グレサスへ襲いかかっていた幻獣。
迷宮を構成する障害物。
それらすべてが、一瞬遅れて切断されたことを思い出したかのように崩れ始める。
ドドドドドドドドドドドドドッ――!!
森が倒れた。
そう表現するしかなかった。
巨大な木々が次々と地面へ叩きつけられ、大地を揺らし、巻き上がった土煙が暗闇を覆う。その間を埋め尽くしていた幻獣たちは光の粒子となって砕け散り、逃げ遅れた魔物たちも一斉に倒れていく。
だが、デュランが本当に目を見開いたのは、その破壊力に対してではなかった。
「…………まさか」
揺らいでいる。
迷宮そのものが。
グレサスが斬ったのは、木々でも魔物でも幻獣でもなかった。
それらをまとめて覆っていた――迷宮の魔法そのものだった。
視界を欺き、音を狂わせ、触覚すら偽り、存在しない森を本物だと脳へ錯覚させていた精密な闇魔法。その一部が、あまりにも膨大な力を叩きつけられたことで維持できなくなり、景色そのものが大きく歪んだ。
ほんの一瞬だった。
偽りの木々が消え、暗闇が剥がれ、その向こう側に本来なら決して見えるはずのない景色が露出する。
そしてグレサスは見た。
白い巨体。
その傍らに立つ、人影。
「…………人?」
デュランも確かに見た。
だが次の瞬間には、迷宮が凄まじい勢いで魔力を巡らせ始め、破壊された箇所を覆い隠すように木々と暗闇が戻っていく。
数秒すらなかった。
すぐに元の迷宮へ戻った。
だが――もう遅い。
「ハハ……」
グレサスの口元が吊り上がった。
「ハハハハハッ!!」
完全に目標を見つけた顔だった。
剣を鞘へ戻したグレサスはデュランのところまで戻ると、先ほど預けた網を当然のように取り返した。
「デュラン。回収は任せるぞ」
「…………はい?」
何を言われたのか一瞬理解できず、デュランが間の抜けた声を漏らす。
だがグレサスはすでにデュランなど見ていない。
網を肩へ担ぎ、先ほど一瞬だけ白い巨体が見えた方角を睨みながら、楽しそうに笑っていた。
「どうやら本命は、あちらのようだな」
「ちょっと待ってください。グレサス?」
「あの白い巨体……間違いないな。それに人影までいた」
「グレサス、待ってください!」
グレサスの足元へ黄金色の魔力が集中する。
嫌な予感しかしない。
「ハハハハハッ!! 捕まえてくれる!!」
「ちょっと!? グレサス、待ってくれ!!」
デュランの制止など聞くはずもなく、グレサスは地面を強く蹴った。
その一歩だけで足元の大地が爆ぜ、次の瞬間には遥か前方へ姿を消している。
「…………」
残されたデュランは、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと周囲を見る。
そこには先ほどの一閃によって倒された大量の魔物たちが残されていた。
「私を回収係に使うなんて……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、デュランはすぐに剣を抜き、一体目の魔物を手際よく切り開いて魔力石を取り出す。
「私はこれでも座位持ちなのですが……それも王国では上位の……」
次。
また次。
文句とは裏腹に、その手際は異常なほど速い。
グレサスを一人で行かせる時間を、可能な限り短くしなければならないからだ。
そして次の魔物へ手を伸ばそうとした、その時だった。
「…………ん?」
目が合った。
デュランと。
コカトリスの。
「…………」
「…………」
コカトリスは地面へ横たわっていた。
完全に目を閉じ、翼も動かさず、まるで先ほどの一閃によって絶命したかのように倒れている。
だが。
今。
確実に目が合った。
「…………お前」
「…………」
コカトリスの瞼が、ほんの僅かに開く。
デュランを見る。
周囲を見る。
切り裂かれた魔物たちを見る。
光となって消えていく幻獣たちを見る。
そして最後に、グレサスが飛び去っていった方向を見る。
「…………」
そっと目を閉じた。
「死んだふりですか?」
「…………」
ピクリ、と翼が動いた。
デュランは呆れたようにため息を吐く。
「別に追いませんよ。今は貴方に構っている暇など――」
「コケェェェェェッ!!」
「うわっ!?」
突然コカトリスが跳ね起きた。
そのまま翼をバサバサと激しく動かしながら、飛ぶというより全力疾走に近い勢いで暗闇の向こうへ逃げていく。
「…………」
デュランはその後ろ姿を眺め、
「……元気ですね」
追わなかった。
今すべきことは一刻も早く回収を終え、グレサスを追うことだ。
「まったく……一人で行かせるほうが、よほど危険です」
誰にとって危険なのか。
そこまでは、もうデュランにも分からなかった。
◇ ◇ ◇
「まずい……」
メーレが立ち上がった。
「まずいぞ。来る」
「グレサスが?」
「それだけではない。今の一撃で、迷宮そのものが僅かに裂かれた。ほんの一瞬ではあるが、内部へ色濃く蓄積されていた魔力が外へ漏れ出してしまった」
「…………迷宮を斬ったのかよ!?」
レイズの顔が引きつった。
もう驚きたくない。
グレサスが規格外なのは嫌というほど知っている。
それでも、あの男は毎回こちらが想像していた基準を平然と越えてくる。
そしてその時、先ほどの轟音に驚いたディアが大きな瞳をぱちりと開き、全身の毛を一斉に逆立てた。
「ディア?」
「…………アイツ」
「え?」
ディアは迷宮の方角を見たまま、僅かに身体を震わせていた。
「アイツ……アイツ……コワイ!! キライ!!」
「…………」
レイズは、その反応に眉を寄せた。
ただ強大な魔力を感じて怯えているようには見えない。
まるで。
これからこちらへ来る存在が、誰なのか分かっているような――。
「ディア……お前、グレサスに会ったことあるのか?」
だが、その答えを聞いている時間はなさそだった。
グレサスはもうこちらへ向かっている。
レイズは迷宮の方角を見据えながら、一歩前へ出た。
「メーレ。ディアと一緒に後ろへ下がっててくれ」
「レイズ……?」
「俺が話す。だから二人とも、絶対に戦わないでくれ」
その言葉を聞いたディアが、逆立った毛をそのままにレイズの隣へ飛び出した。
「レイズ!! ディア!! タタカウ!!」
「…………」
レイズはディアを見る。
ディアもレイズを見上げる。
つい先ほどまで「コワイ」「キライ」と震えていたくせに、レイズが前へ出ると分かった途端、自分も一緒に戦うつもりらしい。
その姿にレイズは一瞬だけ言葉を失い、それから困ったように頬を掻いた。
「いや……戦うつもり、ないからな……?」
「…………?」
ディアが首を傾げる。
そしてその瞬間、迷宮の遥か奥から、何かが猛烈な勢いで大地を蹴りつける轟音が響いた。
レイズの表情から笑みが消える。
もう――すぐそこまで来ている。




